FC2ブログ

プロフィール

michianri

Author:michianri
せつない 想い…
つたない ことばたち…
やりきれない 心…

『詩片日記…薔薇園…片想い』

第一章『詩片日記』
surrealiste
 hypochondrie
    ~prologue
       灰川道緒

第二章『薔薇園』
     
       鵜沓 綾

第三章『片想い』

       野川美千夫  

カテゴリ

小説ブログ 長編小説へ
            人気ブログランキングへ              

リンク

このブログをリンクに追加する

月別アーカイブ

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

RSSリンクの表示

最新トラックバック

最新記事

最新コメント



(c) 片想い…
design by Echizen
photo by mizutama

せつない ラヴレター つたない ことば やりきれない 日々… 


     
 なんて静かな日なんだろう。朝から雨がときおり降るけれども、裏山に住む一羽のうぐいすの声が、ぼくの目覚めたときより、つづいている。薄暗くなると、遠くのひぐらしも鳴き、静けさが深まる。ふたたび雨が降ると、雨音とヴァイオリンの音が重なって、山の木々は沈黙する…
 きのうより、やまゆりと蘭の原種をスケッチする。白い巨大な花が吐き出す香りに、ぼくはむせながら、注意深く斑点の数を数えた。開きかけた朝の花は美しい。雄蕊たちも正装し、彼女に対して礼儀をわきまえていた。でも今は、すでにレンガ色の彼らは、ぼくの吐息にも揺れて、花粉だらけのむくれた姿で、ぶらさがっている。波打つ花弁のそり返り方は、なんというカーヴを描いているのか…
 蘭は、ブラッサウォラ・ククラータ。なんだか海洋生物的?宇宙生物的?そんな花。夜の一時間だけ香りを漂わすんだ。開きはじめの、烏賊をリボンにしたような形はどう?


                七月二十日 夜
      『おまえはうなだれた薔薇の花』を書きとめる。
スポンサーサイト



            
 …雪が降っている。父の部屋の窓を開け放って、ぼくは姉のベッドに横たわり、天からほこりのように落ちてくるそれを見ていた。
 姉の計画は頓挫したのか?ぼくがぶち壊したのかもしれない。歩行を知られることは、姉の計画書にはなかったのだ、たぶん。計画の中断は、姉の心を乱した。そして、秘密を見破られて、開放的になった姉の心は、逆に融け出していった。今までささえていた太い腕が、解き放たれた心の光を受けて、崩壊したのだ。ささえられていた心が戸惑いを深めて、そして、もとにもどった。もとの硬いさやのなかに吸収されて、閉ざされてしまった…
 
 でも、これも姉の計画の一部かもしれない!ぼくは用心した。こんどは騙されない。医者にも伝えておこう。これも芝居かもしれないと。
 
 でも、ぼくは、ぼくは騙されたい…そうされたいと、心の、身体のどこからか、聞こえてくる…いや、そうではない、ぼくにはあの人がいるではないか、あの手のぬくもりは、忘れはしない…あの人の、手の…
 
 …ああ、姉の手すら、恋しい、ぼくは、姉の寝ていたベッドの匂いを、嗅いでみた。
 …こんなもの!シーツを剥がすと、彼女への手紙が、次々と出てくるんだ。
 …こんなもの!もうなんにもならないではないか、なぜこんなにも、侮辱されたものに見えるんだ、過去の醜態を暴露されたように…

 ふざけた女だ!姉のやつ、今頃は、次の計画を練っているに違いなかった。そうだ、医者に言っておかないと!
 
