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michianri

Author:michianri
せつない 想い…
つたない ことばたち…
やりきれない 心…

『詩片日記…薔薇園…片想い』

第一章『詩片日記』
surrealiste
 hypochondrie
    ~prologue
       灰川道緒

第二章『薔薇園』
     
       鵜沓 綾

第三章『片想い』

       野川美千夫  

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(c) 片想い…
design by Echizen
photo by mizutama

せつない ラヴレター つたない ことば やりきれない 日々… 


 次の日の朝、校長がやってきた。玄関で優先生と何か話しているのが聞こえた。母が出迎えた。校長が大声で笑い、母に礼を言っていた…下品なやつだ。わたしはクッションで頭を押さえ、何も聞こえないようにした。でも、しだいにあいつらの声が近づいてきた。そしてわたしの部屋をノックした。
「りょうさん、校長がちょっとお話しがあるって…」優先生がドアの向こうで言った。
「……」わたしは聞こえないふりをした。ドアが開いて誰かがなかを覗いている…ドアは閉まり、みんな去って行った…ああ、くそ!とんでもないやつらだ、人の部屋を覗くなんて…お母さん、止めてよ!母はいなかったの?またどこかへ行ってしまったのか?わたしは不安になり、クッションを頭から叩き落した。
「きゃーーー!」わたしは叫んだ。出せるだけの声を絞って、叫んだ。
 わたしの横に校長と佐々木優子が立っていた…わたしは出来得るかぎりの力で、二人に爪を立てた、立てようとした。しかし、わたしの腕も爪も宙を切り、むなしくベッドに沈んでいった。
「りょうさん、また学校に来れるようになるといいですね」校長がわめいた。まるで、カケスが樹の枝で交尾しているような声だ!
 わたしは窓の方を向いていた。
「りょうさん、また学校に来れるように努力するといいですね」あの女もわめいた。おんなじカケスの仲間か!こいつも…お母さん!お母さん、こいつらを止めて!ここからほうり出して!お母さん…
 母はいなかった。朝食を二人に出すためにキッチンにいたのだ。わたしを放って…お母さん!お母さんのやつめ!わたしを捨てたのか?こいつらと同盟でも結んだのか!ああ、わたしはひとりだ、ひとりきりだった…大粒の泪が、自分の手を濡らした…

 わたしがふたたび自分を捨てるのに、そんなに時間はかからなかった。あいつらがダイニングでぺちゃくちゃおしゃべりしているあいだに、わたしはわたしの仕事を着々とこなしていった。最近母は、佐々木優子だけでなく、校長にまでへつらい、媚を売り、夕食を振舞っていた。それがわたしには我慢ならなかった。この家をめちゃくちゃにしてやりたかった…でもわたしにはできなかった。わたしにはいとしい「りょう」がいたから…

「道緒さん!」あの女がわたしを呼びに来た。わたしはみんなと同じ食卓に着いた。みんなと楽しくおしゃべりもした。三人と冗談を言ったりもした。はっきりとわかった。こいつらが母を捕り込んだことが。わたしの母は「れい」と言った。その名を呼ぶと母が答えた。
「なに?道緒ちゃん…」
「ああ、お母さん…ぼくのところへ戻ってきてください」
「なにを言ってるの、道緒さん」あの女が口を挟んだ。
 口を慎め、このカケスどもが!わたしは一喝して、ふたたび母に言った。
「お母さん、お父さんのことは忘れて、ぼくたちのところへ帰ってきてください!」
 母は下を向いたまま、なにも答えなかった。答えられないのか、答える必要がないと考えたのか…ただうつむいて笑みをうかべているだけだった。
「全部知っているんだぞ、れい!…おまえがわたしの父となにをしたか…全部見ていたんだぞ…姉さんとふたりで!」
 わたしの頭には鮮明な画像で「れい」が吊るされているのが見えた。そして、言ってはならないことを言ってしまったことも悟った。母は泣いていた。母は消えてしまいたいと思った。母は他人の前で自分の過去を晒されたことに、どれだけ恥じ入ったことか。可哀相なお母さん…ごめんなさい、お母さん…わたしはふたたび私自身を一喝した。ふざけるな道緒!おまえは何者だ!何の権理があって、わたしの母を誹謗するんだ?おまえは、おまえたちはただ見ていただけじゃないか、何もしなかったじゃないか、おまえたちは母が吊るされるのを楽しんでいたのだ、違うか?姉はどこだ?姉を呼べ!…わたしは道緒の首を押さえて絞め付けた。道緒は足をばたつかせて、わたしに言った。
「許してください…許してください…許して…」ゲッ、と声を出して道緒は気を失った。わたしは今回はまあ許してやろうと思った。なぜなら硬くなった道緒のペニスが、わたしの下腹にあたって、許しを請うたからだ。

 母たちは、静かにその様子を観察していたが、わたしが笑顔に戻ると、ほっとした顔色になって、食事を続けた。

 こんなに楽しい食事が長く続くはずもなかった。だって、みんなが食べているお皿の上には、ぐるぐるととぐろを巻いた道緒の腸が乗っていたからだ。

 わたしが綺麗に道緒の腹をナイフとフォークで切り開き、上手に腸を取り出して、各自のお皿の上に盛ったからだ。

 それでも三人は、黙々と食事を続けた。道緒の、食事を…

 ああ、こいつらの魂胆はわかった、わたしの道緒を消し去ろうとしているんだ!

