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michianri

Author:michianri
せつない 想い…
つたない ことばたち…
やりきれない 心…

『詩片日記…薔薇園…片想い』

第一章『詩片日記』
surrealiste
 hypochondrie
    ~prologue
       灰川道緒

第二章『薔薇園』
     
       鵜沓 綾

第三章『片想い』

       野川美千夫  

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(c) 片想い…
design by Echizen
photo by mizutama

せつない ラヴレター つたない ことば やりきれない 日々… 


 わたしはそれからしばらくして、あることを思い出した。夢にこのお墓が出てきたのだ。そしてそれはあのお屋敷跡の薮のなかにあった石を思い出させた…ああ、あの石、ライがのっていたあの石…あの石はどこに?どこへ行ったのだろうか。あの石は、お墓?なのか?いくら広いお屋敷と言っても、お墓をお屋敷内に、それも自然石の、そして薔薇園の真ん中に建てるなんて、ありえないと思った。でも、夢は、あの石がお墓だと、言っていたのだ。
 わたしの頭は、あの石と、ライと、そして、林にあったお墓とに占められて、数日間を過ごした。
 あの石はそんなに大きなものではなかったので、薮とともにごっそりとどこかへ持っていかれて、捨てられてしまったのだろうか。もしもあれがお墓だったら、と思うと、わたしは再びわびしさが心を覆ってしまうのを覚えた。なぜなら「お墓」は私にとって、第二の終の住み家として、すでにそのデザインを考えていたからだ。昔の豪族にあるような、宝篋印塔のお墓が好きだった。この形はとても異国的で、どこか宇宙的な雰囲気もあった。この形のお墓を真ん中に建て、その周りを、冬に花咲くヘレボルスで埋めようと考えていた。そのための苗作りもすでに始めていた。英国人の友人から送ってもらったヘレボルスの種子を蒔き、交雑を繰り返して、さまざまな花色の品種を作りつつあった。なかには、ヘレボルス・ウィリディスというグリーン花の原種や、同じくグリーン花で萼片の外側が臙脂色の原種や、非常に可憐な花を咲かせるトルコ産の原種も交配に使っていた。なかに一株だけ、スレートブルーの花があって、それは私のいちばんのお気に入りだった。その花色のみでわたしのお墓を囲む計画もしたが、他にも捨てがたい美しい花がたくさんあって、それらも混植することにした。白に紫色のピコティや、グリーンに臙脂色のピコティや網目は、それはまた美しいものだった。三月に花が咲くと、毎日のように手に花粉をつけて、花から花へ渡り歩いて、交配を手伝った。五月になると果実は自然にはじけて、種子を地上にばら撒き、翌年、無数の子供が芽生えてきた。
 このヘレボルスを植えておけば、私のようなひとり身の人間のお墓でも、淋しい冬に、そばを通るご婦人にふり向いてもらえるのではと思ったのだ。もしよければ、数本手折って花束にしてお持ち下さるとうれしいですと、お墓のなかから声でもおかけしようと思っているのだ。五月の風のなか、果実がはじけそうならば、種子を持ってお帰りになり、お庭に蒔いていただけると、わたしのたましいがよみがえって、またふたたび花を咲かせることでしょうと…
 お屋敷があった空き地の西側を回り込むと、北西方向へゆるやかに登る道が続いている。かつてはこのあたりに寺院があったと聞いているけれど、今はヒノキや灌木に覆われて、土地の人が山菜を取りにやって来るぐらいだった。わたしがここに終の住み家を決めたのも、この家の可愛らしさもあったが、山林が近くにあり、植物画のモデルにする樹木類がたくさんあったからだった。わたしはとくに灌木類が好きで、種子を蒔いては苗を育て、庭を少しずつ薮のようにする計画があった。ハーブ類は日光を好むものが多く、共生はむずかしくなるけれども、家の軒下をハーブの居場所にしようと考えていた。パズルのような可愛いハーブ花壇は残したかったけれど、しだいにシュラブの苗に侵食されて、ハーブたちはしだいに家の脇へと追いやられていた。
 もちろん、軒下はハーブたちにとっては、最適の場所で、日当りと、乾燥を好む彼らは、かつての住処を灌木たちに奪われてしまったことを恨むでもなく、壁際でいい顔をして、澄ましていた。
 そのなかのキャットニップにライはいつも寝そべって、眼をつむり、なにも考えないでいることが幸せのような表情をしていた。わたしもライと三年もいっしょにいたせいで、だいぶライの顔色がわかるようになっていた。淋しそうな顔に見えるときが多いのは、不思議な眼の色と、それにそぐわない毛の色彩のせいだったかもしれない。なにか、わたしの心を掴んだときや、別のなにかを見たときには、眼を一瞬大きく見開いて、左右の色の違う宝石を輝かせた。
 あの時もそうだった。ライを抱いて、お屋敷裏の林へ続く道を散歩していたとき、突然ライが顔を上げて、眼を見開いたのだ。ヒノキの向こうになにかがいたのだ。わたしには見えなかったが、ライはそれを見て、反応し、耳を立てた。わたしは道をそれて少し薮のなかへ入ってみた。林のふちは、イネ科や、シソ科の植物が茂り、つる草が灌木によじ登って、釣鐘状の薄紫の花を咲かせていた。その向こうのヒノキの幾本か並んだ陰に眼をやると、人のようなものが見えた。もう少し近づくと、それは人ではなく、地衣類を被った石だった。先の方がやや太くなっている円柱形の石塔だった。わたしはゆっくりとそばへ行き、その石を撫でてみた。ぽろぽろと、灰青い地衣類が落ちて、石の肌を見せた。風化したそれは、死人のように白く、石のぬけがらに見えた。
 これはたぶんお墓であろう。それも僧侶のものであろうか。ライはすでに眼を閉じて、わたしの腕のなかで眠っていた。
 誰にもかえりみられずに、ひっそりとたたずんでいる。この薮のなかに、いつからあったのだろうか。わびしさがわたしの心にのしかかってきた。たましいはいずこにあるのか、わたしにはわからないけれど、向こうの倒れた石塔の陰に、イチヤクソウが咲いている。たましいのよりどころが花であるならば、この花がそうであってもいいと、わたしは思った。
 その後わたしは、眠るたびに同じ夢を見るようになった。顔のわからない、または、顔の見えない女性が「ライ」をその胸に抱いて、あの巨木に似た木につぶされたわたしを見下ろしている、夢を。
 わたしは常に、眼を見開いて、すべての状況をつかんでいるつもりだったが、その女性の眼は、わたしがなにも理解していないことを伝えていた。わたしは助けを求めることはしなかったが、わたしの腕は助けを求めるがごとく、上方へ差し出されていた。彼女はわたしの親しい人のようだと、ある人が言うので、わたしはいつもその見えない顔を確かめようとするけれど、首自体存在しない人間のように、頭部はまったくの暗闇だった。
 この夢の不安定さは、わたしが幼い頃、眠るごとに見たものと同じだった。その夢は、ある地点からある地点まで、わたし自身が移動するのだけれども、わたしはひとつの球体で、その球体が波立った地形に、揺らぎながら、あるいは震えながら、また跳ねながら、移動していく夢だった。目覚めたときの不安な心持ちは例えようもなく、いつも、母に抱きついては、その均衡を失った心のバランスを取り戻そうとした。
 その例えがたい心の空白に似て、この夢もまた、わたしの心にぽっかりと穴を穿った。なにがそれを充たしてくれるのか、じっと、わたしは待つしかなかった。