 ぼくは、しずかに色鉛筆を握った。描きかけの、ライラックの果実のひとつを少し塗ると、手のひらへ、そのグレイグリーンの尖った先を、突きたてた。痛みもなく、すっと手のひらの真ん中を通り過ぎて、ライラックの果実に達した。
 ぼくは、しずかに立ち上がり、窓のそばに行き、雪の上に血を垂らして、いくつかの斑点を作った…

 …でも、でもこんなにもさびしい。いくら斑点を並べてみても、ひとりはさびしい。姉もさびしいだろうか。ぼくはもっとさびしい。まわりに気遣ってくれる人はだれもいない。姉はたくさんの人に囲まれて、我が儘いっぱい、叫んでいるかもしれない。ぼくは…叫べない、叫ぶ声を、忘れた。どんなに叫ぼうとしても、大気のない世界に住んでいるように、なにひとつ、とどかないし、伝わらなかった。だれも、だれひとりとして、ぼくの傷を癒してはくれないし、キレンジャクさえも、冬の蛍さえも、姿を消した…

 ぼくの眼は暗く、見える色は褪せていき、赤色も、緑色も、白さえも、すべてが灰青く、くすんでいき、指先で、瞼を剥いてみるけれども、すぐに目玉は回転して、眼窩の壁に貼りついてしまうんだ。
 …雪は、無数の隕石に見えて、無音のまま、庭に積み重なり、やがて、ぼくを、この世の底に沈めてしまうんだ。
 
 どんなにぼくが、いい子だったか、姉に聞いてみてよ!
 そこにいる人、ぼくの大切な人…
 …お母さん、どこ?どこにいるの?…
         
 やまゆりが咲いた。きのうぼくは白いつぼみのうえに鼻をすべらせて香りを嗅いだ。そのやまゆりが三つ同時に開いた。つぼみは全部で八つ。アップルミントのやぶのなかから、ぼくの胸の高さまで、すらっとしなやかに伸び出て、極めて重い花の房を下げている。雄蕊たちはまだ唇も開かずに、花の中央の雌蕊のまわりをとりまいて、すましている。しかし、すでに香りはぼくの頭の先を狂わせた。花のなかは、大きな黒揚羽を惑わすために、奇怪な斑点を散りばめている。まだその正体を見せてはいないけれど、雌蕊の先が濡れる頃には、黒い蝶と同様にぼくを発狂させるつもりなのだ。
               
       『熟成』
 月が、姉のベッドを照らしている。ぼくはそばに座って、「マルテ」を読んでやっていた。姉は天井をじっと見つめて、聞いていた。白椿のところが近づくと、ふたりして眼をあわせて、ほほえんだ。母を思い出すのだ。ああ、やさしい母。どんなにぼくたちを愛してくれていたか、今になってわかる。あの長く白い指と、形のいい爪、いい香りの髪と耳のうぶ毛。睫毛はまっすぐで、いつもぼくはそれを横から眺めているのが好きだった。
 「マルテ」を朗読するときの母は、すべての「母」のなかで最高だった。あたたかみと、かなしみと、不思議な言葉や不可思議な光景を、美しい声が、一枚の絵画に完成させた。
 
 ぼくは眼を上げて、遠くを見た。
 「道緒ちゃん」
 「…え」ぼくは吾に帰った。姉が手を握っている…
 「…姉さん…歩けるんだね」
 姉は黙っていた。ぼくの手を離して、月の光を手で捉えようとした。
 「ごめんなさい…黙っていて…」
 「いつから?」
 「…はじめから」
 「え…はじめって?」
 「そう、ここへ来たときから」
 ぼくは唖然とした。騙していたんだ、ぼくを。ぼくだけじゃない。医者を、看護婦を、みんなを。どうして?どうしてそんなことをする?なぜそこまでして人を騙す?……そうだ、姉には目的があったんだ。病院生活のあいだに練り上げた、素敵な計画があったのだ、きっと。
 ふざけた女だ!
 ぼくの心は、姉の首を絞めていた。ぼくの今までの思いやりは、なんだったんだ。どんなに姉を、姉の身体を大切にしたか。食事もせいいっぱい作ったし、女の悦びも、味わせてやったのに。なんということだ……でも…でも、ぼくはうすうす知っていたのかもしれない。心の奥底では、気付いていたのかもしれない。表の心がそれに蓋をして、見えないようにそうさせていたのかもしれない。姉との生活は、気持ちよかったし、姉はいつもぼくに感謝していたし…つまり、ぼくの従順なお人形だったのかもしれない。ぼくが生けるお人形として、姉を飼っていたのかもしれない…

