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michianri

Author:michianri
せつない 想い…
つたない ことばたち…
やりきれない 心…

『詩片日記…薔薇園…片想い』

第一章『詩片日記』
surrealiste
 hypochondrie
    ~prologue
       灰川道緒

第二章『薔薇園』
     
       鵜沓 綾

第三章『片想い』

       野川美千夫  

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(c) 片想い…
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せつない ラヴレター つたない ことば やりきれない 日々… 


テンプレ
「わたくしは看護師の、文野(ふみの)ゆきです…これからよろしくお願いいたしますね」…ああやっぱり「あや」の声だ、まちがいなかった。あやは生きていたんだ。ふふふ、あやちゃん!あや!わたしのあや!…わたしも生きている、母も?母も生きている?お母さん?お母さんはどこ?…あなたのお母さまはここよ!「じゃ玲さん、お身体を拭きましょうね」
 部屋の隅で見ていた看護師たちは、帰っていった。車の音が耳に残った。

 わたしはお家に帰り、「文野ゆき」という「あや」にお世話になるのだ。となりに母もいた。ミントブルーの母がいた。見えないけれども、その心臓の音が聞こえた。わたしは手を伸ばした。あった。母の手が、腕が、あった…
「りょうさん、なに?」ミントブルーの「あや」だった。「あや」の腕だった。

 …あや!あや!「あや!」わたしは叫んだ!…
「しっ!」あやがわたしを制して、わたしの耳に言った。
「おかえり、りょう!」…やっぱりあやだった。ほんもののあやだった。いやほんとうは、にせものの「あや」だった。まあ、どっちでもいい。あやが生きていたんだ!…どうして?どうして生きていられたの?…「ふふふ、りょうちゃん、わたしがドジを踏むわけないでしょ!身代わりよ、身代わり!…優子の子供の「ゆき」にわたしの代わりにあの世へ行ってもらったんだ、うまくやったでしょ!ねえ、りょうちゃん、なんとか言ってよ!」
 …わたしはうまく口が聞けないので、手を握りしめて、返事をした。あやちゃんわかった、わかったよ!わたしのかわいいあや!…母が、唸っている、なんだか変な声で。
 母はいったいどうして寝ている?わたしと同じようにベッドに寝ている?…あやが身体を拭くのを途中で置いて、わたしの手を胸の上に組ませていたので、横向きのそのままの姿勢がつらくなったのだろう、唸ったあと、ばたんと仰向けになって、首がわたしの方を向いた…目玉は白く、唇は腫れあがり、白い髪の毛はさらに白く、プラチナのようだった…お母さん…わたしは泣いた、こんな人、お母さんじゃない、お母さんがこんなことになるはずないじゃない、ちがうちがうちがう…母じゃない、別の母がそこにはいた。


 わたしたちの生活は単調なものだった。くる日もくる日も、ベッドの上がわたしたちの世界のすべてで、部屋の壁も、天井も、窓から見える木々も、貼り付けられた壁紙でしかなかった。
 あやだけが、その貼り絵のなかを飛びまわる蝶のようで、わたしたちの生きるすべてだった、生きていく心の力となった。
 あやは、常にわたしたちに献身的だった。そのすべてにおいて心を感じた。こんなにいい子はいなかった。こんなにも可愛い子はいなかった。わたしたちにこんなにも心をこめて、自分の身をささげ、介護してくれる人は、他にはいない…あや、あや!ありがとう…


 ある日、あやがわたしの手を握り、言った…「あなたたちふたりは、心中しようとしたの、お風呂で…たまたまあの刑事が来て、あなたたちふたりを発見して助けてくれたのよ、母もあなたも一命は取り留めたけど、お母さんは、こういう状態、あなたも寝たきり…でもあたし、あなたたちの面倒を見る、だってあたし看護師なんだから…あれから十年も経っているの、りょうちゃん、…そう、十年…あたし、少し顔を変えて、看護師学校へ行って、資格を取って、そうしてここへ戻ってきたの!わかった?りょうちゃん、あなたたちふたりのところへ、戻ってきたのよ!ついに…」

 …ふふふ、そうだったの、あや、すばらしいわ、わたしたち三人で、永久に暮らせるのね、三人で、三人で…お母さんと、わたしと、あやと…でも…

 …でも、こんな姿のわたしは、つらい…母も、つらい?…このまま、この姿のまま、あやの支えのみで、生きていく、わたしは、わたしたちは…

…ふたたびわたしの意識が遠のいていく、どんな喜びも、哀しみも、ベッドの上では、味のないお砂糖に変わってしまう…甘さも、苦さもなくて、ただ、舌の上をざらざらとして、砂のようだった…

 …わたしは、眠った…しずかに…ゆっくりと…深く……

                第二章 終り

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「鵜沓さん、鵜沓りょうさん、起きて!」わたしの大好きな、白い人々がやってきた。またわたしの身体をすみずみまできれいにして!棒のような、わたしの身体!ん?先生だ…先生がいる。白衣のポケットに手をつっこんで、白い人々を監視している…
「鵜沓さん、退院ですよ、さあ起きて!」わたしが退院?じゃ病院にでもいるのだろうか?ああ先生!先生はわたしの先生?ねえ先生、わたしどこか悪いのですか?悪かったのですか、もう退院してもよろしいのですか?…
「さあ、着がえましょうね…かわいいお洋服がとどいていますよ!」
 白いひとりが、わたしを裸にして、服を頭の上からすっぽりとかぶせた。
 …わたし、かわいい?そうかわいいの…ちっとも見えないけれど、ちょっとあなた、じゃまよ、先生が見えない…あ、この白い人たちは、看護師だったんだ、いま気づいたわたし。みんなてきぱきと、わたしの身体も器械も、ベッドも部屋も、なにもかもかたづけた。ほんとうに手際よく…ばいばい、さようなら先生、さようなら白いみなさん…つーとすべっていくわたし。なんだか、気持ちいい…ドアを、廊下を、赤いランプを、人々を追いこして、わたしはすべった。ゲートが開き、箱のなかでストップ…ああ、落ちる!気持ちいい…どこまでも落ちて!ずーと落ちて…落ちて…止まった。ゲートが開き、スカイブルーのまぶしい世界へ放り出されたわたし…いい気分!少し眠ろうね、こんなにいい気持ちなんだから、揺れるベッドのなかで……

 わたしはベッドのまま運ばれた。そして、ベッドのままお家へついた。わたしのお家、白い壁、赤い窓、母の顔…ただいま!帰ったの、「りょう」が帰ったよ…だれもいない、だれひとりいない、お家…そうだ、みんな、みんな死んでしまったのだから、だれもいないね、ちょっと看護師さん、ひどくしないで、そう、ゆっくりね、ここよ、ここ、母のお部屋…
 わたしは母の部屋へベッドのまま入っていった。もうひとつベッドがあった。ミントブルーのシーツがふくらんで、だれか眠っていた。だれ?わたしはたずねた。答えはなかった。おなじミントブルーの医務服を着た看護師が入ってきて、白い看護師と少し言葉を交わして、わたしのそばへやってきた…
「りょうさん、こんにちは…」…なぜか懐かしい気持ちがした。わたしの心のなかに、グジュッと音をたてて、なにか生あたたかいゲル状のものが流れ込んできた。
「これからわたくしが、おふたりのお世話をさせていただきますね」…なんで、なんで、なんで「あや」なの、「あや」がいるの?この声は「あや」じゃない!わたしの眼ではよく顔は見えなかったけれど、声はたしかに「あや」の声だった…あや?あや?あやじゃないの?…
          * *  

 …わたしは目覚めた。ここはどこだろう?見たことのない部屋だった。すべてが白かった。壁もカーテンも、シーツもベッドも、わたし自身も純白だった…ああ、たぶんあの世かもしれない。はじめて見るあの世界。すべてが白く、汚れもなく、穢れもない世界。わたしがあこがれた、この空間は、わたしのものになったのだ、ついに…
「鵜沓さん、起きて!」白い女が立っていた。
「さあ、身体拭きますよ!」そう言ってわたしのシーツをいきおいよく剥がした。そして、わたしの着ているものを手際よく脱がし、身体を拭いた。すみずみまで、耳の穴から、足の指のあいだまでも。わたしはそれをじっと見ていた…わたしを横向きにしたあと、ひっくり返し、背中も拭いた。首も、お尻も、足の裏も…なぜかわたしは女たちのなすがままで、力が身体のなかにひとつも残っていないかのようだった。腕を持ち上げられても、人のもののようだった。背中も、太腿も、足の先も、ほかの人のものだった。なにも感じないし、どの部分も動かせなかった。たぶん脳みそのみ生きていて、身体は死体なのだろうと思った。ただ目玉だけは、白い女たちを追っていた。裏返されてもなお、左右に眼を動かして、状況をつかもうとした。
「はい、おわり!」「綺麗になったわね!」「それじゃまた来ますね」
 女たちはそう口々に言って、あっというまに消えていった。あとには、白い、なお白い空間が残っていた。

 天井を見つめていたわたしは、その白い天井に、真白いがゆえに、だれかの顔、人の姿が浮かんでくるのを待った。白という色は、とても濃厚で、とても暗く、とても破壊的な色なのだ。白の補色が暗黒だということをあなたは知っている?わたしの眼は壊されて、なにも見えなくなっていたのか…暗闇以外の色彩も感じられなくなっていた。けっして眠っているのではない、暗さとその圧迫力をちゃんと感じていたから。
 手で、空を切ろうとしたけれど、わたしの手は、なかった。手も、それに続く腕も、見えなかった。脚も見えないし、身体すらなかった。さっき、白い女たちに拭いてもらっていた身体は、どこ?わたしの可愛い、からだ…
 考えることは、心をつらくするだけだなと思った。だからわたしは、考えることをやめた。思うことも心を冷たくさせるだけだった。だからわたしは、思うこともやめてしまった。残されたのは、ただ、目玉を左右に振るだけ。それはけっして楽しい作業とはいえなかったけれども、いまのわたしには、この暗闇にいるわたしには、唯一存在を示すための行動だった。でもまばたきができないのか、しだいに目玉は乾いていき、左右する動きはだんだんと鈍くなり、軋む音をさせて、止まってしまった…目玉の前に、まん前に、なにかがいた。鼻から出る息がわたしの唇にあたっていた…ご、ごめんなさい、お母さん!ごめんなさい、ゆるして!…だって、母の匂いがしたから、母だと思った…
「りょうちゃん…」ああ、やっぱり母だ、母の声だ、懐かしいお母さんの…
「りょうちゃん…起きて」わたしの身体をゆすった…ああ、血が流れる、身体中に熱い血が流れ下っていく、指先も、胸の中心も、足の先までも、血がしびれるように、めぐっていった。
「りょうちゃん、おはよう…」

 眼を開けると、あやがいた。わたしのベッドの横に立って、わたしの顔をのぞき込んでいた。これは幻だった、きっと幻なのだと思った。そうでないのなら、わたしは、いや、わたしたちは、天国で再会したのだ。きっとそうだ。天国、あの世、あの世界、わたしがあこがれた、父も母も、伯母も、あやもいる、あの世界…
「ちょっと、りょうちゃん!」パシッと、あやがわたしの頬をぶった…もういちどぶった…あら、あやじゃない。わたしはほほえんだ。
「あやちゃん?」…ふふふ、あやじゃないの?
「なに言ってるの、りょう、早く起きなさいよ!学校遅れるよ!」
「学校?…」わたしは依然として、だれかにだまされているのだ、きっと。時がもとに戻るはずはなかった。あの時に、あの時のわたしに。
「お母さんは?…」わたしはためしに、あやにたずねた。
「お母さん?なに言ってるのよ!…お母さん!」あやはキッチンに向かって叫んだ。
「なに、あやちゃん…りょうちゃん、起きた?」…母だ、間違いなく母だ!わたしのお母さん!…ああ、お母さん、抱きしめて、わたしを抱きしめて!
 わたしは母を抱きしめた、しびれたままの腕で、強く、抱きしめた、あたたかい…ほとんど炎のようにあたたかい!…そして、次の瞬間、母は見事に砕け散った。焼けすぎた魚かなにかのように、粉々に、いやな臭いを残して、砕け散った。
「ほら、あや?お母さんて、こんなものよ!」…わたしのお母さんて!
 …もうだれもいなかった、真白い部屋のまま、わたしはひとりぽつんと、そこに存在していた…

 …わたしはふたたび、目覚めた…
私の身体が、水に浸かっているのがわかった。腰ぐらいまで、水に浸かっていた。水がときどき、きらきらしている。私のスカートの裾が、水のふちで揺らめいていた。制服のスカーフが近くに落ちて、沈んでいた。わたしはそれを水のなかから拾いあげ、眼のまえにぶらさげた。紺色がさらに濃くなって、ほとんど黒に見えた。
 わたしは思い出した。お屋敷が燃え落ちるのをここで見ていたことを。美しい燃え方だった。空は一面の火の粉に被われて、炎の動きとともに、右に左に振りまかれ、倒れる柱や壁や、無数に舞う瓦が、滝のような水とともに降り落ちてくるのを見ていた。けっしてそれは幻ではなかった。わたしの身体に降りかかるそれらの痛みを、わたしは覚えていたから。水が跳ねて、眼に飛び込むけれど、まばたきもできずに見ていたから。そのうちに、人々がやってきて、わたしの身体を頭と足をつかんで持ち上げ、うすいベッドに載せた。わたしにはすべてが黒く見えたけれども、すべての状況がわかった。わたしの手も胸も脚も、冷たく硬くなっていたけれども、すべての感覚は、たましいのなかにあった…
 ああ、りょう!…ここよ、りょうちゃん!わたしはここにいるよ…ここに、いる…
 暗闇とはほんとうは、すべてを含む深い海なのだと、わたしはさとった…

 …ふふふ、こいつは完全に混乱したな!わたしがどれだけお前たち親子を妬んでいたか知るまい!このわたしの計画がフィナーレを迎えて、もうすぐ完成するというのに、わたしをまだ「あや」だと思ってるなんて、間抜けな母親だ!わたしは正しい「りょう」であって、にせものの「りょう」ではないんだよ、お母さん、お母さま、ママ、あたしのママ!
 