 巨木はしばらくのあいだ、広い空き地の中央に頭を向けて横たわっていたが、切り株との距離がありすぎたのか、樹木のたましいがしだいに薄くなっていくように、葉も垂れていき、ついには緑色のまま枝を離れていった。幹の洞は暗さが増していき、はちきれそうだった瘤も、心なしかしぼんでしまったように見えた。
 わたしはライとともに、玄関ポーチのナーシングチェアに座り、お茶をすすりながら、夕暮れに向かって黒々としていく巨木の遺骸を眺めていた。
 一台の車がやってきた。空き地になったお屋敷跡に入っていき、巨木のそばに止まった。男がひとり降りて、木に向かって手を合わせた。亡くなった人々の冥福を祈っているのだろう。そして、スケールを取り出して、幹まわりや長さを計り始めた。それは、遠くから見ると、黒い森に蠢く動物のように見えた。たぶん明日にでもこの木を切り刻むのだろう。そのために、祈りと、計測をし、最後の人間らしさを、この巨木に伝えようとしているのだ。わたしとライは、黙ってその光景を見つめた。静かに夏の陽は傾き、ひぐらしの声とともに、森の向こうに白くかすみながら沈んでいった。
 あの日、お屋敷の森が壊されるとき、ライはどこかに消えていた。わたしには動物を飼っている感覚はなかったので、別に気にはしなかったけれど、薮が取り払われ、お屋敷の囲みの森までもしだいに取り除かれていくと、とつぜんに、ライに逢いたくなり、庭を探したが、どこにもいなかった。ただわたしは不思議なものを見た。お屋敷の門のところにある大木を最後に切り倒すとき、その木を登っていく動物を見た。木の下ではチェーンソーが唸り、木のてっぺんは、クレーンがその頭をつかんでいた…まるで樹木のたましいを引きちぎるかのように、ワイヤーが天に伸びていた。そのなかを、一匹の猫が…ライかどうかはわからなかったけれど、まるで、樹皮に融け込んで移動する小動物のように、登っていくのを見た。後になって考えると、幻を見たような気もしたが、その不思議な印象は確かに残っていて、わたしの頭を混乱させたので、幻ではなかったと思いたかった。
 その巨木は高く吊り上げられていった。はるか上空にそびえるクレーンの腕が、夕日に赤く染まって、その木のための絞首台のように見えた。
 わたしは玄関先に椅子を持ち出して、それを眺めていた。お屋敷のレンガ塀も、門もすでに取り払われて、その木が一本残っていた数日間、わたしはこうやって、その木の命運を考えていた。ほんとうに切り倒すのだろうか。…大人ふたりが手を伸ばしてようやく幹を囲めるほどの大きさで、こぶや、穴がたくさんあり、なめらかなねずみ色の肌をより白く浮き立たせていた。葉は常緑で艶があり、役目を終えた黄色い葉をところどころに残していた。花は、立春の頃に咲き、わたしの家までもいい香りを届かせていたのに…巨木はなぜ神々しく感じられるのだろう?数日間、玄関ポーチの椅子のなかで、わたしは考えた。存在の静けさ?永い時を経た孤立感?なにものにも動じない絶対感!…とつぜん、ピシッピシッという音が、空中に伝わった…ああ、ワイヤーが一本一本上下にめくれていく…そして、クレーンの腕が、やや上方に跳ねた瞬間、この木がゆっくりと下へ沈み、倒れ始めた…海が波立つような音を立てて、トラックと、作業をしていた人々の上に被さった。だれひとり身動きしなかった。身動きできなかった。静かに上を見あげて、自らの運命を省みて、罰を受け入れるごとく、だれもがただ呆然と巨木の行方を見ていた。そして、自分たちの身体を包んでくれる樹木に対して、感謝するように、胸の前へ手を差し出した…
 木の下敷きになった人々もいたが、そうでなかった人々は、叫び、手を振って、誰かに、どこかに、合図を送っていた。しかし、誰ひとり、その木の洞から、一匹の動物が飛び出てくるのを見た人はいなかった。わたしは、それを見たのだ。あれは「ライ」だった。間違いなくライだった。一瞬のことだったが、わたしにはそのブルーの眼の光るのが見えたのだ。
 パニックを傍観するのは、なんと心が冷めざめとすることか。当事者ではないことがわたしを罪悪の沼に落とし、心を青ざめさせた。一方、当事者ではなかったことが、わたしの心に冷笑を芽生えさせ、人々の混乱をただ眺めるだけの、観客にした。
 わたしは静かに椅子のなかへ沈み込み、その巨木につぶれた人々の冥福を祈った。
 「ライ」はけっして嘘をついているのではないが、その存在自体が、事実ではない猫のようだった。わたしがこの猫と出逢ってしばらくして、お屋敷の森の破壊が始まったのだ。「ライ」はその意味では、最後に残ったお屋敷の住人だった。どのくらいあの薮のなかで暮らしていたかは定かではなかったが、少なくとも、わたしが見つけるまでのあいだは、あのお屋敷の住人だった。それに今では、草一本もない空き地になってしまったのだから、たとえ数時間の滞在だったとしても、もとお屋敷の住人であったと、わたしは考えたかったのだ。この「ライ」を護ってやらねばという気持ちが、わたしのなかに生まれたとしても不思議ではないでしょ?…わたしはライを大切にした。