 わたしの道緒!わたしの…道緒…
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 わたしがうつらうつらしていると、なんだか声を抑えて、ひそひそと話す声がダイニングの方から聞こえてきた…別にいいんだけど、ふたりがなにをしゃべろうと、わたしには関係ない…でもひそひそ声ってなぜか気になるものだ。わたしはそっとベッドを抜け出し、ダイニングに近づいた…
「お願いします、玲さん…」
「ええ…」
「ぜひにと、校長がそう言っておりますので…なんならもういちどお家賃の交渉をいたしましょうか?」
「ええ…でも、あのお屋敷は…おやめになったほうが…」
 優先生が母になにか頼み込んでいた。母はあまり乗り気ではなかった。しつこい女だ。わたしがことわってやろうか?お母さん…
「玲さん、あんなご立派なお屋敷、あのままではもったいない。人様にお貸ししたほうが家も傷みませんし、ご収入にもなるじゃありませんか!」
 ご立派なお屋敷って?前の家のことだろうか…母のものだったのか?そんなことは一言も母は言わなかった…でも鍵は持っていたけれど…
「では、仕方ないですわ、校長先生にお貸しいたします…そのかわり、使える部屋を限らせていただきますけれど…」
「ええ、ええ、もちろんですとも…よかったわ、校長も喜びますわ、だって、二時間もかけて毎日通ってらっしゃるんですから!」
「それと…お庭も触らないでほしいの」
「ええ…草も抜いては?」
「ええ、そう、草一本お抜きになってはいけません」
 母の声が違っていた。こんな声、こんな言い方は今まで一度も聞いたことはなかった。

 わたしはベッドに戻った。あのお屋敷は母のものだったのだ…それを校長が借りて住むのだ…わたしは心が乱れた。あの「墓地」は、わたしのものだったのに、わたしひとりの場所だったのに、他人が入り込むことを考えると、それもあの校長が、庭をうろつくことを考えると、気がめいった。
 でも仕方ないな、母がそう決めたんだから。母も昔の絵を売るだけでは、大変だったはずだ。わたしはそんなこと、ちっとも考えなかった…ああ、なんて馬鹿なんだ、なさけない娘だ…母の苦労を知らなかったなんて、知ろうともしないで…ごめんね、お母さん!…わたしがこの言葉をいくどつぶやいても足らないことを、今になって、知った。

 トイレの窓から、引越しの様子をわたしは見ていた。門扉に絡むいばらを引越しの人が取り除いていた。美しいデザインの鉄の扉が、淋しくなっていった。トラックが横付けされた。大勢の人が、ベッドやチェストや、大きなダンボールや小さな箱をいくつも降ろした。…いったい何人の人間がやってくるんだろう。ものすごい数の荷物だった。きっと大家族に違いなかった。校長の家族なんていままでわたしは知らなかったし、知る必要もなかったのに…
 最後に別のトラックがやってきて、大きなピアノを降ろした。学校にあるようなグランドピアノだった。誰が弾くんだろう?がんがんやられたらうるさいな、子供が習っているんだろう、きっと。それにしても、その家族が見えなかった。ひとりも。校長すらいなかった。今日はお休みの日なので、誰かいてもいいはずだとわたしは思った。ひとり、優先生が、玄関先で、ひとりひとりに運び込む場所の指示を出していた…あの女が…でしゃばり女め!母に取り入って、わたしの「墓地」とお屋敷をだいなしにした張本人だ。それにしても、遠くで見る佐々木優子は、母に似ていた。その上品さは雲泥の差だったが、帽子を被ると、外見はたぶん誰もが一度は間違うだろうなと思った。
 表札が門柱に付けられた。「佐々木」…え?校長も佐々木と言うんだ。優先生と親戚?わたしは自分の学校の校長の名前さえ知らなかったのだ。ただ「校長」としか。灰川の遠縁で、灰川家から多額の資金を得て、学校法人をこの地に建てた…そのことだけしか。
 トイレの戸を母が叩いた。
「りょうちゃん、大丈夫?…」母はわたしがトイレに入ったまま、出てこないので、心配したのだ。
「うん、大丈夫…」わたしは吾にかえって、トイレから出た。勢いよく出たので、母とぶつかった。
「きゃ、ごめんなさい!」そのまま、わたしは母の胸に抱きついた…ああ、いい匂いだ、お母さんの匂いだ、なんて久しぶりだろう…わたしは母にしがみついたまま、いっとき離れなかった。母もわたしを胸に抱いたまま、動かなかった…
「りょうさん…もう離して!」
「……」わたしは母の顔を見た。母ではなかった。佐々木優子だった。わたしは一瞬にしてあとずさった。どんな顔をしたのだろう。優先生の顔が変にゆがんで笑った。わたしは自分の部屋へ戻った…じゃ、あの引越しの指示をしていたのは母だったのか?いやあれは佐々木優子だった、優先生だったはずだ、たぶん…ああどうしたんだろう、わたしは母と佐々木優子を見間違えるなんて…わたしは窓からはだしのまま庭へ飛び降りた。東側を回って母の部屋の窓を覗き込み、母を捜した。そこにはいなかった。玄関へ回って、前のお屋敷を見た。そこにいたのは、母だった。母が引越しの人たちにお礼を言って、送り出すところだった。母がわたしを見た。笑みはなかった。わたしの方へ近づいてきた。わたしは眼を伏せていた。
「りょうさん、お引越しは終了よ!」
 わたしは顔を上げた。わたしの前に立っていたのは、佐々木優子だった…わたしは顔を手で覆い、そこにしゃがみ込んだ…母がいない…母がいなくなった…どこを見ても佐々木優子ばかりだ…なぜ?なぜ…