 そっと起き上がって、姉は床に足をついた。少しふらつきながら、月の光の道をたどって、窓の方へ歩いた。姉のシルエットは、母に似ていた。いや、母そのものだった。
 ぼくはなにも声に出せなかった。頭も停止してしまった。姉を後ろから抱きしめた。月の光がふたりを照らした。闇の部分から逃げてきた、恋人同士のように。

 姉の排泄の世話をしなくなってから、ぼくは、なんだかつまらなくなった。なぜこんな感情が湧くのか、よくわかっていた。姉の世話をするのが、好きだったのだ。姉をお人形さんとして扱うことが、ぼくを優越感と、支配感で満たしていたんだ、たぶん…
 ある日、姉に言った。
 「姉さん、今までのように、してくれない?」
 「…」
 姉も、今までがいやではなかったはずだ、ぼくのお人形になっていることが。ぼくはとてもやさしかったし、姉もぼくのそのやさしさに答えてくれたから。
 「いいわ…つづけましょう」姉はそう言うと、ベッドに横たわった。

 その日から、ぼくの介護が、儀式に変わった。
 心を籠めた奉仕から、おぞましい儀式に。
 姉も、人形から生ける女に変身した。ぼくは、姉とぼく自身の、首から下のすべての毛を抜いた。ふたりの身体はつるつるになった。オイルを塗り込み、丹念にマッサージをした。お風呂にもいっしょに入った。白い入浴剤のなかで、身体を擦りあわせた。そして、綺麗になった姉の身体を、ぼくは丹念に描いた。100号の大きさの紙に、姉の全身をすみずみまで克明に描き込んだ。睫毛の本数を数え、虹彩の数も同数を描き、爪の長さもコンパスで計り、指の角度をもっとも官能的に描いて見せた。
 姉は最高のモデルだった。ぼくの注文にも素直に従い、長時間、ぼくを見つめてくれた。
 顔や、指先や、足先からしだいに現れてくる絵に、姉は狂喜したんだ。そのあといつも、薔薇園をともに並んで歩いた。子供の頃、遊んだ薔薇園の底にふたりで横たわり、いくども抱きあった。「あの女」が磔になった薔薇の木を指差して、ふたりで笑った…
 
 こんなにも、計画が順調に進むなんて、だれも思わなかった?ぼくは自分の願いどおりになって、今まで以上の細密的快楽が味わえて…もちろん姉も…姉も?

 …なぜだ、姉は痩せていった。冬が来る前に、消えてしまうかもしれないほどに細くなっていった。そして、その精神は侵され、ふたたび入院することになった。
       あらたな計画2
 でも、あなたは、雨のなかでも濡れない呪文を知っていた。それは?…ちゃんとぼくの眼を見て答えて!…今日のように涼しい夜は、心をむきだしにしたぼくを、冷たくする。ドアのところから遠くあなたの姿を見つめていたぼくは、あなたの魔法が解けることを願って、ドアを閉めた。
                (夜11:30)
 ぼくは人々の分類する情熱的と言われる人間ではない。むしろ冷たい人間なのかもしれない。意地悪で、傲慢で、孤独で…心の隙間を吹く風を快楽としているような…そんなぼくが一見ロマーン風な言葉を吐くのは、自分の剥がれ落ちた仮面をとりつくろうため。それら感傷的な言葉にけっして惑ってはならない。ぼくの魔法にかかっているあなたは、自分の手のひらを見つめて、あの呪文を唱えなければ、ぼくの蜘蛛の巣からは逃れられない。その巣糸には、雨の雫が無数に連なって、あなたの泪に見えた(あなたは迂闊にもその言葉を忘れて、体液をすべて、ぼくに吸われてしまった)。ほら、もう十二時を回っていくではないか。ぐずぐずせずにあなたはぼくの身体の一部となれ。ぼくの善人づらの仮面がすべて剥落するまえに。
       