 猫との相性もあるかもしれないが、このライといると、心がおだやかになった。仲の良い小さな姉と弟のように、泣いているときも、叫んでいるときも、笑っているときも、その手を引いて、母のもとへ走っていくふたりのように、わたしの心を淋しさから救ってくれる存在だった。ライといると、わたしが弟のようで、ライは姉のようにわたしのそばで、わたしを見守り、深い眼を見せるときは、わたしになにかを注いでいる表情をした。そしてブルーの色合いをしだいに明るくして、グレイになり、眼を閉じて、前脚に頭を載せて、再び、眠りについた。
 わたしはライにあえてことばをかけることはしなかったけれど、ライもわたしになにかを訴えることはしなかった。もちろん甘えることもしなかったのだ。ただときおり、わたしの腕のなかで、頭を胸にこすりつけることはあったけれど、それは甘えているというよりも、わたしに心配しなくていいよと、言っているようだった。
 わたしは猫好きというわけではなかったが、美しいと感じたものは、どうしても自分のものにしたいという欲求が強かった。たとえそれが、わたしの大嫌いな黄色の花であっても、その蕊がある種のブルーならば、純粋な黄花でも、手に入れたくなるのだ。つまり、美しさとは、わたしにとってブルーであり、青であり、その色合いのすべてのグラデーションだった。ただ、青い天井、青い壁、青いベッド、青いシーツ…青のなかに沈み込んで暮らすことは、狂気への導入を意味したので、すべての青を排除していたが、庭の一画の青い花、青い葉、青い蕊をわたしの青への憧れの象徴としていた。たしかに青い花は数多く存在しているけれども、わたしが真の青と定義するものは、そんなに多くはなかった。例えば、ティコフィラエアという南米の球根植物があるが、まさにブルーの、セルリアンブルーの原色の花を咲かせるが、あまりのブルーさに眼をそむけてしまうのだ。また、ホタルカズラという星のような可愛い花は、ほんとに美しい青だけれども、わたしの眼には紫の系統に見えてしまう。では、わたしが青と定義する真の青とはどのような色なのか…それはこの「ライ」の眼の色だったのだ。これこそが青であり、すべての色を含む青でもあった。「ライ/lie」は、嘘という意味を持っているが、「嘘」という色はもっともブルーであり、ブルーではなかった。つまり、見ようによっては青にも見えるけれど、青には見えなかった。光をあてると、瞳孔は閉まり、「嘘」の真実を隠そうとする。再び暗闇になると、一気にその「嘘」を吐き出し、青く、深い海を見せた。でもじっとそれを見つめると、その青が嘘であることをわたしに突きつけるのだった。わたしの頭は混乱して、眼をそらすけれども、わたしの眼を追ってくる「嘘」の闇が、残像となって眼のなかに残った。
 「ライ」がテラスを通って戻ってきた。またハーブに身体をこすりつけて、いい匂いをさせている。ほとんどその眼がどこにあるかわからない顔だったが、舌を出して自分の脚を嘗め出すと、眼の位置、鼻の位置がだいたい見当ついた。
 この猫がどのようにしてこの家にやってきたか、知りたいですか?…そう、
 わたしがある日、家に続く坂道を登ってきたとき、その角を曲がるとわたしの可愛いお家が見える寸前、お屋敷の薮の方で、猫の鳴き声が聞こえたんだ。わたしはお屋敷の正面に回り、壊れた鉄の門を通って、右側に広がる薮を「猫ちゃん…猫ちゃん」と呼びながら、さがした。昔は薔薇園だったという話だったが、薔薇のような木は一本もなく、常緑、落葉さまざまな灌木が生い茂り、簡単にはなかに入り込めないほどの薮になっていた。
 わたしは、薮の切れ目をねらって入っていったが、猫の鳴き声は、近くで聞こえるようで、遠くで鳴いているようで、ちっとも距離感がつかめなかった。そのうち、二十メートルぐらい行った所に、ぽっかりと空いた場所があって、真ん中にぽつんと人の指の先の形をした石があり、その上に、油汚れを拭き取ったような雑巾がおかれてあった。その雑巾が動き出して、わたしの方へ顔と思われるものを向けて、「にゃ…」と鳴いたんだ…ああ、これだったのか、猫は!猫?とても猫には見えないけれども、たしかに鳴き声は猫だったので、猫であることをわたしは素直に信じてやった。その猫のような小さなかたまりは、石の上でじっとして、わたしを見つめていた。わたしを見ても逃げないので、野良猫ではないなと思いながら、少し近づくと、目玉をかっと見開いて、わたしを睨んだ…なんと、片眼がブルーだった。ひどい顔のなかに宝石を埋め込んでいたのだ。わたしは一気に惹かれてしまった。このぼろ布のような猫を連れて帰ろうと思った。そっと手を伸ばすと、なにも抵抗せずに、じっとしている。抱きかかえると、やわらかで、あたたかく、わたしのなすままに、Uの字の逆さに曲がって、わたしの胸に来て抱かれた。
 なんだかとても安心したような表情で…ぐちゃぐちゃの色合いで定かではなかったけれど、なんとなく、安堵した顔をして、わたしの胸に頭をこすりつけてきた。わたしは薮を再びくぐって、この猫をわが家へ連れて帰った。
 とてもおとなしい猫で、まだ子供のようだったが、わたしが鉛筆を垂らしてからかっても、まったくのってこなかった。ただ、青い眼を一瞬見開いて、わたしを見た。わたしもその眼を見たいがために、色々と手を出してみるけれども、その眼を簡単に眺めさせてはくれなかった。すぐに閉じて、自分のなかへ閉じこもっていった。