 …ハハハ…わたしは父のような?いや、校長のような笑い方を知っていたんだ。下品なあいつらの面を見てるだけで反吐が出るんだ!だからみんな地獄へ送ってやったのさ。この背中のやけどを作ったのは、あのばか女、優子だったんだよ、聞いてる?ママ…わたしが腕を押さえられて、ベッドに押しつけられて、校長からレイプされてるとき、あの女はわたしの脚を持ってひろげやがった!ことがすむと、ストーブで焼いた包丁をわたしの背中に、記念だと言って押したんだ。くそ!人間の苦しみを知らないやつらめ!

 おまえたちもなんだよ!おまえとりょう、にせものの「りょう」…わたしがどんなに母親に、ほんとうの母親に逢いたかったか、おまえにはわかるまい、わたしは母親から切り離されて、どれだけその胸が、あたたかい胸が欲しかったか…わたしはひとりでいつも、ぽつんと、知らない家で、動かない、動けない長い旅をしていた…どこにも辿り着けない、どこにも待っている人もいない、長い旅、終わりの無い、旅を…知らない家の母は、わたしを叩くのが趣味だったんだ、いくどもいくども叩いては、わたしを熱いお湯につけて、教育だと、うなずいていた…そうなんだよ、ママ、わたしはあなたに…逢いたかった、ほんとうに、逢いたかった…ああ、遅い、遅すぎたんだ、もうだれも、わたしさえも、もとにはもどせない!…

 わたしは、ゆっくりと、母親の首を絞めた。絞めながら、お湯のなかへ沈めた。いくらもがいてもだめだよ、わたしの計画にかなう力なんて、どこにもないのだから!…母の口からたくさんの泡が出た。いくつもいくつも重なって、まるで人魚の息のようだ…そのうち、母は動かなくなり、長い髪の毛が、ゆっくりと、銀糸のように水の布のなかを沈んでいった…

 ああ…お母さん、ごめんなさい…わたしそんなつもりじゃなかったのに…わたしはあなたの子でしょ?あなたが産んだ、りょう?…あや?……わたしは…わたしは……


 …わたしは、そのままの姿で、お家を出て、お屋敷の墓地をさまよった…なんてすてきな気持ち、すてきな、夜…わたしは、生まれたてのようだった、生まれて暗闇に落とされた赤子のように、手足を振って、嬉しさを表した…薔薇の棘がいくつも身体を傷つけたけれども、それは、母の苦しみとはくらべものにならないほどのちいさなことだった…ああ、お母さん!母はどこ?あなたたち、知りません?…わたしは薔薇の木に青く光っている少女たちに聞いてみた…みんなそっぽを向いて、知らんぷりだった、でも、そんなことはどうでもよかった…お墓、お墓、お墓、わたしのお墓は?わたしのお墓はどこ?あなたたち、知りません?…みんなして、指差した…ちゃんとあるじゃない、ここに、わたしが座っていた、その石…お尻の下で、冷たくなっている、この石が、わたしのお墓?…お母さんは?お母さんのお墓は?…どこ?……
 わたしの手からノートが落ちた。幻影は消えて、母の手のひらに溜まった泪が光った。
「お母さん…わたしはなにもの?わたしはだれの子?わたしはどこに生まれ、どこに行くの?ねえ、お母さん、教えて!」
 わたしは母の肩を揺すって、母の眼を覗き込んだ。母は、呆然と正面を見ていた。その正面には、わたしがいるはずだったが、わたしを見ていなかった。母はなぜなにも言ってくれないのか、わたしが知りたいことをなぜ隠しているのか…こんな心を乱すノートよりも、母自身から聞きたかった、母の口からじかに、聞きたかった…お母さん…わたしは母の唇に、自分の唇を重ねて、舌を入れた…
 母は悲しげな眼をして、わたしのなすがままにしていた。わたしはしだいに自我を忘れていった。だって、わたしが何者かだれも説明できないじゃない、あなたにわかる?この苦しみが、この痛みが。血が痛いのだ、身体を流れる蛇のような血が、痛かった…母の舌がやわらかく、わたしの舌の上で泳いだ。わたしはその動きを止めるために、母の舌を噛んだ。強く噛んだので母は思わずのけぞって、わたしを突き離した…ふふふ、お母さん、ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったよ、許して…母は、笑って許してくれた…
 
 わたしが誰だっていいじゃないか、わたしはここにいるわたしだし、ずっとここに、母といっしょに暮らしてきたわたしなんだから…わたしたちはもう三日もなにも食べていなかった。お腹がすいた…ねえお母さん、なにか食べようよ!…わたしたちはキッチンへ行って、なにか食べ物をさがした。冷蔵庫のなかもさがしたけれど、なにもなかった。すべてが、干からびて、カビが生えて、腐っていた。冷凍室を見た…ああ、スープが。母が作って冷凍しておいたスープがあった。わたしはそれをあたためて、お皿に盛って、母とふたりで、向かいあって食べた。ときどきひたいがあたって、母も、わたしも笑った。おいしいスープだった。なにか黒くて白い虫が入っていて、ぬるぬるの食感が気持ちよかった…え?お母さん、なに?あ、これはきのこだね、わたし、虫かと思っちゃった、ごめんね、でもおいしいね、これ…母も唇にその虫のようなきのこを挟んで、笑った。わたしも唇に挟んで、そして、吸い込んだ…ああ、やっぱりお母さん、わたしはあなたの子だね。だってこんなに心が通じるもの、よかった、わたしはお母さんの子供、ほかのだれでもないあなたが産んだ、わたし…

 それから、母と、お風呂へいっしょに入った。「あや」といっしょに入ったように、母の背中を流し母の胸をさわり、お湯をかけあって、お湯のなかで抱きあった…ああ、気持ちのいい肌、お母さん、大好きだよ!わたしを産んでくれてありがとう…
 母がわたしの背中を撫でてくれた。いくども、いくども…だんだんと同じところを撫ではじめた。急にわたしの身体を回して、わたしの背中を見た。三本の細いケロイドがあった…
「あなたは…あなたは…」母が震えだした。手も身体も震えて、お湯が波立った…「あなたは、だれ?」母が震える声で聞いた、わたしはゆっくりと母の方へ向きなおって、言った「りょうよ…」母はわたしの顔を見つめた…「りょう?…」そうよ、本物のりょうよ!「あや」と呼ばれ続けてきた「りょうよ!」…
「お母さん…あたしはりょうよ、ほんとうのりょうなのよ…お母さん、りょうと呼んで、ちゃんとりょうと呼んで!」
「…あなたは…あなたは、あやなのね!」
「ちがう、あたしはりょうなの…お母さん、あたしはりょうなのよ!」
「…あなたは…りょう?…」

 秋も過ぎ、小雪の舞う寒い日、わたしはこの「墓地」に立った。お屋敷の焼け残った柱が黒く、過去の空白を埋めようと天を指していた。わたしがなぜここを「墓地」と呼んでいるのかというと、薔薇の木のあいだにいくつかの墓標が立っていたからだった。墓標かどうかはわたしにはわからなかったが、そのように見えた。「いくつか」というのは、正確には四つだった。二つは大きく、あとの二つは小さな、ほんとうに小さな可愛い石が並んで建てられていた…わたしは母に詳しく聞く必要性を感じた。母は自分の部屋でベッドに座り、古ぼけたノートを見ていた。わたしを見ると、やさしくほほえんだ。

 「お母さん、あの薔薇園にあるお墓…お墓でしょ?あれは誰のもの?」わたしのとつぜんの質問に、母は少したじろいで、ノートを手から落とし、わたしを見つめた。「ねえ、話してよ、わたしに…ぜんぶ!」わたしは母に詰め寄った。なぜこんなことを母に対してするのかわたしにも理解できなかった。何か切迫した状況を、自ら作り出しているかのように思えた。
「…このノートは、あなたのお父様のものなの…」わたしが拾いあげたノートの上に手を置いて母は言った。
「これにすべてが書いてある…あなたの知りたいすべてが…」わたしはノートを開いて見た。なかに書かれてあるものは文字には見えなかった。紙の繊維をただなぞったように見えた。見つめていると、しだいに何か風景のようなものが浮かんできた。わたしはあわてて眼をまたたいた。ノートのなかから映像が浮かび上がるなんて…ノートを撫でてみたけれど、ただの紙と、ただの白い色と、模様のような文字があるだけだった。見まいとしても眼がそこに惹きつけられ、見てしまう…またわたしはそれを見つめた…ああ、浮かんでくる…木々が風に揺れて不安げだった。銀色の波が次々と渡っていき、風の方向を示した…ああ、あの木だ、あの冬の日に香る花、その花が花の形のまま、雨のように降りそそいで、ノートから母の手のひら、母の手のひらから床へ落ちていった…木の枝にぶらさがるふたつの天使!白いそのふたつは、美しいドレープを長く垂らし、ゆっくりと回転していた…ああ、あのふたりだ!あの部屋で見たふたり、腕を赤い糸で縫い合わせ、首から上にロープを伸ばしていた、ふたり…この木はオガタマノキだと母は言っていた、その木にぶらさがる父と伯母…お母さん、このふたりのお墓なの?…わたしは心でつぶやいた…そう、あなたのお父様、道緒さんと、お姉さまの麗紗さん…母が答えた…ふたりは双子なの?…そう、双子なの…そしてわたしは、おふたりの兄妹だった…

 わたしたちが死んだように家のなかに存在していた、ある日、あの刑事が来て、性別、血液型、DNA、すべて「あや」と一致したことを告げた。わたしと母は、もう驚きも悲しみもしなかった。それはまったく意味をなさなかった。感情はなにもわたしたちに解決の道を示さないことを悟ったのだ。無表情で刑事の話を聞くわたしたちは、まるでテレビの向こうで話している人の言葉を聞くように、冷えきっていた。
 刑事はわたしたちに哀れみの視線を送ると、静かに去って行った。
 ふたりは、何事もなかったように、死体のように動かなかった。

 眠ると、あやの顔が浮かんだ。わたしたちに助けを求めていた。黒い顔は泪のすじを鮮明に浮き立たせていた…毎夜、いくどもいくども、あやがわたしのなかに現れた…ああ、あや!

 数日して、少しわたしの、母の手を握る力が戻ってきた。母も握り返した。このままではいけない、あやのためになにかしよう、そうわたしたちは感じた。
 あの刑事に、どのようにしたらよいかを電話で尋ねた。
 明日、遺体を戻すので、葬儀社に電話して、詳しく尋ねなさいと、言ってくれた。わたしは、葬儀社に電話して、なにをどうしたらよいか、聞いた。
 いちばん広い部屋の壁際をかたづけて、祭壇を作る場所を空けた。形だけの葬儀かも知れないけれど、あやのためにできるだけのことはしないといけないと思った。可哀相なあやを、ちゃんと最後まで見送ってやろうと思った。わたしたちのために、わたしと母のために、犠牲になったあやを、天国に送ってやらねばと…

 葬儀にはだれひとりの弔問もなかった。最後になって、あの刑事がぽつんとやってきて、線香を一本立てて、帰っていった。刑事としても、もっと早くあのお屋敷を徹底的に家捜ししていれば、こんな悲惨な結末にならなくてすんだと、思ったのだろうか…でも、わたしと母がいれば十分だった。わたしたちは三つの輪のように重なっては離れ、離れては重なる繋がったリングなのだから…

 わたしたちは家へ入った。けたたましくサイレンを鳴らして、消防車が来た。何台も何台も。永遠にそのサイレンは続くかと思われた。わたしは耳を塞いで、母と並んで床に座り込んでいた。早くこの嵐が過ぎ去るのを願う、震える小鳥のように…

 刑事がふたたびやってきた。燃えあとから遺体が出たので見てくれるよう、母に言いに来たのだ。
 母はとても歩ける状態ではなかったので、わたしが行くことにした。まだわたしは歩けたから。
 刑事のあとについてお屋敷の門を入った。玄関横の草の上に銀色のシートがかけられた遺体が…あやが!横たわっていた。わたしは刑事に腕をつかまれ、引かれるようにしてそれに近づいた。別の刑事がシートを無雑作にめくった。なかから真っ黒い棒が出てきた。これが焼けた死体なのだ…あや!わたしはその場に倒れた。跡形もない黒い物体をわたしたちに見せて、なにをさせようとしているのか、わたしにはわからなかった…たぶん、これを見せることによって「お前たちが今まで何をやってきたのか」その犯罪的行為を悔悟させるためだったのだ。わたしは遠のく意識のなかで、神に謝った。あやに謝った。母に、すべての人に、許しを請うた…

 わたしたちは一日おきにあやのところへ行った、あやはしだいに衰弱していった。なにもしゃべらなかった。ただ手で大丈夫だからと言って見せるだけだった。

 食料もたくさん持って行った。でもほとんどあやは食べていないようだった…この穴はなんの穴だろう…棚があって、今そこには、あやのための食べ物や、着替えが並べてあった。電灯を布で蔽って、みんなの顔を寄せあった。あやはひどい姿をしていた。まるでコールタールのなかを這って来たようだった。顔にも黒い染みがいくつもあり、かさぶたのように貼りついていた…早くここから出さねば、わたしは母に言った。しかし母は首を横に振った…きのうも刑事が昼間うろついていたの、母がそう言うのを聞いて、わたしはあやの手を強く握った。
「いたいよ!りょう」あやが言った。わたしは、ごめん、と言って、あやを抱いた。まだ大丈夫、そんな気がした。