 ぼくは彼女に、ぼくの持っているすべてのオールドローズの本を見せた。彼女は嬉しそうに、一頁一頁めくっては、「ああ、この薔薇もすてき!」と、眼を輝かせていた。重い洋書は彼女の膝のうえで、よりいっそう美しい本に変身した。
 そしてぼくは、ぼくの植物画を彼女に見せた。彼女はそれを、一枚一枚手にとって、大きいものは壁に立てかけて、そのつど、ため息を漏らした。
 「なんてすばらしいのでしょう…いつも、灰川さんのご本で見ていただけですから、原画はとても美しい…刹那刹那をほんとうに克明に写しとられている……」彼女の手にある絵は、ぼくのものではないような輝きを見せ、額のガラスに映る彼女の姿を、やさしく受け入れていた…
 「実は、わたくしもこのたび、月刊誌に連載をすることになって、灰川さんにその絵を見ていただこうと、持ってまいりましたの」そう言って彼女は、絵の入った大きな紙のケースを身体のそばに引き寄せ、絵を取り出した。透明水彩のやさしくなめらかな植物画だった。ぼくも以前、彼女の作品の数点は、別冊に載ったものを見ていたが、原画の薔薇は美しかった。ほんとうにオールドローズを愛する人の絵だった。泪が溢れてきた…ひとつぶ、絵のそばをかすめて、床に落ちた。
 「ごめんなさい…なんだか、感動してしまって」
 「うれしい…灰川さんに見ていただけて…」
 「玲さん…道緒と呼んでください」
 「はい」彼女は微笑んで、ふたたび厚い洋書を膝に置いた。

 となりの姉の部屋からは、物音ひとつしなかった。
 姉は察してくれているはずだ。たぶん、彼女が来たことも知っているだろう。ぼくの返書を無きものにしたことを、少しは悔いているかもしれない。そんなことで彼女の意思の変わらないことも、悟ったにちがいなかった。

 以前は、ぼくだけが二階と呼んでいた屋根裏から、今は、この部屋、父の本の墓場だった部屋にアトリエを移していた。
 窓は縦にいくつも並んで、光はそれぞれの窓の形を、床に落としていた。彼女の膝に、腕に、髪の毛に陽の光が散らばり、床へはねかえって、彼女の姿を浮きあがらせていた。煙立つように、薔薇の本からのほこりがきらきらと輝き、ぼくの彼女への想いとなって、その人を包み込んだ。
 「灰川さん…道緒さん…また、お花の時期におうかがいしてもよろしいでしょうか」
 「ええ、もちろんです…ぜひわたしの薔薇たちを見に来てください」
 …もうお別れの時間なのか…さびしい。もっともっと、いっしょにいたい。彼女のそばに座って、その匂いを嗅ぎ、その身体に触れ、その眼を眺めていたかった…
 「では、そろそろ失礼いたします…急におじゃまいたしましたのに、ありがとうございました…道緒さんは、わたくしが思っていた通りの、おやさしい方で、わたくし、とてもうれしい…」
 彼女の手が、ぼくの手に触れた。彼女はぼくの手を取って、一瞬強く握り、そして、離した。彼女の手のぬくもりが、いつまでも残った。

 車の後ろに乗り込んだ彼女は、ガラス越しに、より美しかった。窓に手を置いて、微笑んだ。ぼくも手を少しあげて、さようならをした。テールランプが不安げに光った。このまま二度と逢えないかもしれない。この別れは、永遠の別れの始まりかもしれない。そう思った瞬間、ひとすじの泪が頬を伝った。
 ぼくは、家のほうを振り返らなかった。きっと、姉が見ているだろうから。この泪を、誰にも見せたくはないと思ったから…