 わたしは優先生に抱きかかえられるようにして、ダイニングへ行った。そこには母がいて、夕食の支度をしていた。いつものやさしい笑みをうかべて…ああ、お母さん…わたしは母のエプロンにしがみついた。ひざまずいて、母の脚を抱きしめた…母の匂いはしなかった…ああまた母じゃないの?…上を見あげた。母がやさしくわたしの頭を撫でてくれていた。わたしはふたたび母の脚にしがみついて、泣いた。泪が母の脚にすじを引いた…
「りょうちゃん…いい子ね…お食事にしましょ」母のやさしい声が降ってきた。
 わたしは泣きじゃくりながら食卓についた。母も座った。あの女も?優先生も座っていた…黙って食べた…二人が時々眼を合わせて、目配せしているように見えた…

 わたしの目覚めは、これで何度目?目覚めても目覚めても、ほんとうの覚醒はあたえられず、たぶん死んでいるんだね、きっと。姉も、もうあてにならないし、お母さんもどこにもいない…わたしは見捨てられているに違いなかった。でもそのことはちっとも苦痛にならないし、むしろ、わたしの片想いの日々にはとてもしっくりきているんだ…「ねえ、道緒さん」あの女だ。馴れ馴れしい声で!佐々木優子、この女が現われてからだ。わたしの目覚めがなくなったのは。わたしが道緒だって、なぜ知ってる?きっと姉がしゃべったんだ。でも頭のない姉が?落っこちた頭のほうが唇を動かしてしゃべったのか?いずれ聞いてみるけれど、わたしは以前にもまして、頭痛に陶酔できるようになっていた。頭痛というものは、痛いに違いないが、痛みの種類が違っていた。切り傷の痛みとも、神経の痛みとも、心の痛みとも…つまり、なにも考えなくていいのだ。死を考えなくていい、もっとつらい、生きることも考えなくていい、彼女のことも、あの女のことも、母のことも、姉のことも、もちろん父のことも…ただ、わたしの娘、わたしのいとしい「りょう」のことは…忘れ去ることをさせてもらえなかった…仕方ないではないか、あの可愛いわたしの天使が、あっけなく死んでしまうなんて。姉の話では、玲が「りょう」を産んだ時、死産であったと。わたしは、どん底に突き落とされた。しかし、五分後に「あや」が産まれた。姉は、その「あや」をわたしに抱かせてくれた。ああ、可愛い、わたしの天使!「りょう」…わたしは「あや」を「りょう」と呼ぶことに決めたのだ。その日から、「あや」は「りょう」となった。そしてほんとうの「りょう」は天国に召された…だからわたしは、「りょう」を溺愛した。「りょう」の代わりに。玲のお腹のなかにいる双子にすでに名を決めていたわたしは、どちらのお人形さんにする?と、母にたずねられて、こっち!と指さす子供のように、まるで幼かった。双子のうち、一人は生きてくれたのだから、その子を「りょう」として大切にしてもいい?わたしは、姉と、玲の赦しを得て、「りょう」を慈しんだ…いつもわたしの膝の上にいた「あや」は、わたしの「りょう」となった。お人形さんは、静寂のたましいを宿しているように、「りょう」も静けさに満ちたたましいを育んでいった…わたしは「りょう」を膝にのせて、いつも四阿で風とともに揺れていた…わたしの「りょう」…いとしい「りょう」…可愛い「りょう」…「りょう」…