 それから数日が過ぎた。わたしたちが望んだ台風が来た。その晩も、母とわたしは出かける支度をした。外では風が木々の枝を曲げて、不気味な音を立てていた。こういう日はまさか誰も、刑事なんて誰もいないだろうと思った。でもいたのだ。わたしたちがテラスから外に、まさに出ようとしたとき…
「どこに行くんですか、こんな遅くに!」あの刑事が庭に立っていた。
 わたしは心臓が止まりそうだった。母も一瞬驚いた顔をしたが、すぐに冷静さを取り戻し…
「いえ、外でなにか大きな音がしましたので、なにかと思って…このハーブの鉢でも倒れたかと…」
「ふふん、そうですか、毎晩のようにどこかお出かけだったじゃないですか…今、屋敷を捜索させています…いいですか奥さん、わたしたちの眼は節穴じゃないですぞ!」まるであの校長のような口調だった。わたしはそこに座り込んでしまった…もうだめだ、あやは捕まってしまう、ごめんね、あや!…ずっとわたしたちを見張っていたんだ…わたしは悔しかった。あんな犯罪者を放って置きながら、その犯罪者を自ら裁いた人間を捕まえようなんて…
「奥さん!話を聞かせてもらいますよ…」刑事が一歩わたしたちに迫った。その時だった。風の音が急に強まって、轟音に変ったかと思うと、バチバチバチと大きな音がして、人の叫び声がとぎれとぎれに聞こえてきた。刑事は何事かとすぐにお屋敷の方へとってかえし、わたしたちもあとへ続いた。玄関まで来ると、お屋敷の上空が赤く染まっていた。炎だ!赤い炎がたけり狂ったように燃え上がり、黒い煙に変って吹き飛ばされていった。火の粉が無数に散り、風に舞う木の葉と混じって、不思議な流れを作っていた。風の方向が変るたびに、炎と煙と火の粉が、まるで踊っているようにお屋敷を包んでいた。それは美しかった。この世のものではない大きさと、色と、炎と、暗黒と、大気の流れによって創られたアートのようだった。
 母がくずおれた。わたしはずっと炎を見続けた。ますますそれは巨大になって天に昇っていった。お屋敷の屋根のはるか上空まで立ち昇り、左右に揺れては、一瞬暗闇を作り、また立ち昇っては、横に倒れた…
 あや!わたしは叫んだ、声が出ない…あや!もういちど叫んだ…母は顔を覆っていた。どんなに悔いていたか。今夜こそは、あやをあのお屋敷から出そうと言っていた母…ああ、もう一日早かったら、わたしもそう思った…わたしのあや…可愛いあや…わたしも悔しかった。どんなに叫んでも、もうあやには届かない…わたしたちは間違っていたのか、犯罪者と同じことをしていたのか、いや、犯罪者よりももっと重罪を犯していたのか!
 母の肩を抱いた。風と雨がわたしたちふたりを打った。まるで鞭のように、罪を悔いることを強いる罰のように…

 朝方、誰かがわたしを呼んだ。母も目覚めた。ひとつのベッドに眠っていたわたしたちは、誰かの声を聞いた…りょう!お母さん!…小さな声が、しだいに大きくなっていった。薄闇のなかで、わたしたちは部屋を見渡した。だれもいなかった。胸に手を置いた母が、わたしの胸にも自分の手を置いて…聞いて、と静かに言った。わたしは心を胸に集中した…ああ、あやだ!あやがいる、ここにあやはいたのだ!わたしの半分のもうひとりのあや! 
 母がわたしの胸から手を下ろして言った。
「わかったわ、あやちゃんがいるところ…」母は確信したように言った。
「どこ?お母さん、あやちゃんはどこに?」母は唇に人差し指をあてて、わたしの耳へ囁いた。
「…え?」わたしはよくその意味はわからなかったが、「五輪塔」という言葉は理解できた…「五輪塔の下よ!」母はもういちどわたしの耳のそばで言った。五輪塔の下になにかあるのだ。わたしはあのときあやが、「五輪塔よ!」と言った声が耳に聞こえた。はっきりと。そうなのか、あやは五輪塔の下にいま住んでいるんだ。あの五輪塔があやのほんとうのお家だったのだ。わたしはすべてを理解した。理解できたと、感じた。
「どうする?お母さん」わたしは母の耳もとで言った。
「そうね、たぶんあやちゃん、食料はいっとき持ち込んでいるでしょうから、刑事さんたちの様子を見て、わたしたち行ってみましょ!」こんなに明快な母を、わたしははじめて見た。頭の回転が機敏だった。
 早く起きると不自然なので、いつもの時刻までふたりしてベッドのなかで手をつなぎあって、横になっていた。朝、トイレの窓から外をのぞいて見た。お屋敷の西側の角に刑事の車が隠れるようにして停まっていた。お屋敷の屋根はいつもと変らず、静かに朝日を受けて霞んでいた。
 わたしは早くあやに逢いたかった。でも母に諭されて、絶対にその気配を見せてはだめよ、と言われて、静かに日々を過ごした。長い、長い一日が、また一日、一日と過ぎて行った…あやは大丈夫だろうか?食べ物はあるだろうか…わたしは心配で胸を切り裂かれる思いだったが、それに反して顔や身体はとても冷静に、冷めたお湯のように装っていた。時々やってくる刑事にも、母もわたしも何事もないように接し、覚られることはなかった。母の刑事に対する対応は、今の母の心の鋭敏さを微塵も感じさせず、昔のままの自然な、やさしい母だった。ほとんどの人は、この母の美しさと、やさしい声と、宝石の眼を見て、なにか心の奥にたくらみを持っているなどとは、これっぽっちも思わなかっただろう。むしろ、それをいいことに、あいつらは、母を、わたしを誑(たぶら)かして、殺そうとしたのだ。それを救ってくれたあやを、わたしたちがどうして見捨てられようか。

 露が庭の草々を飾り、朝の空気がひんやりとしていた。わたしと母は久しぶりに庭へ出て、すでに落葉をはじめた桜の綺麗な葉を集めたり、ハーブを摘んで束にしたり、テラスでそれをお茶にして呑んだ。
 刑事がやってきた。呼び鈴を鳴らしてもわたしたちが出なかったので、裏へ回ってきたのだ。母はその刑事にもハーブティを入れてやり、すすめた。刑事はおいしそうにそれをすすりながら、言った。
「私達は、一応引き上げます…どうもこの町にあやは、いえ、あやさんはいないようで…でも、もしも連絡がありましたら、隠さずに私達に知らせてほしいです。あやさんのためでもあるんです…お願いします」そう言って、最後までハーブティをすすり、帰っていった。
 たぶんこれは作戦かなにかだろうと、わたしは思った。わたしたちを油断させておいて、あやをおびき寄せるつもりだろうと…でも母は喜んだ。素直に喜んだ。ついにあやに逢いに行けると。
 そんな母がわたしはいとおしかった。こんな母を持ったわたしは幸せだったのかも知れない。どんなに財産があっても、どんなに物に囲まれて暮らしていても、この母のような、海のような母性に敵うものはないだろうと思った。わたしのなかにもこれに似たものがすでに芽生えはじめていて、母をわたしの子供と思えるほども、母がいとおしかったのだ。
 わたしたちは決行の日を決めた。あやに逢いに行く日を。雨を待った。雨の日を、それも台風であればなおさらだった。その夜に決行するのだ。
 毎夜、刑事の車がないか確かめた。あの日から一週間は張っていたが、その後急に見えなくなった。ついにあきらめたのだ。それでも、失敗は許されなかった。わたしたちは台風が来るのを願った。
 秋の長雨が続いた夜、ついに、待ちきれず、夜半過ぎ出かけることにした。庭へ出ると、雨は鉛のすじのように降りそそいで、身体を冷たくさせた。わたしたちは黒い服に身を包み、肌を出さないようにし、庭から南西側の垣をくぐり、警察がいないことを確かめ、お屋敷の西側の小さな垣戸を入って、お屋敷の裏を行き、あの部屋、祖母「礼」の部屋の窓から中へ侵入した。電灯はつけずに手探りで、母といっしょに手を引きあって進んだ。廊下を曲がり、五輪塔のある部屋の前まで来た。深く息をして、ゆっくりと扉を開けた。カーテンを閉めているので、真っ暗でなにも見えなかった。母は壁伝いに左側へ進んだ。わたしも壁と母の手を頼りに進んだ。目が暗闇にしだいに慣れてきた。角に来た。母は床を手でなぞって、持ってきたバールで床のある部分をこじ開けはじめた。わたしも母を手伝った。床がギッと鳴って少し隙間が開いた。そこへわたしは手を差し入れて、持ち上げた。床にぽっかりと穴が開いた。母が先に入った。わたしも続いた。母はまるでいつも行っているところのように行動した。わたしも母のあとについて、腹ばいで前進した。むこうにうっすらと光が見えた。通気口からの外の光がぼんやりと幻のように見えたのだ。母はその方向へ進んだ。その場所へ来ると、細長い石が数本転がっていて、あいだに穴が見えた…ここなのだ!わたしは胸が高鳴った、あや!と叫びたかった。母が一歩一歩石段を降りて行った。わたしも降りた…あや…母が小さく呼んだ…ううう…呻き声が聞こえた、あやだ!あや!わたしは不意に大きな声で叫んだ…ああ、生きていた、あやが生きていた。わたしたち三人は抱きあった。あやの顔はよく見えなかったけれど、その頬はあたたかかった。生きているんだ、ずっとここに生きていたんだ…あやごめんね、いつもおまえにはこんなつらいことばかりさせて、つらい思いばかりさせて!…母が心で叫んでいた。三人で泣いた。泣き声が床下に響いて、なにか金属の棒が、幻影をひきずって立てる音のようだった…
 母はあやに、持ってきた食料を食べさせ、もういちどぎゅっと抱きしめて、また来ることを誓い、先に穴から出た。わたしはあやと離れがたく、いつまでも抱きあっていたけれど、母に促されて、指をからませたあと、穴から出た…あやは大丈夫だろうか、早くあの穴から出してやりたい、わたしはそのことのみ考えながら、またふたたび母のあとについて、来た道を戻った。

 その日から母の顔が変わった。憂鬱な顔を時々した。母も悩んでいるのだろうか…わたしに灰川と名乗らせるべきか、鵜沓のまま、灰川を相続させるか…あやは、あやは佐々木を継ぐべきと思うが、わたしの子でもあるし、灰川を継ぐ道理もないわけではない、と…
あやの言葉が思い出された…あなたがしっかりして、灰川の汚れた血の因縁を断ち切らなければいけない…汚れた血の正体をわたしははっきり知っているわけではなかったが、なんとなく、自分の身体のなかにある、どろどろの血の流れがいまはじまったのではない予感がしていた。わたしのたましいのなかに巣食う穢れた遺伝子の蠢きを、己が知らないわけではなかった。心の表面には見えずとも、そのかたまりは確かに存在していたのだ。中空に集まって澱み、いくら切ろうとしても切れず、またくっついて、ゲル状にそれらは増殖し、わたしの精神を徐々に蝕みつつあったのだ。それを包み込む波もあったが、それ以上にこの波のうねりはしだいに大きくなっていった。

 そして、母とわたしは、わたしたちの心は、同体だった。同一のものをお互い映しあっていた。わたしの不安定な心はもはや母の手には負えず、母自身も分離していった。

 わたしはあれ以来、見るものすべて灰色に見えた。母はなにもしなくなった。なにかにとり憑かれているように、家のなかを歩き回った。あやの両親にあの男とあの女がのりうつり、わたしたちになにか悪い病原菌を運んできたのだ。わたしたちはともに感染し、ともに重病化していった…あや!わたしはあやを呼んだ。もう「あや」しかわたしたちを救えるものはいなかった。あやはきっとわたしたちにとって天使なのだ。救いの天使!あやならこの原因をつきとめ、わたしたちを治癒に導くだろう…わたしはそう思った。

 あやは現れなかった。あやを最後に見たのは、佐々木夫妻が何者かに惨殺され、娘の「あや」が行方不明だというニュースのなかで、その顔写真が出て、それを見たときが最後だった。
 わたしと母は、ソファーに座って、ぼんやりとテレビを見ていたときだった。お互い顔を見合わせて…あやが殺ったんだと、直感した。そして、あのお屋敷に来ると、思った。
 警察が家に来た。家のなかをくまなく捜しまわった。お屋敷も捜索していた。その態度から、あやが第一容疑者であることがわかった。わたしたちはなにも知らないと言ったが、疑いの眼差しで、それを刑事は聞いていた。知っていても、わたしたちが話すわけもなかったが、実際知らなくても、結末がどうであるかをわたしたちは知っていた。

 わたしは母に、校長と優子のたくらみや、あやがわたしにしてくれたこと、語ってくれたことをすべて話した。母は黙って聞いていたが、わたしが話し終わると、ほほえんで…あなたもあやも、大人になったわねえ、とわたしをふたり分抱きしめるように、大きくわたしを包んだ。母の眼は美しかったが、翳りのせいで少し眸が白っぽく見えた。
 打ち明ける、告白すると言う行為は、なぜこんなにも人を洗い流すのだろうか。憂鬱な日々を送っていたわたしたちに、雨が降った。土砂降りの雨だった。まるであやが空から天をひっくり返して降らせたような…わたしたちは綺麗に洗われて素顔に戻った。やるべきことがしだいに近づいて、その輪郭が見えだしたのだ。
 警察は、家とお屋敷を張っていた。彼らも必ずここへあやが現れるだろことを予想していた。しかしわたしたちにはわかっていた。あやがそんなへまをやるような子ではないことを。あやにとって変身することは何でもなかったはずだから…だって、あのとき、あんなにちっちゃな女の子になって、わたしたちを援けてくれたのだから…犯罪者の手にかかるわたしたちを救ってくれたのだから…
 わたしたちは盗聴もされているかもしれなかった。もちろん電話もかかってこないし、ケータイも電源を切っていた…いつも食料品を運んでくる小さなトラック以外、だれも尋ねては来なかった。