 わたしはひとり暮らしだったけれど、一匹ほど、変わった顔の猫がいた。「ライ」と呼んでいたが、例えると、黄土色とチョコレート色と黄色と黒と白を顔の上に垂らして、シャンプーしたような、つまり絵の具箱のなかでミキサーにかけたような猫だった。その「ライ」と二人暮らしだったが、前のお屋敷跡にマンションが建つという噂に、少し、いや、正直に言うと、大いに憤っていたのだ。まあ、三階建てぐらいのアパートならまだ許せるけれども、十五階建てのマンションアパートと聞いて、ああ、わたしの理想郷的暮らしも終わりだと、思ったのだ。だってそうでしょ!北側で日照権の問題はないとしても、玄関へ出るたびに、眼の前の十五階建ての壁を見上げて、ため息をしなくちゃならない生活なんて、わたしをどん底に突き落とすもっともいい方法と考えられたから…少なくとも、お屋敷の周りの美しい樹木でもあれば、わたしの眼に入る景観も、マンションの住人にとっても、多少はましだと思えるのに、無残にも、ばっさりと、すべて切られてしまった。でも、きっとこの建設会社には天罰が下るだろうと、わたしはいいほうに考えた。
 あきらめのつかない行為だったけれども、まあ、仕方ないかな、わたしの土地でもないし…わたしの土地だったら、今頃はいにしえのような「薔薇園」にして、町の人に開放し、楽しんでもらっていただろうけれど…わたしごとき、貧乏絵描きがなにを叫んでみたところで、受けとめた大きな矢を、へし折るだけの力もないな、と思って、わたしはそのことはできるだけ考えないようにした。