 「りょう」…「りょう!」…わたしは揺り起こされた。母がわたしを顔の真上から覗き込んだ。優先生の顔も隣にあった。いやな臭いがした。
「起きたわね」優先生がほほえんだ。
「ちょっと身体を拭きますよ、りょう」わたしはパジャマをふたりに脱がされて、裸になった。ひどい臭いだ!わたしは便も尿も、たれ流していたのだ。ベッドの上で、パジャマのなかに…わたしはすべての恥辱をいちどに浴びたように、顔を赤くした。手で顔を覆った。瞼の裏に手の影が見えた。
「りょうさん、気にしなくていいのよ…誰でもあることだから」優先生がわたしをなぐさめた。誰でもあるはずないよ、とわたしは言おうとしたが、顔を覆った手をのけることはできなかった。
 母がやさしくわたしの股間を拭いてくれた。母はいつもやさしい…ごめんなさい、お母さん…優先生は、わたしのお尻を、なにか取れない染みでも削るように、消毒液を染み込ませた紙で拭きあげては、それを床に投げつけていた。わたしは指の隙間からそれを見ていた…自分のなさけない姿と、優先生の乱暴なやり方とで、わたしは完全に居場所を失った。
 母が新しい下着とパジャマを着せてくれた。そしてわたしを抱え、わたしの部屋のベッドへ寝かせてくれた。ふたたび自分の部屋に戻ることができたのだ。ずいぶん久しい気がした。長い長い入院のあとに、わが家へ帰ったときって、こうなんだろうなと思った。
 部屋はなにひとつ変わっていなかった。わたしの机も本棚も、窓のカーテンも、窓から見える庭も…優先生はここにはいなかったのだろうか。なにひとつ触ったあとはなかった。わたしはすべてのものを、ものさしで計って置いていたので、少しでも動くと、すぐに気分が悪くなったから。それにしてもなぜだかわからないけれど…優先生はここにはいなかったのかもしれない。別の部屋で?母の部屋で?…でもまあいいや、すべてが以前のままで…え?あのノートと日記?…そうだ、父のノートと日記がなくなっていたはずだ…わたしはマットの下に手をやった。あった。それはちゃんとあった。優先生が盗んだと思ったのは、夢なのか?妄想だったのか?でもまあいいか。わたしは安堵して、眠りについた。

 気持ちのよい目覚めだった。なんだか、天から墜ちてきて、やわらかいクッションの上に跳ねて、しだいに沈み込んでいくような…
 罪を犯した人が、罪以上の罰を受けて陶酔するように、わたしは茫然の海に浸っていた。胸が重かった。母と優先生の腕が、わたしの胸にのっていた。わたしの腕は、二人の首に回されていて、まるで三人でどこかを飛んで来たようだった。二人が羽根になり、わたしの飛翔を援けてくれたように思えた…ああ、窓の外はかがやいている。木々の緑が雨を含んで、エメラルドの海となって氾濫していた…ああ、前にもこんなことが、こんな日があった…わたしは感じた。すべての自然界の蠢きを。どんなに小さな虫の羽音も、蝶の飛跡に舞う光の粒も、その軌跡を突き破って横切るスズメ蛾の眼の色も…葉が揺れて落とした、雫に映る無数の精霊を…感じた。
 母と優先生の腕のぬくもりが気持ちよくて、陽の光に包まれた繭のようだった。わたしの胸はかがやき、中心から光が漏れていた。見つめていると、白い形ある影が立ち昇っている。それはしだいに天井へ揺らめきながら流れ、左右にひろがった…窓からひとすじの陽が、わたしの胸を照らしていたのだ。庭の一枚の葉が光を反射していた。ときおり揺れて、わたしの胸と二人の手のあいだを光が移動している。その二人の手を見た。指が似ていた。そして同じ指輪をしていた。同じ人が左右から手を伸ばして、わたしの胸の上でクロスさせているようだった。指輪が光った。天井に投射して、ひろがった白い影に星を飾った…
 わたしは起き上がった。二人の腕が左右に垂れた。わたしは制服に着替え、お屋敷へ向かった。学校はお屋敷に移っていた。たぶんまた遅刻だろうと思った。お屋敷の墓地は、女生徒で溢れていた。髪の毛があちこちで揺れ、短いスカートが跳ね返っていた。わたしは毅然として、お屋敷へ入っていった。正面に校長がいた。その顔を見ると反吐が出そうだと思った。誰かの顔に似ていて、こいつも仲間だなと思った。変なゆがんだ笑みを浮かべて、ほかの先生たちと並んでわたしを出迎えた。わたしは無視をして、ずんずんと廊下を進んだ。わたしの部屋の前へ来た。いつものように把手を綺麗に拭きとり、回した…ああ、お姉さん、ここにいたのですか、捜したんですよ、お母様はどこ?まさかまたあいつのところへ?ねえ、お姉さん、なにか言ってくださいよ!…姉の首はすっぽりと抜け落ちて、わたしの揺すった力が姉の身体を前後に揺らし続けた。あきらめたわたしは父の部屋へ急いだ。把手の錆は綺麗に磨かれて、黒光りしていた。わたしはゆっくりと回して部屋へ入った。部屋のなかは女生徒でいっぱいで、優先生がなにか叫んでいる。整列しない女生徒の髪の毛をつかんでひきずっていた。わたしは、足を鳴らした。すると、いっせいにわたしの方を見て、静まりかえった…ああ、灰川理事長!校長がわたしのところへ駆け寄ってきた…この胸糞悪い男が…わたしは心のなかでそうつぶやきながら、壇上へ上がった。背後にはびっしりと本の並んだ棚が、わたしを潰そうと待ち構えていたが、わたしは、わたしの仕事があるので、かまわずもういちど足を踏み鳴らした。見事に、シャンデリアが落ちた。羽根が落ちるようだった。ひとつひとつのクリスタルが宙を舞い、あとへあとへ置いて行かれてしまうように、ゆっくりと回転しながら、落ちていった。複数の叫び声が響いた。女生徒が潰されたのだ。数人の脚が見えた。シャンデリアが制服を飾り、数本の脚がばたついていた…なんて可愛いんだ!わたしはそう思って、拍手した。みなも拍手した…なんて見事な潰れ方だ!みんなもそう思っているに違いない。わたしは次に、笑いがこみ上げてきた。どうしても我慢できなくなって、ついに大声で笑いはじめた。校長も笑った。優先生も?あれ?優先生は?ああ、見事な潰れ方のひとりは、優先生だったのだ。可哀相に、お腹が潰れて、肛門から腸が出てきているじゃないか、ああすばらしい…わたしは感激した。そして泪を流した。いい兆候だった…朝礼も終わり、みんなぞろぞろと教室へ帰っていった。シャンデリアを上手にカーヴして、両側によけながら…わたしは壁際のベッドへ行って、横になった…お母さん!わたしは心でつぶやいて、それから眠った…