 あやの帰る日がやってきた。わたしは繋がった腕を切り落とされるような気がした。二ヶ月近くいっしょにいて、いまさら離れる理由が見あたらなかった。これからもずっといっしょにいてもいいではないか、わたしとあやは双子なんだから、切り離されるわけなんてどこにもないのに…ほんとうに切り落とすならば、それならば、あやの方にわたしの腕をくっつけたまま、切断してほしい…
 あやは、ぜんぜん平気のようだった。だって…また遊びに来る、また泊まりに来るよ、りょうちゃん、待ってて…そう言って帰っていった。
 わたしにとって、あやの存在は、わたしの心臓の半分だった。いままで心を満たすものは、母であったり…夢想であったりしたが、わたしの半分の空白のすべてを満たすことはなかった。あやは、あやの心と身体は、わたしの二分の一の心と身体を完成させたのだ。揺れ動く不安定な精神は、回転するときに多くのものを振り落とし、停止後、その空白を埋めようとするものだが、もともとわたしの半分しかない独楽のような自己では、まともな回転すらできなかったのだ。もちろん母の芯はわたしにとってとても心強いものであったし、母の胸に抱きしめられることは、わたしの心の充足をもたらしたが、その独楽のぶれは、周りのものまでもぶち壊して回転し、ついには自己破壊を起こしていたのだ。しかし、あやの登場は、わたしの半分独楽を完全なものにし、永久回転独楽に変身させたのだった。そしてそれはもはや、停止することはなかった。停止させることが不可能になっていたのだ。まるで静止しているかのように回転する、わたしの「自己」。けっしてもとの半分になってはならないのだ。「自己」の深い奥底にひそむ、父の「道緒」や、伯母の「麗紗」や、彼らの母である「礼」と、わたしたちふたりの遺伝子の持つ毒性がわたしを侵したとしても、今は、「あや」ひとりの存在が、わたしの精神を支えていたのだ。
 角のところまで、あやを送った。あやは振り返って、「お母さんをたのんだわよ!」と言うと、くるりと向きを変えて、続く坂道を駆け下りて行った…

 それから数日後、あやの両親が家に訪ねてきた。雨のなかをタクシーでやってきて、玄関先で雨を払いながら、お天気に文句を言っていた。
 母が出た。わたしはダイニングにいたが、人と顔を合わせるのはいやだったので、すぐに自分の部屋へ引っ込んだ。ダイニングにふたりは通された。
「はじめまして、佐々木と申します」
「ようこそ…はじめまして、鵜沓玲と申します」
「娘のあやが、このたびはほんとうにお世話になりまして…」
「いえ…とんでもございません、うちのりょうも大変喜んでおりましたのよ…どうぞお座りくださいませ」
「ありがとうございます、あやも、こちらから戻りまして、なんだかうきうきしていて、とても明るくなりましてね」
「そうでございましたか…それをうかがって、わたしも嬉しいですわ」
「…ところで…」…そのあとの言葉は聞こえなくなった。声を小さくしたのだろうか。それにしてもこの佐々木と言う、あやの父親の声は、あの男、校長の声にそっくりだった。兄弟だからそうなのかもしれないが、ただ、その腰の低いようなもの言いは、あの男とは違っていた…
 とつぜんドアをノックする音がした。母が外からわたしに声をかけた。
「りょうちゃん、こちらにいらっしゃい…」たぶん、わたしの顔を見てみたいとでも言ったのか。わたしはちょっと躊躇したが、こちらもその顔を見てみたいという誘惑もあった。あやを育ててきた両親だから、わたしも会う義務があった。わたしは自分の部屋を出て、ダイニングへ行った。
 わたしは気分が悪くなった。眩暈(めまい)がした。そこにいたのは、あの男とあの女だった。校長とその娘の優子だった。なぜ?なぜここへやってきたのだ!わたしは壁際のソファーに倒れかかった。優子がすばやくわたしの身体を受けとめて、立たせた。余計なことを!わたしはバランスを崩したのではない、バランスをとるためにソファーに寝ようとしたのだ。「心」のバランスは、横になるのがいちばんの平行を保つからだ。わたしは、優子の手を制して、ソファーに座った。母が…少し気分がすぐれないようで、申し訳ありませんと、わたしの代わりに謝っていた。その声が遠くに聞こえた。
「いえいえ…りょうさんですか、うちのあやとそっくりですな!ハハハ、そりゃそうだ、双子ですからな!」…ああ顔を見るのもいやだ!こんな人間がこの世の中に生きていていいはずはなかった。早く帰ってほしい…
「実は私も兄とは双子でしてな、よく声を間違われまして…」
「…そうでございましたか」母がとまどいの顔をして答えた。
「ところでりょうさんは、鵜沓家を継がれるのかな?もしや灰川家を?」
「…まだはっきりとは決めておりませんの」母の小さい声が聞こえる。
「ま、どちらでもよろしいかと思いますが…わたしの考えではですな、あやが灰川を継いで、長女のりょうさんが鵜沓を継ぐのがいいのではないかと」
 なんということだ!それが目的だったのか…校長と優子は死んでもなお、弟夫婦を使って、灰川家の乗っ取りを画策していたのだ。
 母は困り果てていた。そんなことは母にとって重要なことではなかった。わたしとそして、あやがいて、ともにこのまま暮らして行くことができれば、なにも望むことはないはずだった。そんなに財産が欲しければ、くれてやればいい…お母さん!わたしは見えなくなった眼をせいいっぱい見開いて、母を捜した。手を伸ばすと、誰かの腕があった…お母さん!つかむとその腕はわたしの手を振り払った。あの女の腕だったのか…手を下ろすと、ソファーに手があった、あたたかい母の手…母はわたしのそばに座っていた…お母さん!わたしは身を寄せた。母が肩を抱いてくれた。
「ま、奥さん、考えておいてくれませんか!…またあらためてうかがいますから」
「……」母は黙ったまま、ふたりを玄関まで見送った。待たしてあったタクシーが、向きを変えて雨のなかを走り去っていった。
 夏は飛ぶように過ぎ去った。あやはもうすぐ自分の家に帰ってしまうのか…わたしは淋しかった。あと数日間、あやと十分に楽しもうと思った。
 幽霊屋敷は、夏が終りを告げるとともに冷めていくものだ。また普通の暗いお屋敷と、「墓地」に戻った。わたしたちはまたあの四阿で、夏の終わりの日々を過ごした。
 わたしはあやに、父のノートと日記を見せた。あやははじめ興味深そうに見ていたが、すぐに飽きて、本に読み耽った。ある詩人の小説だったが、あまりにも狂っていたので、あやにやったものだった。あやは…知ってる、と言ったが、それを夢中になって読んでいた。お屋敷の木々を渡る風は気持ちよく、四季咲きのすいかずらが、いく輪か咲いて香っていた。

「あの上にいたの、あたしなの」とつぜんあやが言った。
「え?…」わたしはなんのことか、わからなかった。
「あのシャンデリアの上に、いたの、あたしなの…」
 わたしは記憶の糸をたぐった…ああ、あの場面、あの光景、いまでは遠い過去のように、思える…でもなぜ…あれは幻想だったはずだ。わたしの作りあげた幻だったのではないか?…「事件」はたしかに起こった。でもその過程は、わたしが虚構したシナリオだったはずだ…
「りょう!あなた、あたしを忘れたの?」
「え?…あれは…」わたしは、あやがなにを言いたいのか、理解できなかった。あやがなにを言おうとしているのか…
「りょう、あれはあたしがやったのよ…」あやは静かに語りはじめた。
「…あいつらを殺ったのは、あたしなの。おぼえているでしょ、りょう。あのふたりがなにをたくらんでいたか…あたしも知っていたのよ…あたしの父はあの校長の弟なの。うちにやって来ては、灰川の悪口を言っていた。父は嫌っていたけど、あの男のおかげで食っていたから、なにも言えなかったの。あたしが灰川からの養子だってことも知っていて、わざとあの男、大声でわめいていたわ。時々あの女もいっしょに来て、お酒飲んでさわいで帰るの。下品なやつらよ!…」あやは言葉を切って、本をぱたんと閉めた。
「あるとき、わたしが学校を休んで家にいるの知らないで、父とあの男と娘の優子とでこそこそ話してるの、聞いたのよあたし。ぜんぶ聞いた…灰川の跡取りは、りょう、あなたで、あのお屋敷はあなたの名義になっているって。あたしは養子に出たから相続権はないと…あのお屋敷は、あなたの…母が管理していて、それをぶんどる計画だったのよ…」
 あやはそう言って、わたしの肩に手を置いて、うなづいた。短い髪が風に揺れて、可愛い耳が見えた。
「りょう、あなたがしっかりしなくちゃいけないの!…お母さんはあなたが守って、そして、灰川の家を継がなくちゃいけないのよ…あたしは、いずれ佐々木を出て、鵜沓を名乗るわ。鵜沓もあとがいなくて、あたしが継ぐの…いい、りょうちゃん、驚かないで…あの優子はあたしたちの伯母なの」
 わたしは耳を疑った。そんなはずはなかった…いや、そんなことは、だれも認めない…でも、母と似ていると、いくども思っていたじゃないか、そうだ、思い出した、あいつは母に似ていたんだ…
「あの優子は、校長が学生の時、あたしたちの祖母、鵜沓涼子に産ませた子だったのよ。そのあと、祖母が灰川の愛人になったのをいいことに、優子を餌に金をせびったのよ…りょう、聞いてる?」
 わたしは頭が混乱してきた。どういうことか、よく理解できなかった。それでもあやは、話を続けた。
「だから、あたしたちのお母さんと優子は異父姉妹なの」
「異父姉妹?…」
「そう、母は灰川の子でしょ、優子は校長の子なのよ」
 わたしはなんだか気分が悪くなってきた。西日のせいもあったけれど、日陰に入りたかった。
 わたしとあやはお屋敷に入った。そしてあの美しい部屋へ行った。いつもこの部屋に入ると落ち着いた。母が以前眠っていたベッドにふたりで座り、手をからませて、いっときのま、沈黙していた。
「あのね、りょうちゃん、あたしこう思うの、あたしたち、母や、父や、その母も…みんな生まれてはいけないところへ生まれ落ちたの…その錆びた鎖を…もっとはっきり言うと、腐った血を、断ち切るんだったら、あなたがしっかりしないといけないの。けっして血縁と縁を結ばずに…わかる?新しい血で灰川をつないでいかないといけないの」
 あやの顔が、父の、いや伯母の顔に見えた。伯母の顔に変わっていた。あの写真のなかの…わたしは、あの写真を胸のポケットから取り出した。いくどもひろげたり閉じたりしたので、折り目が切れかかっていた。それをあやに見せた。あやは手のひらにゆっくりとひろげて、言った。
「この双子は、あなたたちじゃないのよ…これがわたし…わたしとあなたたちのお父さんとのあいだに生まれた双子なの…この写真を撮ったすぐあとに、死んでしまった…」
 …あやは、まるで伯母の「麗紗」のようにしゃべった。写真の麗紗と同じ顔だった。そして、その指に嵌められた指輪は、写真に写る「麗紗」の指輪と、同じものだった。
 「伯母」はわたしたちをやさしく抱いてくれた。そして、ふたりして、眠った…

 わたしの部屋へ戻ると、あやの口を開けて、なかをのぞいた…よかった、舌は無事だった。ちゃんと残っていた。無傷だった。でも上唇が縦に裂けていた。可哀相に。トカゲの背びれが口から飛び出るときに引っかかったのだ。血が垂れていた。わたしはあやの顔の血を拭いてやり、唇を消毒して絆創膏を貼ってやった。髪の毛!髪はわたしが綺麗にそろえて切ってやった。ショートもあやは似合った。可愛いと思った。ただ、顔のゆがみは戻らなかった。ふたりしてベッドで抱きあって眠った。あやの身体は小さく震えていた。いつまでも震えていた…

 目覚めたとき、朝はもう遠く過ぎていた。母がドアからのぞいた。いくどものぞいたに違いない。母はわたしたちに声をかけた。
「わたしの可愛い双子ちゃん…起きて」小さい声でそういうと、またドアを閉めてキッチンへ戻った。
 わたしは起きて、マスクをさがした。そうだ、このあやの顔では、母の前に出られない。マスクをつけさせよう…大きな不織布のマスクが出てきた。あやを起こしてその耳にマスクをかけた。眼だけが出て、その美しさが際立った。あやはしゃべれなかった。わたしの言葉にうなずくだけだった。ああ、とりかえしのつかないことをしてしまった。わたしたちは、いや、わたしは馬鹿だった。あの馬鹿猿たちよりももっと馬鹿だった。自分で掘った穴に落ちたようなものだった。あやを巻き込んでしまった。母に知れたら?あやの両親に知れたら?わたしは頭を抱えた。頭を抱えて、しゃがみ込んだ…あやがわたしの肩を叩いた。そして親指でドアの方を指差した。母のところへ行こうというのだ。わたしは仕方なくあやの後に続いた。
 キッチンにも、ダイニングにも母の姿はなかった。朝食はそろえて置いてあった。もう自分の部屋へ行ったのだ。わたしは胸をなでおろした。あやとふたりで朝食にがっついた。男か、けだもののように喰った。お腹がすいていたのだ。あやは片耳にマスクをかけたまま、トーストに喰らいついていた。その食べかたったら…可笑しかった。ふたりして笑った。ふたりとも声を立てずに笑った。大声で、沈黙のまま、笑った。

 母には、あやがちょっと風邪気味で、喉をやられたと言っておいた。母は、素直に信じて…でも髪は?そう言って、あやを自分の身体に引き寄せて、その短い髪の毛を撫でた。
「あたしが切ったの!…あやが暑苦しいって…」
 母はほほえんで…よく似合うわ、と言ってくれた。ほんとうにやさしい!わたしのお母さん!あやのお母さん!わたしもあやとともに母に抱きついて…泪が出た…