       あらたな計画1
 ぼくがあなたになにかを期待することで、ぼく自身が追いつめられていく。自分を追いつめるために、あなたを強く想っているの?いや、それは苦しすぎる。それほどまでにぼくは自虐質ではない。あなたを強く想うということは、ぼくの雨の強さに匹敵する。ぼくの曲線に降る雨が遠心力を強めるほどにあなたを強く想う。ぼくの雨は、文字となって降ることも、泪となって降ることも。そして、呪縛の糸となって、あなたの心へ降りそそぐ。ぼくのなかのあなたの存在は、ぼくのなかのぼく自身の存在よりもはるかに巨大な雨雲を同居させていた。しずかに、遠雷が、規則正しくつづき、あなたの存在の位置を知らせた。ぼくが、眼を見開いて自身の心の破片をつかもうとしても、ただあなたのふっくらとした網模様の腿が爪に引っかかるだけだ。あなたの足指は、ぼくの口のなかへ突っ込まれていた。
 天から落ちてくるものが雨に似たものであっても、あなたは逃げてはいけない。ぼくのように口を開けて、そのさらさらとした糸を喉の奥へ流し込め。ぼくのするように、両手を頬にあてがって、にがい文字の鎖を呑み込め。ぼくが知ったように、あなたは言葉の最後で、あなた自身を知ることになるんだ。
 さて、ここまでに、たどりつくためのあなたとの会話はすべて、ぼくが雨の色に染めあげてしまった。というのも、もうぼくの存在すら雨でしかないからだ。あなたの心を雨で包むために、あらゆる雨に似た糸の特質を、ぼくは調べた。
        
 今までどおりの姉との生活を、ぼくはたんたんと続けた。
 薔薇の夏の葉の時期は、それを一枚一枚描くのに忙しく、むしろ、なにも余計なことを考えずにすんだ。
 結局「ロサ・ロクスブルギー」も咲かず、今年も花を描くこともかなわずに、小さく並んだ葉の列をいくつも描き込んだ。
 庭では、夏咲きのクレマティスが咲き、一年中花をつける「ロサ・オドラータ」が、長いつぼみを垂れていた。ぼくはそっとそのつぼみをもちあげてみた。クリーム色とローズ色がパズルのように境目をつくっている。萼はそりかえり、なんてすてきな形なんだと、思った…
 「灰川さんですか」
 後ろをふりむくと、女性が立っていた。
 一瞬、地面がもりあがったように見えた。人が高みに押しあげられて、ミナレットになったと思った。
 「ああ…」ぼくは声が出なかった。眩暈がする。
 急に立ちあがってしまったから?…夢じゃない、夢じゃない気がする。ぼくの眼のまえにいる人は、あの人だ。あの、N字形の彼女だ。美しい手紙をくれる、鵜沓玲だ!
 「あの…灰川道緒さんですか?」
 「はい…玲さんですか」
 「はい、はじめまして」
 「はじめまして…」
 「急におしかけてしまって、申し訳ありません」
 「いえ、とんでもない…わたしの方こそ…お返事も書かなくて、ごめんなさい」
 「いえいえ、急なお願いだったのですし、薔薇のお花の時期と重なっていましたし、とっても忙しいのですもの…わたくしの方こそ、ご無理なお願いでしたから、当然ですの…でも、どうしても、お逢いしたくて」
 「…」ぼくは、どんな顔をしているんだろう。
 ……
 先ほどまで、ひどい頭痛で、薔薇のつぼみを見てようやくそれがおさまってきたところだから…
 「この薔薇は?」彼女が聞いた。
 「ロサ・オドラータです」
 「ああ、わたくしも持っています…すてきな薔薇ですね」
 「ええ、いい香りがします」
 彼女の長い髪が、ぼくの眼のまえにあった。彼女がその薔薇のつぼみを、ぼくと同じようにもちあげていたから。
 髪の毛が薔薇の方向へゆるやかに流れて、くずれ落ちた。ふと、彼女は振り返り、その髪を耳の後ろへもどしながら、言った。
 「灰川さん、いちどどこかでお逢いしました?」
 「はい…あの薔薇園で」
 「え?…」彼女の宝石の眼が、ぼくを見つめた。
 「あの、薔薇園?…」
 「ええ、赤レンガにかこまれた…」
 「あの時の?…たしか、わたくしのビーズを拾ってくださった?…ああ、ごめんなさい、そうなのですか?…あの方が灰川さんだったのですか、いえいえ、灰川さんがあの方だったの?…なにもおっしゃってくださらないから、わたくし、どうしたんだろう、いやだ、顔が熱くなってきた…」
 「…」ぼくは彼女の立て続けの言葉に、沈黙させられていた。
 「じゃ…あの時、お写真をお送りした時から、ご存知だったのですか?」
 「はい」
 「まあ、なぜ、なぜひとこと言ってくださらなかったの?」
 「とんでもない…あの時はただ、一瞬の夢のような…いや、玲さんと、そう、少しばかり袖をふりあっただけですから、それに、一目惚れなんです、なんて、はずかしいばかりですから」
 「そう…わたくしも一目惚れでしたの、あの方に…でも、ただそれだけでしたから、そうですね、一瞬の夢のような…」
 彼女の眼が、一段ときらきらと輝いた。ぼくはため息を押し殺した。彼女がまばたきをするときに、はっきりと長い睫毛が見える。ふたたび眼を開くと、そこには、いっそう美しいエメラルドが潤んで光った。
 ぼくはいたたまれないほどに感動していた。ふたつの宝物が一つに合わさって、よりきらめきを増して、ぼくの手のひらを融かすような気がした。
 「ふたたびお逢いできて、わたくし、うれしい…」彼女が言った。
 ぼくは彼女を見た。すると、彼女の顔の向こうに見える窓に、姉の姿があった。たしかに姉が、カーテンの隙に重なって立っていたんだ。
 ぼくの視線に気づいて、彼女も振り返った。
 「では、行きましょうか…どうぞ」ぼくは幻影をかき消すようにそう言って、彼女を家へ案内した。
 