 …母がわたしの手を握ったまま、ベッドに頭を置いて眠っていた。優先生はキッチンでなにか作っている音がしていた。鼻歌を歌っているのか、いやな高い音が聞こえていた。母の手をふりほどき、そっとベッドから出て、優先生を覗きに行った。やはりなにか料理をしているんだ、それもいやな臭いの。鼻歌もひどかった。聞けたものじゃなかった。まだガラスと爪のこすれる音のほうがましだった。わたしはそのようにしてやった。ダイニングのガラス戸に爪を立てて、いい音をさせてやった。優先生がこっちを見た。でも、なにも見なかったように、また自分の作業を続けた。どういうことだ?無視するなんて!灰川家ではありえないことだろ!え?灰川?…わたしは灰川礼か?灰川道緒か?…わたしは…わたしは?…ふたたび、眼が回り出した。あまりの回転の速さに、わたしはわたしが何者でもよくなった。わたしはわたしなのだから、佐々木優子でも、母でもないわたしなのだから、だからわたしは、ここにいるのだ、この家、この場所、この床の一点にいるのだから…ガラスに爪を立てて、あの女をにらんでいるわたしが…わたしが見えた…遠くなってゆく…ああ、あれは、わたしの、お家…
 あんなに楽しい日々が、長く続くはずもなかった。わたしはふたたび学校へ行けなくなった。優先生が学校から帰ってくるのが苦痛になった。わたしのために学校の話をするのがいやだったのだ。ただそれも言えず、黙って聞いていた。優先生のいた部屋がわたしの部屋になり、わたしの部屋を優先生が使っていた。なにもさわらないで欲しかった。わたしの部屋のすべてのものを、さわらないで、そのままにしておいてほしかった。いっさいものにさわるな!とどこかに書いておこうと思った。
 優先生は、たぶん、わたしのことを教室で笑いの種にしているに違いない。あれはたぶん、二重人格だ。わたしにはまるで娘のように接し、学校では、他の生徒にも娘のように接していたのだ。そんなことがあっていいはずはなかった。わたしと優先生は、母と娘のようだったではないか。それなのに、わたしの「夢」をだれかにばらして、みんなで笑ったに違いない…少し自意識過剰なのよ!って…
 わたしは父のノートと日記を自分のベッドマットの下に置いていたので、ある日それを取りに行くと、なかった。優先生が見つけて、どこかへやったのだ。くそ!あいつめ…わたしは逆上した。帰ってきたら問い詰めて、吐かせてやる…優先生は帰ってこなかった。その日から、ずっと。出て行ったのだ、わたしの父のノートと日記を盗んで…なぜ?なぜだ?…
 母を捜した。母もいなかった。家のなかに誰もいなくなった。家のなかから明かりも消えていた。電灯のスイッチを入れても、まったく暗闇は変らなかった。部屋の数も増えていた。扉がたくさんあった。すべて同じ把手がついていて、どの部屋が母の部屋かわからなくなった。わたしの部屋もわからなくなった…あいつの部屋を捜すんだ…わたしはひとつずつ把手を回してみたが、すべて鍵がかかっていた。どの部屋も開かなかった。ふと、ある扉の下が光った…ああこれは以前にも経験したことだ。もう恐れることはない。わたしはまっしぐらにその扉に行き、おもいっきり把手を回した。扉が大きな音をたてて、内側に倒れた。ベッドの上に人がいた。裸で、二人の人間が抱き合って、わたしを冷淡な眼で見た。ひとりは母だった。もうひとりは…もうひとりは顔なじみの男だった。母が叫んだ。顔が歪んで、強烈な高音を出した。叫び終えた顔を見ると、それは、佐々木優子だった。あの女がいた。ついに捜し出したんだ。わたしは手にナイフを握っていた。自分ではなにも持っていないと感じていたけれども、手は確実にナイフを振り上げて、機械的に振り下ろした。血が飛び散った。女が呻いた。男はベッドを這って逃げようとしていた。その背中へナイフを刺し込んでやった。男も呻いた。男は血がまったくなかった。ぱっくりと傷口を開けて、魚の口のようだった。女がわたしに毒づいた。なにかクラスメイトの悪口を言っているようだけど、わたしには関係ないなと思った。もういちど、その目ん玉めがけてナイフをお見舞いした。眼球が見事にまっぷたつに割れ、そのなかから薔薇の花が湧き出てきた。ああ綺麗だ!こんなに美しい眼は見たことないなと思った。わたしは、わたしのペニスを取り出して、女の口にくわえさせた。女が泡を噴くまで、出し入れを続けた。片眼になった女が白目をむくと、わたしは飽きて、さっさと自分の部屋へ戻った。わたしの部屋はすぐに見つかった。玄関のすぐ脇にある部屋だ。重い扉の、錆びた把手のあの部屋…でも開かない、扉が開かない…わたしはおもいきり扉を叩いた。鈍い音がするだけだった。手から血が出た。それを眺めていると、母が来て、わたしの手を取り、その血を嘗めてくれた…ああ、お母さん…わたしは母にすまないと思った。こんなことをして母を悲しませるのがつらかった…わたしは自分に罰をあたえた。自分の眼にナイフを飾って母に見せた。母は泪でそれを洗って、自分の眼にもナイフを飾った…やさしいお母さん…わたしは母を抱いた。強く抱いた…母は砕け散った。わたしがあまりにも強く抱きしめたので、カリカリに焼いた魚のように、砕け散ってしまった…可哀相なお母さん…わたしは泣いた、母のために泣いた。泪は出なかった。泣き真似か?わたしは泣き真似をしているのか?わたしは、わたしに腹を立てて、ふたたび、もう一方の眼にナイフを飾った。ナイフは静かに眼のなかへ沈んでゆき、消えていった…
 学校へは、優先生とふたりで坂の下まで行き、そこから先生は左へ、わたしは右へ、少し遠回りをして登校した。わたしを余計に孤立させないための優先生の気遣いだった?いや、もしもわたしと優先生がいっしょに登校してきたとしたら、他の女生徒の眼が、強烈にわたしたちを射抜いて、たぶんわたしよりも先生の立場を悪くする、ということだろうと、私は考えた。教師が特定の生徒だけを特別扱いにするということは、その教師の価値を最低のものにするだけの効果があったから。わたしは、優先生がわたしだけのものという、傲慢な考えを押さえる必要性があった。だけど、それを押さえる心地よさは、鳥が上空から人々の動きを見て、獲物にするべき女生徒どもを監視するぐらいの、快感もあったのだ。
 優先生の授業以外は退屈で、その内容も、理由も、時間さえも、無意味に思われた。ある男の臨時教師は、わたしたちの大半が眠っていると、自分の学生時代にどれだけ切迫したなかで緊張感を持って受験に備えたかを、いつも、熱に浮かされたように話した…夜中に眠くなるとシャープペンシルで自分の腿を突き刺してまた勉強したと…狂ってる…みんなそんな眼でその教師を見ては、机の下で腿にシャーペンを突き刺す真似をしていた。