 それから幾日かして、ふたたび女どもがやってきた。あやの言ったとおりだった。懲りないやつらだ!
 わたしとあやは、いつもの部屋から外をのぞいて、人数を確かめた。前と同じ数だった。月明かりにきらきら光るものが見えた。刀だ。とうとう日本刀まで持ち出して来たのだ。
 わたしたちは、蝋燭に火をともした。一本では物足らないので三本火をつけた。あやは残り、蝋燭を持って、部屋のなかを歩いた。わたしはそっと玄関から様子をのぞき、外へ出た。お屋敷の裏へ身を隠し、やつらが近づくのを待った…なんてどきどきするんだろう、わたしは樹の陰に隠れて、「墓地」の方で電灯が光るのを見ていた。そのうち「ギャ!」とか「キャー!」とか悲鳴が聞こえ出した。わたしたちの落とし穴に、また落ちたんだ。猿どもが。穴には棘のひどい薔薇の枝を敷いていたので、女どもの脚や手は血だらけになっているはずだった。
 門の方を見ると、別のグループが鉄の扉を入るところだった。これもあやの予想通りだった。手にはピストルのような形のものが見えた。幽霊を撃とうというのか!わたしはお屋敷の裏を回り、門の大木にところへ行き、吊り下げた籠の布にアルコールをふりかけて、火をつけた。そしてロープを引いて、火の玉に見せかけた。後ろを振り返った女生徒が、となりのやつの肩を叩いて、固まっていた。肩を叩かれたやつは、振り向きざま「ギャー!」と叫んだ。成功だ。馬鹿どもが、まんまとわたしたちの罠にかかった。なかのひとりはもう走り出して、門から逃げて行った。あの部屋は、あやが歩き回りながらカーテンを揺り動かしていたので、赤い光が亡霊のように揺れていた。それを見た女どもも、「墓地」の方へ走り出して見えなくなった。
 わたしは、幽霊の真似をして、ふわりふわり、残った女生徒の方へ歩いた。白い服が月光に融けて、鈍く光った。驚いた女たちは、一目散にお屋敷の玄関方向に走った。ピストルは、恰好だけだった。
 でも、日本刀を持った女が後ろからわたしに近づいていたのだ。あやがそれをあの部屋から電灯で教えてくれた。女はすでに刀を振り下ろしていた。わたしは背中からお尻にかけて切られた…身体に衝撃が走った。着ていた白いドレスが裂けた。女の顔を見ると、もとクラスメイトだった。わたしの顔を見て、やっぱりおまえか!と言ってもういちど日本刀を振り下ろした。わたしは飛びのいて、後ろにさがった。持っていたアルコールを女にふりかけた。その眼に命中し、女は呻きながらしゃがみこんだ。わたしは日本刀を奪い、玄関へ急いだ。ほかのやつらはお屋敷のなかへ入って行った。すでにわたしたちのたくらみがばれていたのか!あやが危ないと思った。あの部屋だ!やつら、あの部屋に行ったか!
 戸をおもいきり開けて、部屋へ入った。あやが両腕をつかまれて、押さえつけられていた。長い髪の毛はナイフでギザギザに切られていた。頭を上げたあやの口には、なにか先が尖った黒い棒が逆さに突っ込まれていた。それが規則正しく左右に動いていた…トカゲだ!あやの飼っているのと同じトカゲを、あやの口に突っ込んだのだ、女たちの白い歯が見えた…くそ!おまえら!どけ!わたしは刀を振りかざしてやつらのなかへ突進した。そして振り下ろした。女どもはあやの腕を放し、散りじりになってそこから逃げ去った。見ると、あやの口にもぐり込もうとしていたトカゲの下半身が私の振り下ろした刀で切られ、どす黒い血を流していた。まるであやがトカゲを喰っているように見えた。顔にはその血が飛び散り、蝋燭の揺らめく火に、トカゲの陰があやの顔の上を這っていた。
 トカゲは抜けなかった。あやの舌をくわえているのか?…その背中の棘が逆針になって抜けないのだ。わたしは、悔やんだ…ごめんね、あや、ひとりにしておいて…あやは泪を流していた。どうしたらいい?わたしはパニクった。あやの肩に両手を置いたまま、おろおろしていた…母を呼ぼうか、そうだ母を呼ぼう…うううっ!とあやが自分の背中を叩いた…ここを叩けと言うのだ、わたしはあやの背中をおもいきり叩いた。あわてていたのでものすごい力で!…ゲボッ!…あやがトカゲを吐き出した。吐き出すと同時にトカゲをその素足で踏み潰した。変な音がしてトカゲは内臓を尻尾と口から吐き出して、動かなくなった…あ・い・あ・お…あやが一音一音区切って言った…ありがと?ありがとって言ったの?わたしはあやを抱きしめた…「ごめん…ごめんあや!」私の喉もあやと同じ痛みが走った。搾るような声しか出なかった。
 ふたりでお屋敷を出た。月が天頂に昇って、わたしたちを生あたたかく照らした。夏の満月はわたしたちの愚かな計画を、嘲笑っていた。
 その後、女生徒たちは現れなかった。とうとう夏休みになり、あやはわが家に大きな荷物を運び込み、夏休み中ここにいると宣言した。母は少し困ったような顔で、あやを抱きしめると、わたしも引き寄せて、ふたりを強く抱いた。三人とも同じ身長だったので、ひたいがくっついた。くっつけたまま至近距離で、眼を左右にやって、お互いの目玉を見た。そして三人で笑った。わたしたちは三人姉妹のようだと、わたしは思った。
 わたしとあやは着々と計画を練った。お屋敷の高い木に登り、ロープを渡して、布を詰めた籠をぶらさげた。「墓地」の通路には落とし穴を掘り、木の枝や草で蔽った。そして夜を待った。やつらが来ると信じて。
 この夏は最高だった。昼間はあやとふたりで「墓地」の四阿で、本を読んだり、詩を書いたりして過ごし、夜は、母が眠ったあと、お屋敷にもぐり込み、あいつらの登場を待った。
 お屋敷は蒸し暑い夏の夜でも涼しく、ひんやりとした。いちばん大きな部屋、わたしが初めてあやと遭遇した部屋、あやにはそのことはなにも話さなかったが、わたしの幼い記憶を呼び起こした、あの部屋にふたりで座って窓の外をうかがっていた。窓の近くにある塔が、カーテンを少し開くと、月明かりにその姿を鮮明に浮き立たせた。いちばん上には玉ねぎ形の小さい石が乗り、四角錘の石が続き、丸くて大きな石もその下にあった。
「五輪塔よ」あやが言った。
「え、五輪塔?」
「そう、死んだ人を供養するの」あやはほんとうに物知りだった。ほとんどわたしの質問に答えてくれた。
 …なにか物音がした。鉄の門扉を開ける音だ。やつらがついにやって来たのだ。カーテンの隙間からふたりでのぞいて見た。数人の女生徒がひとりずつ入ってくるのが見えた。手には棒を持って、慎重に一歩ずつ歩いていた。「墓地」の方へ入って行った。すぐに「ギャッ!」という声が聞こえた。落とし穴に落ちたんだ。馬鹿なやつらめ。わたしたちは部屋の蝋燭に火をつけて、玄関からそっと出て、「墓地」の周りをふわふわと歩きはじめた。
「キャー!」それを見て女どもは、われ先に散りじりに逃げて行った。
 わたしたちはハイタッチをして、抱き合った。まるで幽霊が抱擁を楽しむように…
「もう来ないかな…」あやに聞いてみた。
「あいつら、数増やして来るよ、きっと」あやは確信があるように言った。
「ふふ、そしたらもっと派手にしてやるよ!」わたしは嬉しかった。妹がいて、妹が現れて、ほんとうの妹が存在して、わたしのそばにいる。なんてすばらしいことなんだと思った。わたしは妹のためなら、何でもできると感じた。どちらが先に産まれたのかは知らないけれど、「姉」「妹」と言われるだけでその立場がそのようになっていくのは不思議だった。「姉」という言葉のなかに、「母性」の二文字を孕んでいるような、そんな気持ちさえした。わたしはあやを心からいとおしいと思った。どんな時も、この腕で包んでやりたいと…あたしはあやをぎゅっと抱きしめた…可愛いあや!…「りょう、痛いよ!」あやはそう言って、わたしの腕をつかんで両側に広げ、わたしにくちづけた…朧月がわたしたちを照らして、海のそこに揺らめく幻の動物のように見せた…
 わたしは学校をやめた。母は悲しげな顔をしたけれど、教頭や校長に会って、その人間性を見て、わたしの行動を理解してくれた。あやとは平日逢えなくなったが、土日にはあやがわたしたちのお家へかならず、泊まりに来てくれた。
 あやの話は面白かった。食事のときにわたしたちに話す学校での出来事は、真に迫っていて、わたしたちを喜ばせた。とくに母は、首を少しかしげて、いとおしいわが子ふたりを同時に眺められる喜びを、かみしめているようだった。
 あやとお風呂にもいっしょに入った。あやの身体は成熟していて、美しかった。ただ背中にミミズがもぐり込んだような痕が三本あって、赤くはれ上がり、白い肌をより白く見せていた。わたしはなにも聞かなかった。あやもなにも言わなかった。ふたりでバスタブにつかり、何時間も話した。手が白くふやけて、あやの指輪が指に食い込んでいた。
「その指輪…どこかで見たことある、あたし」
「そう?…どこにでもあるものよ」あやはそう言うと、わたしの胸をさわった。わたしもあやの胸をつかんで揺らした。あやもわたしの胸を両手でつかみ、くすぐった。お湯のかけあいになり、大声で笑った。
「もうあがったら…」母が外から声をかけた。
 わたしのベッドにふたりで眠った。なんて安らかであたたかくて、満ち足りているのだろうかと、わたしは感じた。わたしの身体は、いままでは半分しかなく、その片方をずっと捜していて、ようやく見つけて、くっつけたような感覚だった。あやもそう感じていた。ふたりでいつまでも向かいあったまま、くすくす笑ってはキスをして、そして、眠った。

 遠くで女の叫び声が聞こえた。まだ夜中だった。わたしたちは眼を開けて、天井を見た。あれは「墓地」の方からだ…窓から裸足のままふたりして飛び下り、母の部屋の下を通り過ぎて、お屋敷の門のところへ行った。「墓地」で光が右往左往していた。誰かこっちへ駆けて来た。門の陰に隠れると、見たことのある女生徒が鉄の扉にぶちあたり、隙間から逃げるように駆け出て行った。またもうひとり、もうひとりと…たぶん亡霊でも見たのだろう。幽霊屋敷に肝試しに来たのか…私とあやは顔を見合わせて、うなずいた。
 また別のやつらが来るに違いなかった。以前通学の途中、電車内で「灰川」という言葉をよく耳にしていたから、生徒のあいだでは、この有名な幽霊屋敷を放っておくはずはなかった。
 時々お屋敷に人の気配を感じていたのは、やつらのせいだったのだ。私とあやは計画を練った。夏休みも近づいて、開放的になっている馬鹿猿どもを、脅してやるのだ。
 まず、母の鍵を使って、いちばん手前の部屋に蝋燭を立て、夜には火をともす。そして、わたしとあやが母の白いドレスを着て、「墓地」やお屋敷の木々のあいだを歩くのだ。わたしたちはわくわくした。
 夜になるのが楽しみになった。あやは毎日のようにわが家へ泊まりに来た。両親が心配するのではと、母があやに聞いたが、あやは平気な顔をして、了解済みだからと母を安心させた。母もあやが家にいることは嬉しかったはずだ。あやは明るくて、何事に対してもはっきりといい悪いを言うし、わたしたちに遠慮がまるでなかったので、わたしたちもあやを気遣う必要がなかった。

 あやは、両親に許可をもらい、時々わたしたちのところへ泊まりに来た。わたしは、あやがいると、心が弾んだ。なんと言うのか、心が二倍になったのだ。よろこびも、怒りも、悲しみもすべてが二倍になった。
 通学も楽しかった。ふたりの世界で、たくさんのおしゃべりをした。わたしたちは、離れて育ったのに、持っている本、今までに読んだ本、好きな画家や音楽家、そのすべてが一致した。学校の終るのが待ち遠しかった。退屈で意味のない授業が延々と続くのを耐えるのは、容易ではなかった。早くあやに逢いたかった。逢ってあの白くて長い指をわたしの指にからませたかった…あや!時々授業中に独り言をした。となりの生徒がそれを聞いて、変な眼で睨んだ。もうわたしには、あやと逢うためだけの通学でしかなかった。
 わたしの我慢もとうとう限界に達した。型どおりの先生たちの授業は受けるに値しなかった。
「こんなもの、箸にも棒にもかからないって言うんだ!」わたしが大声で叫ぶと、先生のチョークがわたしめがけて飛んできた。ほかの生徒たちは、大いにはやし立てて、わたしの味方をした。このときばかりは、先生対生徒の戦争になった。箒を持ってくるもの、バケツを鳴らすもの、男子生徒は先生に靴を投げつけた。女生徒たちは手を叩いて喜んだ。くだらない授業をぶち壊す快感なのだ。幾日も幾日にも亘って蓄積したみんなの鬱憤が噴き出したのだ。
 わたしはそっと教室を抜け出して、あやを心で呼んだ。あやが答えた。空から赤い葉が舞い降りてくるんだ、いつも。わたしは駅のホームに急いだ。あやはもう来ていて、わたしを待っていた。
「りょう!」
「あや!はやかったね」
 わたしたちは電車に飛び乗り、発車を待った。ベルが鳴った。ドアが閉まった。ドアの向こうに教頭の顔が見えた。電車のガラス窓をバンバン叩いている。わたしを追ってきたのだ。馬鹿なやつめ!ハハハ…ふたりして笑ってやった。