         夢
あなたはこんなにもちっちゃいの。あなたは、そんなにもちっちゃな姿で、ぼくの心に大きな穴を穿った。
ちっちゃな可愛い少女が、ぼくの心の穴に住みついた。
その顔に、ぼくの顔を近づけてよく見ると、あなたの顔。
ちっちゃなあなたの顔が、ぼくの顔に、鼻の頭をくっつけて、笑みをこぼした。
あなたの眼を見ると、眼のなかにぼくの眼が映っていた。
ごつんと、おでこがぶつかって、あなたはおでこを手でさする。
ぼくはあなたの足を踏んづけていたので、あなたの考えが手にとるように、わかった。
       
 …そのほほえみが、姉に遺伝したんだ。

 姉のそばに近づきながら、ぼくはそれを確認した。
 「お母さん…」低い声がぼくの唇から漏れ出た。
 ぼくは、姉のベッドに横たわった。姉が手を重ねてきた。熱い手。燃えるように熱い手。母がいつもぼくのほっぺを両側から包んでくれた、あたたかい手のひら。鼻の先を合わせると、母の澄んだ瞳がぼくを、ぼくのすべてを映し入れた…

 背中になにかあたるものがあった。シーツの下になにか挟んであるように思えた。ぼくは起き上がって、シーツの上からさわってみた。長方形の紙のようなものがあった。姉を見た。姉はぼくを見つめている。「さあどうする?」と眼が言っていた。
 ぼくは、もうある予感がしたんだ。「あっ!」と心のなかで叫んでいた。
 「あの、あの手紙?…彼女に出した返書…」…胸の塊りがつぶやいた。

 姉の顔色に、すべてが判明した。たぶんぼくの手紙を、ポストから盗んだんだ。いや、そんなことはできないから、局に返送を頼んだに違いない…ああ、ぼくは、ぼくはどうしたらいい?…姉が嫉妬を?なぜ?ぼくたちは姉弟ではないか、それも双子の。お互いのすべてがわかるから、すべてを赦しあっているはずなのに……姉はぼくを失うことを恐れたんだ、きっと。ぼくが他の女性と文通していることは知っていた。でも、それ以上の関係ではないことも、姉は知っているはずなのに…たぶん、姉のなかでは、ぼくとの生活がすべての世界であるのに、ぼくの世界がもう少し広いことに、嫉妬したのかもしれない。
 ぼくはなにも言わなかった。ただ、泪が頬をつたって、シーツの下の手紙を濡らした…彼女の名が、透けて見えた…