 この若い教師は、優先生に気があるといううわさだったが、優先生は鼻にも引っかけないんだよ!あのシャーペン野郎が!ずうずうしいんだよ!百年早いっつうの!とまるでライオンの雌が雄を追い払うときのような獰猛な顔つきで、休み時間になると、わめいていた。わたしは、こいつらこそ、人間になるのが百年早かったと言いたかったけれど…でも、どういうわけか、女子高では優先生のような女先生がもてるものだった。もちろんこのシャーペン教師に好意をいだいている女生徒もいたが、女の砦の長はやはり女でなければならなかった。校長や教頭はその砦の壊れかけている壁のひびを補修する貼り紙程度だった。優先生さえいれば、どんな集まりや、どんな大会でも、女生徒たちは、やる気のあるざわめきを立て、無気力を脱することができた。このアマゾネスのリーダーは、女生徒の扱いに極めて優れていたのだ。彼女たちのくだらない興味の対象にも、けっして手抜かりをせずに情報を集め、授業のなかで、小説のヒロインのファッションセンスまでを、女子高生風に分析して見せるのだった。
 先生の部屋には、それらの膨大な資料が積んであり、毎週やってくる雑誌類も、ひと抱えもあった。まるでいままで興味のなかったわたしも、それらを手にとって見ることがあった。先生の勉強の邪魔にならないように、静かにページをめくり、時々お茶をすすりながら、いまどきの女子高生たちの生態を眺めた。
「りょうさん、あなたも少しおしゃれしなきゃね」とつぜん優先生が振りかえって言った。
「え?…」
「こっちに来て」先生はそう言って、わたしを跪かせ、髪の毛や耳や、顎を持って眼を覗き込み、わたしの顔の隅々を調べた。
「立って」こんどはわたしを、椅子に座っている自分のまえに立たせ、腕の太さや、お尻の大きさ、胸のふくらみを丹念に調べ…
「よし!オーケイ、あした買い物にいきましょ!」そういって、また机に向かい本を広げた。そばのパソコンの光が優先生の横顔を照らした。わたしはぽつんと残されたようだったけど、優先生の後ろ姿をじっと見て、抱きつきたい衝動にかられた。なんだか、不自然な形で立ったまま、優先生の洗い立ての髪の毛や、パジャマの襟のなかから匂う石鹸の香りに、身体の中心で虫が蠢き出すような、感覚にとらわれた。わたしは腕を少し先生の方に伸ばした…
「ねえ、りょうさん…あなたの夢はなに?」優先生が不意にふりかえった。わたしはひとりどぎまぎしながら、あらぬ方を向いて、片手を顎にくっつけて、考えた。
「え?夢ですか…詩人になりたい…」最後は小声になった。
「詩人?」
「はい…父のような…」わたしはそう言って、顔が熱くなるのを覚えた。
 父のことをそんなに知っているわけでもないのに、あの日記とノートの父に憧れ、想い焦がれ、父のような熱情を持つ詩人になりたいと、漠然と思ったのだ。美しい言葉が書きたかった、美しい言葉をさぐりたかった、この世のものとも思えないほどの美しい、言葉を…でも、わたしにはなにもなかった。文章を書く力も、詩を奏でる声も、熱い心も、まして、美しいものを追い求めるたましいなんて…こんなに醜いわたしのなかに、あるはずもなかった。優先生が羨ましかった。母も父も、羨ましかった。わたしにはないものをたくさん持っている…なぜわたしはこんなにもつまらない人間なんだろう、夢なんて、詩人になる夢なんて、ばかみたいだ!優先生に笑われるだろう、もう心のなかで笑っているかもしれない…なにをこの小娘は言っているんだろ?詩人だなんて、詩人がどんなものかも知らないくせに…そう優先生の眼は語っていた。少なくともわたしにはそう感じられたんだ。
「いいわね、詩人…この響きもいい!」そう言うと、机に向きなおり、本に視線を落とした。背中が笑っているように見えた…なんてわたしは馬鹿なんだ、くだらないことを言ってしまった…なぜこの人はこんなことを聞くのだろうか、十代の人間にはこの質問をしなくてはいけない規則でもあるのか?夢なんてとっくの昔に捨ててる年代だよ…でも、でもわたしには、夢のようなものがあった。確かに、漠然としているけれども、あったのだ。母とのふたりの生活は、現実とはかけ離れすぎていた。その貼り絵のような生活を、立体にしようともがいたけれども、わたしには何かが足らなかった。何かが!それさえわかればと、いつも自らの身を削るようにして考えたが、そこに行き着くことはなかった。そして、その場所ははじめからないのかもしれない…
 教室で夢を語っている生徒なんて誰もいなかった、誰ひとりとして…心のなかには持っているのかもしれない、でも口にすると同時にその言葉が次々に腐ってしまうかのように、みんな思っているんだ。そして、他人の夢は妬みと軽蔑に変えて、自分の夢を、たぶん持っているだろうそれぞれの夢を壊されないように、鎧を被って見えないようにしている。みんなして装っているんだ、夢なんて、幻想だと。誰かが夢を語り出すと、その腐蝕した言葉がみんなの身体にもくっついて、自らの心のなかの夢までも腐らせてしまうかのように、みんな夢を胸に押し込めて、毎日、ムクドリの楽園のように騒いでいた。
「あんたんち、優先生が住んでるんだって!」とつぜんクラスメイトが大声でわたしに詰め寄った。わたしは相手にせず、本に眼を落としていた。わたしの肩をつかんで、後ろへ押した。
「なんか言えよ、この幽霊女が!」
「なんだよその眼は」
「おいおいこいつ、なんか言うぞ…ばか!」
「校長とつるんでるやつなんて、追い出せ!」…わたしは勝手にしゃべらせておいた。なんて脳みその軽いやつらだろうか、猿以下だと思った。そのくせ、優先生の前では、きちんとお嬢様ぶる姿は、人間の皮を被ったハイエナかなにかのようだった。ひとりがわたしの髪の毛を引っぱった。それと同時に、わたしはその女の太腿にシャーペンを突き刺した…「ギャー!」よくそんな声が出るなと思えるほどにわめいて、ひっくり返った。ほかの生徒は、わたしの次の攻撃をかわすために飛びのいた。わたしはつっと立って教室を出て行った。背後に泣きわめく声とともに、吐き捨てるような声が聞こえた…
「おっそろしい詩人女が!…」
 …詩人女?…たしかにそう聞こえた。わたしの聞き間違い?たしかに詩人と言った。なぜ?なぜそれを知ってる?…わたしは廊下を歩きながら、階段をおりながら、そして校舎を出ながら…家への坂道を登りながら、考えた…ぐるぐる頭のなかで「詩人」が巡った…