 あれ以来、堅く閉ざされていたお屋敷の門の、鉄の扉が少しだけ開いていた。わたしたちは、玄関へと走った。早く母に会いたかったのだ。扉を開けると、母を呼んだ。わたしの声がお屋敷に響いた。返事はなかった。あの部屋、あの処刑のあった部屋の扉がかすかに開いていた。わたしはそっと開けてみた。ああ、あのすばらしき悪夢を想い出させる…だれもいなかった。なにもなかった。シャンデリアも、ベッドも、ただ、不思議な形の塔だけが暗闇にぼんやりと見えた。奥の部屋へわたしたちは行った。たぶんあの部屋だとわたしは感じた。その部屋は、父の母親が使っていた部屋―父のノートに家の平面図が描いてあって、「母の」とメモしてあった―あの部屋の前に来た。あの時のように、ドアの下から光が漏れて揺れていた。そっとドアを開けると、ベッドの上に母が眠っていた。腕を胸の両側に開いて、まるで、母の本棚で見た、水に浮かぶオフィーリアのように、眼を半開きにしたまま眠っていた。窓からの光が部屋のなかで散乱して、母は美しい死体のように見えた。
「お母さん…」わたしは小さな声で呼びかけた。もしも死んでいたらどうしようと思いながら…
「お母さん…」もういちど呼びかけた。こんどは少し大きい声で。
「……」ああよかった、母の瞼が動いて、眼が天井の光の反射を追った。
「お母さん、お友達を連れてきたの…」
 母は胸の上に片手をのせて、ゆっくりと起き上がった。こんなに美しい母を見たことはいままでになかった。今朝までの母の顔とは違っていたのだ。あの写真のなかの「伯母」の顔に似ていた。窓からの光が長く白い髪の毛を透過して、一本一本の銀のすじを輝かせていた。
 母はじっと、「あや」の顔を見つめていた。そして、手で顔を覆った。手の隙間を流れ、唇を伝って、いくつもの泪が落ちていった。母の身体が大きく縦に揺れた。声もなく、嗚咽していたのだ…
 母は立ち上がり、「あや」を抱きしめた…
「りょう…りょうちゃん、わたしのりょうちゃん…」
母は叫ぶように声を絞り出して「あや」の脚にとりすがった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…」
 「あや」は母の頭を撫でていた。機械的に…顔はほほえんでもいない、怒りの色もない、無表情だった。
 わたしはただ、その光景を見ていた。私もなにも感慨も感激もなかった。こういうことも世の中にはあるものだと、そう思っただけだった。むしろ、わたしの予想通り、母が「あや」を笑顔で出迎えてくれ、よくいらしたわね、と言って、ふたりを抱きしめてくれたとしたら、わたしは泪するほどに嬉しかっただろうけれど…そして、わたしの妹が生きていたことにしだいに気づき、感動して、喜びに泪を流してくれていれば…
 母は謝り続けていた。「あや」は首を横に振って、少しわずらわしそうだった。
「お母さま…どうぞ立ってくださいませ」「あや」がそう言って母をベッドに座らせた。わたしたちも母の両側に座った。母はふたりを両腕に抱いて、交互に頭を寄せた。
「お母さん…わたしの妹?あや?」わたしは母に確認した。
「…そう、ほんとうの、りょう」やはりそうだったのだ。わたしは「あや」で「りょう」ではなかった。「りょう」は仮の名で、ほんとうは「あや」だったのだ。でも「りょう」がなにかの理由でいなくなり、わたしが父のために「りょう」と呼ばれるようになったのだ。わたしはほんとうは「りょう」ではなく「あや」なのだ。だから妹は「あや」ではなく「りょう」なのだ。
「りょう?」わたしは妹に確認した。
「いいえ、あたしはあやよ!…佐々木綾(あや)!」妹はきっぱりと言った。
「ごめんなさいね、りょうちゃん、この子は一歳のときにお父さまのお姉さま、麗紗さんが、佐々木家へ養子に出したの…わたしは悲しかったけれど、仕方がなかったの…灰川家は双子で家が潰れると、麗紗さんが言ったの、わたしたちはその言葉が真実であることを知っていたし、もうこれ以上、罪を犯すことができなかった…罰を受けることも限界だったの…そして、わたしの母の知り合いだった、佐々木校長に相談して、校長先生の親戚へ養子にもらっていただいたの…あやちゃん…ごめんなさいね、わたしの本意ではなかったけれど、あなたを手離したわたしは、どんなに責められてもいい…でもあなたがこんなに元気に育ってくれていたことが、わたしは嬉しかったの…りょうちゃんもごめんなさいね、あなたの名前を勝手に呼び変えてしまったこと、お父さまとともに謝ります…」母はわたしと、妹の手を握り、交互に頭にキスをして、許しを乞うた。
 わたしは母を許した。たぶん許した。でも、妹のあやの心はわたしには読めなかった。硬い鎧で閉ざしていて、隙間からひとすじの光も、見えなかった。

 駅前を歩きながら、わたしたちは手をつないだ。五月の風がふたりをかろやかにした。民家の庭先にあるウチワサボテンを、妹はナイフで切りとり、鞄のなかに抛り込んだ。トカゲの餌だった。今日もトカゲを入れているんだ。じゃ、毎日トカゲはいっしょに学校へ行っているのだろうか。
「ねえ、トカゲを見せてよ」わたしは妹に言った。
「あたし、ねえじゃないわ、あやと呼んで!」妹が怒って言った。
「ごめん…あやちゃん」
「そう、それでいいのよ!」妹はわたしより、もっとはっきりした性格かしら…可愛い!妹の仕草も言葉も、声も、なにもかもすべてが可愛いと思った。
 ずんずん先を行く妹をわたしは追った。妹の歩くスピードはわたしの倍速かった。妹は道を知っていた。なぜだか、わたしを引っぱるようにして、先を歩いた。わたしは自転車を駅に置いてきたことを思い出した…まいっか、妹といっしょだもの、こんなに楽しいし。
 坂道もどんどん妹は登った。わたしはわざと体重をかけて、妹に引っぱらせた。それでも妹は、わたしなんか風船かなにかのように、軽々と坂を引いていった。
「ちょっと、りょうちゃん!…重いよ!」妹はわたしを振り返って、手を離した。わたしは妹にかけていた体重の反動で、後ろにひっくりかえって、尻もちをついた。手のひらが痛かった。妹は笑っていた。そしてわたしの手を引いて起こした。わたしの手のひらをひろげて、めり込んだ小石をはたいてくれた。血が滲んでくると、ぎゅっとまわりを押して、血をふくらませ、吸った。必要以上に吸って嘗めた。わたしは気持ちよかった。
 また手をつないで、坂道を登った。角を曲がるとわたしの、わたしたちのお家だ。母が窓のところから手を振っているはず…角を曲がると、母の姿はなかった。
 玄関を入り、キッチンへ行った。そこにも母の姿はなかった。わたしたちは手をつないだまま、部屋をひとつひとつ開けていった…どこにも母はいなかった。母が買い物?それは考えられなかった。いつも持って来てもらっていたので、その必要はなかった。ではどこに?
「トイレじゃない?」妹のあやが言った。
「そうね…」わたしたちはトイレのドアをノックした。返事はなかった。ドアを開けてみたが、だれもいなかった。開け放たれた小窓から、木々のあいだにお屋敷の屋根が見えた。もしかしてあのお屋敷かも…わたしはそう思って、母のライティングビューローの鍵を見に行った。鍵はなかった。母はあのお屋敷に行ったのだ。わたしたちも行ってみよう…そう心に思うと、すでにあやは、玄関へわたしを引っぱっていた。

 それからは通学のたびに、その子とホームで待ち合わせ、同じ車両に乗り込んで、いっしょに座った。わたしたちが来ると、だれもが座っていた席を立って空けてくれた。譲ったのではなくて、近づきたくなかっただけなのだ。わたしたちにとっては、その行為は嬉しかった。腰と腰をくっつけてこの子と座っていると、なにも会話はしなかったけれど、わたしの心は満たされた。
「…双子みたい」誰かのひそひそ声が聞こえた。
「…ほんとそっくり」
「きもーい」
わたしたちはそんなに似ているのだろうか。いくつかトンネルを電車が過ぎるときに、向かいの鏡になった窓ガラスに映る姿を確かめた。人と人のあいだにわたしたちふたりの顔が映った。その子も顔を上げて、わたしと鏡のなかで視線を合わせた。
 ほんとうによく似ていた。そっくりだった。違うのはわたしよりも長い髪の毛と、セーラー服のラインの色と、スカーフの色だけだった。
 みんなが気持ち悪がるのも理解できた。なにかに映して見ると、その違和感やゆがみや、非相似性が明確になり、心が安定するものだが、まさにわたしたちが今、その逆だった。なんでもない日常のなかで、あまりにも似たものがあると、それはかえって心を乱してしまうことがあるように、この電車のなかであまりにも似たわたしたちふたりの姿は、みんなにとってなにか非日常的で、許せない犯罪のような存在だったのだ。
 わたしたちの一メートル以内にはだれひとり近づかなかった。わたしたちはいつもふたりの空間を専有できたのだ…猿どもめ、きたない面をさげて、きたない口をおっぴろげて、シミのついた下着をわざと見せやがって…わたしはそう思った…いや、そう思わされた…となりの女の子を見ると、わたしを見つめていた。ほほえんでいる。わたしたちはいつのまにか、指と指をからませて、手を握りあっていた。

 ある日の午後、わたしは駅のホームで待っていた。あの子が来るのを。別の高校なので、ここで待ち合わせていた。今日、わたしはあの女の子を家に誘っていた。母に会わせたかったのだ。わたしには妹がいたことは聞いていたが、たぶん亡くなっているとばかり思い込んでいた。この子と遭うまでは、それを疑わなかった。でもいまとなっては、この女の子がわたしの眼の前にいるかぎり、そのことは信じがたいことに思えたのだ。母にこの子を会わせて確かめたかった。すべての事実を。
 その女の子がやってきた。長い髪の毛をなびかせて。その姿は誰かにも似ていた、わたしではない、誰かに…
 彼女は、わたしの腕にそっと触れて、先に電車に乗った。午後の車内はすいていて、朝とは違ってゆるやかな空気が流れていた。いく人かの女生徒たちも、けだるい感じで席に座ってケータイを打ちながら、脚を左右に投げ出していた。
 わたしと女の子は、席は空いていたけれど、ドアのところに立って、ガラスを手のひらで押していた。わたしの右手と、女の子の左手がかすかに触れあっていた。彼女の人差し指には指輪がはめてあった。それはどこかで見たことのあるものだったが、思い出せなかった。
 …でも、わたしたちはなぜこんなにも心が通じ合うのだろうか。ほとんど会話なんてしないのに…わたしの心に、彼女の心が響きあって、いつも重なっていた。わたしには不思議な体験だった。あのシャンデリアに座っていた少女がここにいて、わたしの横にいて、今、小指と小指をつつきあって存在しているのだ。わたしは心からいとおしいと思った。彼女を抱きしめたくなった…ああ、心が振動する…彼女も同じことを思っているのだ…わたしたちは人目をはばからず、ドアの前で抱き合って、キスをした…ああ、なんて気分だ!こんな快感ははじめてだった。電車の揺れと音が、わたしたちを幻想の空間へ運んだ…ああ、妹が見える…お姉さん…ああ、りょうちゃん…お姉さん…
「お姉さん…」妹がわたしの腕をつねった。
「……」眼を開けると駅についていた。わたしたちは降りた。妹の顔を見た。
「お姉さん、と言った?」わたしは妹にたずねた。
「ええ、お姉さん…わかったでしょ、わたしはあなたの妹!」妹はきっぱりと答えて、大股で歩き出した。美しい髪の毛が風に揺れて、ピアスをした耳が見えた…そうだ、やはり妹なのだ。あの時のちっちゃな少女と同じ、妹…
 わたしは嬉しかった。妹が生きていたのだ。ほんとうの妹が…でもなぜ?わたしにはわからなかった…

 次の日も、また次の日も、わたしはその子を捜した。どの車両も捜したが、見つからなかった。
 ある土砂降りの日、わたしは駅にたどり着くまでにずぶ濡れになっていた。傘はさして自転車に乗ったけれど、全然役に立たなかった。スカートからは雫が垂れて、髪の毛も首に貼りつき、みんながわたしを横目で見て、くすくす笑いながら電車に乗り込んでいった。わたしは濡れていることはどうでもよかった。またあの子を捜さなければならなかったのだ。ぽたぽたと、髪の毛や袖やスカートから雫を落としながら、ドアのところに貼りつくようにして立った。わたしのようにずぶ濡れの生徒が何人かいたが、みんな友達に拭いてもらっていた…みんなわたしのことはどうでもよかったのだ。冷たい眼で見るものもいなくなり、自分たちの世界のおしゃべりにすぐ夢中になっていった。わたしはその車両の奥から、順々にひとりひとり、背伸びをしながら確かめた。目の前の背の低い女の子がよろけて、わたしにぶつかった。ぶつかっておいて、わたしを睨みつけて、自分の制服が濡れてしまったので、くそ!と言ってハンカチで、なにか汚いものでもぬぐうように拭きとって、その自分のハンカチを投げ捨て、靴で踏んづけた。仲間の女の子たちはそれを見て、指を差して笑いこけた…なにが可笑しいのか、わたしにはわからなかった。その女生徒もいっしょになって、首をのけぞらせて笑った。頭のレベルは猿以下だな、とわたしは思った。
 とつぜんむこうで悲鳴が聞こえた。わたしから五メートルぐらい離れたあたりだった。女生徒たちの頭が一方へ片寄った。座席には鞄を膝に抱えた女生徒がひとり残された。見ると、あの女の子だった。わたしの妹に似ている…いや、あの子は、わたしの妹そのものだった…「りょう!」わたしは心のなかで叫んだ、女の子はわたしを見た、聞こえたんだ、きっと、心の声が。
 その子の鞄からは、大きな緑色のトカゲが顔を出して、ゆっくりと左右に首をふっていた。次々に悲鳴が続いた。笑い声も派手だが、叫び声も女子高生たちは強烈だった。騒ぎを聞きつけ、車掌が人をかきわけてやってきた。そして、女の子の腕をつかんで連れて行った。いつもは機敏な動きを見せない女生徒たちは、ふたりが通るときには、見事に左右にわかれて、まるで船が進むときの波のようにさわやかだった。
 わたしも後を追った。車掌室へふたりは入っていった。わたしもなかへ入った。これから説教しようとしていた車掌は、不意の来訪者に驚いて、ふり返った。
「あんたは?」車掌がかん高い声で聞いた。
「…あの、わたしの妹なんです」わたしはその子の側に立って、かばうように言った。
「わたしの妹なんです?…」車掌は馬鹿みたいに鸚鵡返しに言って、ぽかんと口を開けた。
「ごめんなさい、ゆるしてください、妹は少し頭が弱くって、いつもなんかへまなことをするんです、あたしがよく見てなかったから、ゆるしてください、おねがいします!」
 わたしが立て続けに言ったものだから、車掌は、自分の言葉を失って、黙った。
「おねがいします、こんどからよく言い聞かせますので」
「こんどからよく言ってくださいよ…お姉さんなんだから、いい!」車掌はしぶしぶな顔をして、わたしたちを車掌室から出した。みんながいっせいにわたしたちを見た。わたしはその子の肩を抱いて、いちばん近いドアのところへ行った。みんな道を開けた。みんなにとっては、なにか面白いことが起きたので、自分たちの好奇心と猜疑心を満たすことができて、満足そうに、軽蔑の眼をわたしたちに向けた。
 その子は下を向いていたが、よく見ると、にやにやしていた。変な笑みを浮かべていたのだ。その顔をみんなも見て、呆れ顔でまた、自分たちの世界へ戻っていった。
 いっしょにホームへ降りると、女の子は、ありがとう、と言って階段へ向かって行った。なにも会話はしなかったけれど…ありがとう、と心に聞こえたのだ…その子の心が見えたような気がした。
 一時の激しい波は、かならず凪になるのだ。まるで遠潮が引くように、灰川家の話題は町から消えた。あの「事件」も「事故」として処理され、ふざけたゴシップとなって、町のみんなからは軽蔑と侮蔑と、そして、私達町のものはいっさい関係ありませんと、無視されていき、学校も閉鎖され、この町から、灰川家も薔薇園も、校長も学校も、すべて消され、葬り去られた。
 わたしたち親子にとっては、いい兆候だった。わたしたちの家の破壊を知った町の人々からは、募金が集まり、警察がお金と謝罪を持ってやってきた。市長も同行し、母に平身低頭謝っていた。わたしはそれをドアの陰で見ていたが、なんの感想もなかった、だって、あれはわたしの、彼らに対する処刑だったのだから…わたしが、わたしのお家が、少しぐらい罰を受けても仕方なかったのだから…なにも知らない母は可哀相だったが、あの犯罪者たちを、地獄に送り込むことができたのは、母にとってもいいことだったはずだ。
 なによりも、わたしは、わたしの妹にも逢えたし、父と伯母にも逢えたし、あれ以来、わたしの六歳以前の家族との記憶も、しだいに戻りつつあった。