 昔、お屋敷があったというこの広い土地の向かいにある、お家に住んで6年目のことだった。一目見てわたしは気に入ったのだ。
 白い壁に、赤いふちの窓、屋根はわたしの希望で、スペイン瓦に葺き替えてもらって、オレンジ色がまぶしかった。庭は、落葉樹がぐるりと取り囲み、なかはハーブ園になっていた。「園」というほどの広さではなかったけれども、三十センチほどの高さで石組みされた花壇が、可愛い形のパズルになっていて、それぞれにグレイグリーンや、シルバーグリーン、エメラルドグリーンのハーブたちが、ふちからこぼれ落ちるように育っていた。テラスに座ると、わたしは極上の香りに包まれて、しばし眼をつむって、夢想を楽しんだ。

    『片想い』         
 わたしはなにか胸が熱くなるのを覚え、目覚めた。なんということだ。お屋敷跡に、巨大な重機が見えた。外に出ると、わたしは目の前に繰り広げられている光景に釘付けになった。それは、次々に樹木をなぎ倒している生きた機械達だった。音はたてずに、そっと、桜の木や、ライラックの垣や、炎の形をしたユリノキや、真っすぐに茂ったホオノキを倒しては、まるでそれらを食べているような丁寧さで、「森」を駆逐していたのだ。
わたしの憧れでもあった、そのようになりたいとも思った、巨大なオガタマノキを、誰かが見上げている。神々しいものに圧倒されて、身動きできないでいる旅人のように、たたずんでいる…
神木に、畏敬の念を感じているのだろうか…
それは、わたしの希望でしかなかった。彼は、顔を向こうにやると、手をあげて仲間を呼び、巨木の倒し方を指示していた。オガタマノキの天辺を指差し、こうやって吊り下げて、こうやって切り倒し、こうやって引き摺り…
この木は守り神だった。この地の主でもあったはずだ。それをほんとうに切り倒してしまうのだろうか…わたしは唖然として、玄関前に立ちすくみ、見続けた。
お屋敷のレンガの塀も、もとは薔薇園だったという広い薮もすべて、なにもない平地にされてしまうのだろうか。あのうわさはほんとうだったのだ。