 この日の夕食時に、わたしの堰が裂けて水が噴き出した。わたしは母と、そして優先生に、言葉を浴びせた。まるでふたりを攻撃する水生動物のように。自分でもその姿が見えた。手を握りしめて爆発する自分がグラスに映っていた。母と優先生は時々顔を見合わせて、わたしの意味不明の言葉を静かに聞いていたが、ついに優先生が、わたしを制止した。
「りょうさん、もうやめなさい!」先生の唇の笑みがゆがんで、眼が鋭く光り、わたしをその視線で殺すかのように見えた。わたしは黙った。ふたりの眼を交互に見た。何の表情もなしに…なんということだ!やはりわたしが思っていたとおりだ。ふたりの眼は同じ眼だった…わたしは視線をそらして、自分の部屋へ戻った。気分が悪くなった。頭が回転した。食べたものを全部吐いた。床は吐物に彩られて、混乱した模様を作った。わたしはそのまま倒れて、気を失った。

 眼が覚めると、優先生のベッドにいた。母が床にひざまずき、わたしの手を握ってくれていた。やさしい笑顔だった。わたしもほほえみ帰した…ごめんね、お母さん…言葉は出なかったけれど、心でそう言った。母も心で、許してくれた。
 優先生がお茶を持って来てくれた。わたしは恥ずかしくて、先生の眼を見ることができなかった。先生は優しくうなずいて、母とは反対の床にひざまずき、母と同じようにわたしの手を握った。わたしは左右対称になった。わたしの左側が母で、右側が優先生のものだった。わたしがふたつに分かれると、それぞれと同時に抱き合えるのにと思った。だからわたしは、分裂した。母のために、優先生のために…