 わたしはふたたび、父のノートと日記の整理にあたった。
 あの学校も消えたので、生徒たちはとなり町まで通っていた。わたしも市長のはからいで新しい学校へ行くことになった。朝早く駅まで自転車で駆け、そこから電車に揺られてその町の高校へ行った。電車のなかはいつも女生徒で溢れかえり、にぎやかだった。男の子たちは端へ追いやられ、我が物顔で電車を占拠する女生徒たちの、短いスカートと潰れた通学靴が踊った。
 その日もわたしは、いちばん連結部に近いところに立って、本を広げていた。女子高生はなぜこんなにも元気がいいのか、わたしにはわからなかった。まったく、屈託のない笑顔で、今までにどんな痛みも、どんな苦しみも味わったことがないと、その唇が大きく開いては閉じて、またぱっくりと開いていた。
 ふとわたしは、進行方向にあるとなりの車両をドア越しに見た…あの子は…あの子は、妹に似ていた…ほかの生徒の影に隠れて見えなくなった。どの車両もいっぱいだったので、移動はできなかった。わたしは駅に着くのを待った。女生徒たちをかきわけながら、白い眼で睨まれながらドアへ急いだ。ホームに出るとその子を捜した。となりのドアから出てくるのを待った。みんなが、立ちどまっているわたしの背中を突き飛ばして、階段のほうへ行った…その子は見えなくなっていた。見つからなかった…ただ似ているだけだったのかもしれない…わたしはあきらめて、みんなの背中を押しながら、階段へ向かった。
 あくる朝、警察が来た。わたしが、となりのお屋敷の変な物音で目が覚めたと、電話したのだ。はじめは二人だけだったが、そのうち、四人、十人、二十人と増えていった。報道も来た。カメラを抱えた人や、マイクを持った人で、お屋敷の前はしだいに騒がしくなっていった。
 以前から、幽霊屋敷と呼ばれていたところへ、校長が住むようになって、町では話題になっていたのだ。わたしはまったく知らなかったが、この灰川家とその薔薇園は、かつては町の文化財的な場所だったのだ。その後、数家族が住もうとしたが、不慮の事故や病気で、次々と家族の誰かが死んでいき、今では、灰川家の亡霊が出るといううわさまで囁かれていたのだ。そして、この「事件」の発生で、町の人々の興味が再燃し、マスコミや野次馬で、門が壊れんばかりにお屋敷前が沸きかえっていった。
 わたしたち親子も、もとお屋敷の住人だったとして、マスコミや町の人々の興味の対象になったが、わたしたち、わたしと母はいっさい外に出ることはなかった。いくら呼び鈴を押されても…あまりにもうるさいのでわたしが線を切ってやった。電話線も抜いた。カーテンも引いて、完全に外界からこの家を遮断した。
 そのうち、窓ガラスに向けて石が投げられた。小石ならまだしも、人の頭ほどもある石が、窓を破壊した。そのつど警察がその人間を逮捕したが、何の効果もなかった。外では怒号が響いた…出て来い!お前たちに用があるんだ!知らんぷりか!…ヘリが家の屋根をすれすれに飛んでいた。いくども、いくども…わたしと母は、いちばん西側の部屋で、ふたりしてベッドで抱きあっていた。クッションを頭から被っても、外の音は、耳のすぐそばで爆発した。わたしたちは泣いた。泪が出なくなるまで…わたしたち親子がなにをしたと言うのか…わたしたちはあなたたちとどういう関係があるというのだ…わたしは腹が煮えくり返った…もう我慢ならない、わたしはクッションを跳ね飛ばし、起き上がった。母がわたしを止めた。母がわたしを止めてくれた。わたしの顔は鬼のようだったと思う。母がわたしの顔を両手で、胸に包んでくれなかったら、目玉は飛び出し、舌を噛み砕いて、すべての人間、すべての者を、抹殺しかねなかったのだ…母の泪が、わたしの唇に落ちてきて…わたしは吾に返った。冷たい泪は、少し、苦かった…

 長い冬が始まった。わたしは寒さに震えながら、優子とあのお屋敷を見張った。食事のとき、何度か優子が白い粉をスープに入れるのを見た。そのつどどうにかして、スープを優子か校長のと入れ替えたが、だめだったときは、わざと皿ごとこぼしたり、気が狂ったように母に抱きついて、母のスープをだいなしにして、薬を母に呑ませないようにした。このときばかりは、わたしの神経症が役に立ったのだ。

 ある夜中のこと、わたしはいつものようにあの大木の影から、寒さに凍えながら、お屋敷を見ていた。星が降るように鮮明で、月は見えなかった。オリオンが天頂にのぼって、わたしを見おろしていた…玄関にいちばん近い部屋のカーテンがかすかに明るくなった。なかで明かりが動いたのだ。わたしは両腕を抱いたままそこを凝視した…またかすかに赤くぼんやりと光が滲んだ。たしかに誰かがあの開かずの部屋に入っていた。わたしはそっとお屋敷に近づき、その部屋の窓の下に行き、なかの様子に耳をそばだてた…なにも聞こえなかった…わたしは玄関へ行き、鍵をゆっくりと回した。音をたてないようになかへ入り、そっとあの部屋に近づいた。扉の下から赤い光が揺らめくように漏れてきた。ほんとうに誰かいるのだ。わたしは胸が苦しくなった。動悸が激しくなったのだ。胸を押さえると、吐きそうだった。それでもゆっくりと把手を回した。それは低くきしみながら回転した。扉を少しだけ開けてなかを覗いた。蝋燭が一本、宙に揺れていた。その下にはベッドがぼんやり白く浮き上がり、なにかがその上で蠢いていた…そのうちに、ベッドに被せられたシーツが波をうち出し、大きくめくれた…女が上体を起こし、男の上に馬乗りになって身体を前後に揺らしていた…「ああっ!」わたしは思わず声を出した。女は優子だった…男は校長だった。この部屋にまで来て、情事を、それも親子でけがらわしいことをしていたのだ…ふたりがいっせいにわたしの方を見た…わたしは天井を見た。天井のシャンデリアから、男と女がぶらさがっていたのだ…
「……」わたしの喉は声にならない叫びをしぼり出した。男は父だった。女は伯母だった、あの写真のふたりだったのだ。そのふたりがシャンデリアから首を吊ってぶらさがっていた。ふたりの腕はくっついているように見えた。蝋燭の炎が揺れて、その腕が糸で縫ってあるのが鮮明にわたしには見えた。赤いバツ印がふたつの腕のあいだを、交互に突き抜けて縦に並んでいた。さらに、わたしは驚愕した。シャンデリアにひとりの少女が乗っていて、わたしを見てほほえんでいた…なにか閃光が走った。一瞬わたしは眼を閉じた。そして眼を開いた…ゆっくりと、シャンデリアが父と伯母をぶらさげたまま、落下しはじめた。ひとつひとつのクリスタルが前後しながら、あとに残されていくように、ゆっくりと回転しながら落ちていった。父と伯母は、うなだれた首をしだいに上げて、わたしを見た。その眼は、母の眼と同じに宝石のようにきらめいた…
 猛烈な音がして、シャンデリアがベッドを潰した。ガラス音や金属音や、人間の悲鳴をさせて…四本の足がベッドの上でばたついていた。お互いの足を蹴りあげていた。なんという醜態だ!しだいにそのばたつきもゆるくなり、動かなくなった。シャンデリアの鉄の輪のふちに、あの少女が座っていた。そしてわたしを手招きした。
 わたしは一歩ずつ、吸い寄せられるように近づいていった。
「あなたはだれ?…」わたしは手を伸ばしながら聞いた。
「…わたし、りょう」その少女が答えた。
「りょう?」わたしはもういちどたずねた。
「そう、ほんとうのりょう」そのちっちゃな女の子はほほえんだ。
「わたしは…わたしは、あや」わたしはほんとうの名を言った。
「そう、あなたがあや?」
「ええ、わたしがあや…あなたがりょうなのね…ほんとうの…」
「……」わたしは、ほんとうの「りょう」を抱きしめた。ちっちゃなほんとうの「りょう」を抱きしめた。冷たかった。氷のように冷たかった。でもわたしはあたたかかった、わたし自身の心のあたたかさが胸に感じられた。わたしたちは抱きあったまま、眼をつむった…ああ、わたしの妹に逢えたのだ、ほんとうの妹に、どんなにわたしはこの子を求めたことか、父が求めたように、わたしもこの妹を求めていたのだ、いま心が合体し、すべてがわかった、わたしのなかの父と、わたしのなかのあやと、わたしのなかのりょうと、そして、ほんとうのりょうの融合が、この宇宙を照らした、真実の血の姿を、真実のたましいの姿を…
 「りょう」はわたしの胸のなかに融けていった。わたしはとても幸せな気持ちがした。なにかで心が満たされたように、眼を半開きにして、ベッドの上を見つめた。すばらしい光景だった。校長の身体に優子の身体がめり込んで、まるで人間の内臓を喰らう天使のように見えた。背中にクリスタルビーズの羽根を生やした天使に見えた。
 窓の近くがふんわりと光った。なにか塔のようなものが立っていて、その根元がぼんやりと青白く光っていた。父の顔が浮かんだ。わたしにほほえんでいた。伯母の顔も並んで、ほほえんでいた。あの少女も後ろにいた…ふたりはふりかえり、少女の手をひいて、塔のなかへ消えていった…

 ふたりは事がすむと、そそくさと部屋を出て、たぶん学校へ戻っていった。昼休みだったのか。わたしは意外と冷静だった。なぜか予想通りだったような気がしたからだ…わたしたちに、あれを盛っている?…どういう意味だ?薬でも知らないうちに呑ませていたのか?そうだとすると、ふたりを処刑するしかなかった。わたしは決心した。

 当然、母にはこのことは黙っていた。そして、優子が学校から帰ってくると、その行動を見張った。優子がわたしの様子を見に来た。わたしは神経をやられている風をして、ベッドで目玉を白黒させていた。それを見て優子は、食事の準備を手伝いにダイニングへ行き、母に親しそうに話しかけた。母も楽しそうだった。母のこの明るさは、薬のせいかもしれないと思った。外見は健康を取り戻したように見えたが、内部から蝕まれているのかもしれない。異様なほどに、母は以前よりも美しく、髪の毛も黒味を帯び、眼はさらにかがやきを増して宝石のようだった。
 わたしはそっと窓から抜け出して、ダイニングの窓ガラス越しに、優子の行動を監視した。それからいく日もいく日も優子の動きを見ていたが、なにも起こらなかった。

 秋も暮れていき、十二月に入った。優子はいつのまにか、あのお屋敷に暮らしていて、食事だけわが家へ校長とやってきていた。その日もわたしは注意深く監視をしていた。
 学校から戻った優子は、なんだか落ちつかない目付きで母を見たり、入り口を見たりしていた。今日はなにかやるかもしれないと思った。
 母がキッチンへ入った。優子はそのすきに、手のひらに隠し持った白い粉末を食事に混ぜた。ついにやったな!校長が言ったとおりだ。これで決まりだな…処刑の方法と場所と、いつ決行するか決めなければならないと思った。
 校長が学校から戻ってきた。ダイニングへ入りながら、優子に中指を立てて見せた。優子は知らんぷりをして、食器を並べていた。
「お帰りなさい、校長先生」母がキッチンから出てきた。
「あ、ただいま、今日も疲れました…うちの生徒はなぜあんなに元気がいい、優先生?」
「さあ…食べ物が普通じゃないんじゃないですか」適当に答えている。母はそれを聞いて、ふふふと無邪気にわらっている。なにも知らないで!
「りょうさんを呼んできましょうか」校長が母に言った。
「ええ、お願いします」母はそう言ってキッチンへ入った。
 わたしは急いで部屋へ戻り、窓の下に伸びているように寝そべった。
「りょうさん、食事ですよ」校長がノックした。
「はい…いま行きます」わたしの返事を待つまえに部屋の戸を開けて校長がなかを覗いた。ほんとにいやなやつだ。わたしは起き上がりながら、こぶしを作った。
 わたしがダイニングへ行くと、なぜか校長がずっとわたしを見ているので、あきらめかけたが、玄関に誰か人が来たようだったので、校長が見に行ったすきに、母のスープと優子のスープを入れ替えた。そしてわたしは、あまり食欲がないといってすぐに部屋へ戻った。
 ダイニングでは、大声や笑い声が響いていた…くそっ!あいつらめ!なんてやつらだ…母が惨めだった。母が素直に笑って、おしゃべりして、あいつらの謀略にひっかかる自分を知らないなんて、可哀相だった。
 いったいあいつらは、母とどういう関係なんだろう…遠縁と言っていたが、血は繋がっているのだろうか…母と優子が姉妹だとしたら、血の繋がりがあるのか、確かにふたりはよく似ていた、そのことは誰も話題にしなかったが、わたしの勘は当たっていたのだ。母はなぜそのことをなにも言わないのか?もうすべて知っていて、知らないのはわたしだけかもしれなかった…でも、いまとなっては、血縁も姉妹も関係なかった。実際にわたしたち親子を殺ろうとしている人間がいるのだ。わたしは注意を怠ってはならなかった。いつやつらが、わたしたちを闇に葬り去るのか、その計画を監視しなければならなかった…