 優先生は、「佐々木優子」と言って、学校では「優先生」と呼ばれていた。その優先生がわたしのものになったのだ。これでますます、クラスメイト、いや学校中から妬まれるに違いなかった。わたしは優越感に充たされた。
 優先生のファッション、容姿、教養、どれをとっても、女生徒の憧れだった。長い髪を、あるときはそのまま肩に流し、あるときは、頭の上にきつく巻いて白いえりあしを見せて、男先生たちの視線を集め、ぴちぴちのタイトスカートで眼を釘付けにしていた。
 その優先生が、わたしの家に!…いた。
 朝は三人で食事をした。母が寝たきりの時は、わたしが母と自分の朝食を作り、ベッドでふたりして食べていた。それがダイニングで三人で食事ができるなんて、わたしはうれしかった。優先生も朝食を作るのを手伝ってくれた。わたしと優先生は親子のように、冗談を言いながらキッチンで楽しそうだった…母が見ているときは、わたしも少し気遣って静かにしていたけれど、母を呼びに行くまでは、ほんとうの親子のようになれた…優先生の手は、母の手に似ていた。そして笑い方も似ていた…きっと、わたしたちの縁は深いのだと、わたしは信じた…
 母もわたしたちの食事を作るほどに元気になり、時々は三人で夕食をとった。話はいつも学校のことで、優先生とわたしが、母に面白おかしく、他の先生のことや女生徒のことを話して聞かせた。わたしはそれまでは、ほとんど学校での話を母にすることもなかったので、母もうれしそうだった。優先生は話がとても上手で、ひとつのことを二倍にも三倍にもふくらませて話すので、母も声を出して笑った。母の笑い声をわたしはいままでに聞いたことがなかったように思えた。たしかに記憶にはなかったのだ。母の笑い声と、優先生の美しい声と、わたしのおしゃべり…なんて心地よいのだと、わたしはこの場に、陶酔した…そしてしゃべった、たくさんしゃべった、クラスメイトのあることないこと、大声でわめき散らす女生徒たちの人間性までも、日頃観察してきたことを母に伝え、優先生に、わたしと他の生徒との違いを知らせようと、していた。いままで溜まっていた水がいっきに堰を切って流れ出したようだった。ときには食べるのを忘れてしゃべった。こんなに話す子ではなかったのに…と母の眼が語っていた。わたしも、自らの話を自分の耳で聞いて、少しおかしな具合だなと思った。

 優(ゆう)先生がやってきた。扉のところで大きな鞄を置いて、呼び鈴を鳴らした。母も洋服を着替え、わたしといっしょに出迎えた。
「ようこそ…」母が明るく言った。
「お世話になります」優先生はそう言って、わたしと母を見比べた。そして母をじっと見た。その眼の色の少し変るのをわたしは感じた…知り合いだったのかな?わたしは母を見た。母はやさしい笑顔で、優先生の荷物を持ってあげようとしていた。
「いえいえ、これは大丈夫ですので…」母が重い荷物を抱えようとするので、優先生は、それを気遣い、自ら下げて家へ入った。
「先生、このお部屋を使ってください」わたしが母のかわりに案内する。
 その西側の部屋は、わたしの部屋の隣だった。母の東側の部屋からは、キッチン、ダイニングルームと隔てられていたので、先生も静かに勉強できるだろうとわたしは思った。そして、夜は先生の部屋でわたしもともに勉強できるだろうと…

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