 夏が過ぎて、ひんやりとした朝がやってきた。わたしは相変わらず、父のノートと日記を研究していた。夏休みが終っても学校には行かず、わたしの大切な仕事をこなした。ゆっくりではあったが着実に先に進んでいた。でも、それらはあまりにも流れるような文字であったために、わたしもともに流されることが多かったのだ。
 なかに、なにか符号のような、暗号のような文字を見つけた。ドイツ語のようでもあったが、単語中に数字が混じっていて、その意味はわからなかった…あとになってわかったのだが、それは薔薇園地図のなかの数字と、薔薇の名をドイツ語に訳して分解したものだった…
 母が時々、わたしの作業を見に来た。すっかり母も、元の身体に戻り、そのふっくらとした胸はいつも尖って、形がよかった。その尖った胸をわたしの腕に押しつけて、覗き込んだ…どこまで行った?母の眼がそう言っていた…まだまだよ、お母さんとお父さんが、あのお屋敷で出逢うところ…そう、ずいぶん進んだわね、あなたの登場はまだ先ね、がんばって…母は、そう心で言って、自分の部屋へ戻っていった。

 わたしは、またあのお屋敷へ行く必要性を感じた。どうしても想い出せないことがあるのだ。それはわたしの六歳までの家族の記憶だった。そこにはいくつかの断片的な画像しかなかった。あとはまったくの空白だった。まるで六歳で切り離されて、別人になったように、この家での想い出しかなかった。父との記憶をもっと取り戻したかった。伯母とのそれも、そしてその頃の母との想い出を…
 そこで校長が学校へ出かけたあと、母の鍵を使ってあのお屋敷へ入った。
 校長はどの部屋を使っているのだろう、用心深いやつだから、全部鍵をかけているに違いない。でも今日は、母のチェストの抽斗で見つけた鍵の束を持っているから、全部の部屋でも開けられるはずだった。中央の廊下は昼間でも薄暗く、眼を馴らす必要があった。ゆっくりとわたしは進んだ。一歩ずつ立ちどまっては、記憶を探った。ひと部屋ひと部屋、その把手に手をかけて、記憶の蘇りを待った。左右に分かれる廊下もすべて調べた。全部で九部屋あった。なにもそれらは教えてはくれなかった。右側の廊下の途切れたところで、膝を抱えて座り込んだ。少し廊下の板がひんやりした。どこかに掛けてある時計の音が聞こえている。わたしが父のノートと日記を見つけた部屋の扉の下から、あの時のように光が漏れてきた。きらきらと暗闇をいくつかに分かち、わたしの眼を射た。わたしは眼をつむった…わたしはそのまま眠ってしまった…
 バタンという音で眼が覚めた。話し声が聞こえる。校長の声だ。もうひとり女の声がする。笑っている。あの笑い方は佐々木優子だ。廊下の電灯がともった。わたしは立ち上がり、急いですぐそばの部屋の鍵を鍵束のなかから探した。ない、これも違う、これもだ、これも…ああ、ふたりがこっちへ来る、どうしよう…あった!校長と優子が廊下を右に曲がる寸前に鍵を開け、部屋にもぐり込んだ。この部屋にもしかして来るかもしれない、わたしは隠れ場所をさがした。クローゼットがあった。そのなかに身をひそめた…ふたりが近づいてくる。鍵をさし込んでいる。この部屋だ!この部屋の鍵を回している。
「あれ、おかしいわね、開いてる」優子がそう言いながら入ってきた。
「閉め忘れたんだろ!」校長ががなっている。
「閉めたはずだけど…」優子がいつもの人を問い詰めるような眼をして、クローゼットに近づいて来た。わたしは服のあいだに身をひそめた。
 ガタンと音がして戸が開いた。
「いやだー…やめてよお父さま!」優子が身をかがめた。長い髪が顔の両側から落ちて、その顔を覆った…お父さま?どういうことだ…
 優子はそのまま振りかえり、ふたりはキスをした。
「ああ…お父さま、わたしどれだけこの時を待っていたか…」
「大袈裟な!」校長は吐き捨てるように言った。
「だってもうすぐでしょ…このお屋敷がわたしたちのものになるのは」
「ふん、おまえの欲は底なしだな!…二軒ともぶんどるつもりか!」
「まあ、お父さま…人聞きの悪い、わたしがいつそんなことを!」
「おまえの魂胆は見えすいとる…ふたりにあれを盛っているのか?」校長の声がとつぜん小さくなった。
「ふふふ…どうだっていいでしょ、それよりはやくすませましょ…」
 優子はそう言って服を脱ぎ出した。校長も手早く服を脱いでベッドに横たわった。くちゅくちゅといやな音が続いた…
「おまえ…玲とは、姉妹になるんだぞ…」くちゅくちゅのあいまに校長の声が聞こえた…どういうことだ?…わたしは頭が混乱し出した。姉妹?母と?…優子が?わたしは声が漏れそうになった、思わず口を手で押さえた。
「なによ!…いまさら、わたしたちが親子だってことも黙っていたくせに…あの親子がどうなったって知らないわよ…あんな、あんな馬鹿がつくほどお人よしの母親と、神経症の娘なんか、どうなったって知ったこっちゃないわよ…このスケベ親父が!」パシッと言う音が聞こえた。
「あっ…出ちゃった…」
「馬鹿っ!」
「……」

 次の日の朝、校長がやってきた。玄関で優先生と何か話しているのが聞こえた。母が出迎えた。校長が大声で笑い、母に礼を言っていた…下品なやつだ。わたしはクッションで頭を押さえ、何も聞こえないようにした。でも、しだいにあいつらの声が近づいてきた。そしてわたしの部屋をノックした。
「りょうさん、校長がちょっとお話しがあるって…」優先生がドアの向こうで言った。
「……」わたしは聞こえないふりをした。ドアが開いて誰かがなかを覗いている…ドアは閉まり、みんな去って行った…ああ、くそ!とんでもないやつらだ、人の部屋を覗くなんて…お母さん、止めてよ!母はいなかったの?またどこかへ行ってしまったのか?わたしは不安になり、クッションを頭から叩き落した。
「きゃーーー!」わたしは叫んだ。出せるだけの声を絞って、叫んだ。
 わたしの横に校長と佐々木優子が立っていた…わたしは出来得るかぎりの力で、二人に爪を立てた、立てようとした。しかし、わたしの腕も爪も宙を切り、むなしくベッドに沈んでいった。
「りょうさん、また学校に来れるようになるといいですね」校長がわめいた。まるで、カケスが樹の枝で交尾しているような声だ!
 わたしは窓の方を向いていた。
「りょうさん、また学校に来れるように努力するといいですね」あの女もわめいた。おんなじカケスの仲間か!こいつも…お母さん!お母さん、こいつらを止めて!ここからほうり出して!お母さん…
 母はいなかった。朝食を二人に出すためにキッチンにいたのだ。わたしを放って…お母さん!お母さんのやつめ!わたしを捨てたのか?こいつらと同盟でも結んだのか!ああ、わたしはひとりだ、ひとりきりだった…大粒の泪が、自分の手を濡らした…

 わたしがふたたび自分を捨てるのに、そんなに時間はかからなかった。あいつらがダイニングでぺちゃくちゃおしゃべりしているあいだに、わたしはわたしの仕事を着々とこなしていった。最近母は、佐々木優子だけでなく、校長にまでへつらい、媚を売り、夕食を振舞っていた。それがわたしには我慢ならなかった。この家をめちゃくちゃにしてやりたかった…でもわたしにはできなかった。わたしにはいとしい「りょう」がいたから…

「道緒さん!」あの女がわたしを呼びに来た。わたしはみんなと同じ食卓に着いた。みんなと楽しくおしゃべりもした。三人と冗談を言ったりもした。はっきりとわかった。こいつらが母を捕り込んだことが。わたしの母は「れい」と言った。その名を呼ぶと母が答えた。
「なに?道緒ちゃん…」
「ああ、お母さん…ぼくのところへ戻ってきてください」
「なにを言ってるの、道緒さん」あの女が口を挟んだ。
 口を慎め、このカケスどもが!わたしは一喝して、ふたたび母に言った。
「お母さん、お父さんのことは忘れて、ぼくたちのところへ帰ってきてください!」
 母は下を向いたまま、なにも答えなかった。答えられないのか、答える必要がないと考えたのか…ただうつむいて笑みをうかべているだけだった。
「全部知っているんだぞ、れい!…おまえがわたしの父となにをしたか…全部見ていたんだぞ…姉さんとふたりで!」
 わたしの頭には鮮明な画像で「れい」が吊るされているのが見えた。そして、言ってはならないことを言ってしまったことも悟った。母は泣いていた。母は消えてしまいたいと思った。母は他人の前で自分の過去を晒されたことに、どれだけ恥じ入ったことか。可哀相なお母さん…ごめんなさい、お母さん…わたしはふたたび私自身を一喝した。ふざけるな道緒!おまえは何者だ!何の権理があって、わたしの母を誹謗するんだ?おまえは、おまえたちはただ見ていただけじゃないか、何もしなかったじゃないか、おまえたちは母が吊るされるのを楽しんでいたのだ、違うか?姉はどこだ?姉を呼べ!…わたしは道緒の首を押さえて絞め付けた。道緒は足をばたつかせて、わたしに言った。
「許してください…許してください…許して…」ゲッ、と声を出して道緒は気を失った。わたしは今回はまあ許してやろうと思った。なぜなら硬くなった道緒のペニスが、わたしの下腹にあたって、許しを請うたからだ。

 母たちは、静かにその様子を観察していたが、わたしが笑顔に戻ると、ほっとした顔色になって、食事を続けた。

 こんなに楽しい食事が長く続くはずもなかった。だって、みんなが食べているお皿の上には、ぐるぐるととぐろを巻いた道緒の腸が乗っていたからだ。

 わたしが綺麗に道緒の腹をナイフとフォークで切り開き、上手に腸を取り出して、各自のお皿の上に盛ったからだ。

 それでも三人は、黙々と食事を続けた。道緒の、食事を…

 ああ、こいつらの魂胆はわかった、わたしの道緒を消し去ろうとしているんだ!

 わたしの道緒!わたしの…道緒…
 わたしがうつらうつらしていると、なんだか声を抑えて、ひそひそと話す声がダイニングの方から聞こえてきた…別にいいんだけど、ふたりがなにをしゃべろうと、わたしには関係ない…でもひそひそ声ってなぜか気になるものだ。わたしはそっとベッドを抜け出し、ダイニングに近づいた…
「お願いします、玲さん…」
「ええ…」
「ぜひにと、校長がそう言っておりますので…なんならもういちどお家賃の交渉をいたしましょうか?」
「ええ…でも、あのお屋敷は…おやめになったほうが…」
 優先生が母になにか頼み込んでいた。母はあまり乗り気ではなかった。しつこい女だ。わたしがことわってやろうか?お母さん…
「玲さん、あんなご立派なお屋敷、あのままではもったいない。人様にお貸ししたほうが家も傷みませんし、ご収入にもなるじゃありませんか!」
 ご立派なお屋敷って?前の家のことだろうか…母のものだったのか?そんなことは一言も母は言わなかった…でも鍵は持っていたけれど…
「では、仕方ないですわ、校長先生にお貸しいたします…そのかわり、使える部屋を限らせていただきますけれど…」
「ええ、ええ、もちろんですとも…よかったわ、校長も喜びますわ、だって、二時間もかけて毎日通ってらっしゃるんですから!」
「それと…お庭も触らないでほしいの」
「ええ…草も抜いては?」
「ええ、そう、草一本お抜きになってはいけません」
 母の声が違っていた。こんな声、こんな言い方は今まで一度も聞いたことはなかった。

 わたしはベッドに戻った。あのお屋敷は母のものだったのだ…それを校長が借りて住むのだ…わたしは心が乱れた。あの「墓地」は、わたしのものだったのに、わたしひとりの場所だったのに、他人が入り込むことを考えると、それもあの校長が、庭をうろつくことを考えると、気がめいった。
 でも仕方ないな、母がそう決めたんだから。母も昔の絵を売るだけでは、大変だったはずだ。わたしはそんなこと、ちっとも考えなかった…ああ、なんて馬鹿なんだ、なさけない娘だ…母の苦労を知らなかったなんて、知ろうともしないで…ごめんね、お母さん!…わたしがこの言葉をいくどつぶやいても足らないことを、今になって、知った。

 トイレの窓から、引越しの様子をわたしは見ていた。門扉に絡むいばらを引越しの人が取り除いていた。美しいデザインの鉄の扉が、淋しくなっていった。トラックが横付けされた。大勢の人が、ベッドやチェストや、大きなダンボールや小さな箱をいくつも降ろした。…いったい何人の人間がやってくるんだろう。ものすごい数の荷物だった。きっと大家族に違いなかった。校長の家族なんていままでわたしは知らなかったし、知る必要もなかったのに…
 最後に別のトラックがやってきて、大きなピアノを降ろした。学校にあるようなグランドピアノだった。誰が弾くんだろう?がんがんやられたらうるさいな、子供が習っているんだろう、きっと。それにしても、その家族が見えなかった。ひとりも。校長すらいなかった。今日はお休みの日なので、誰かいてもいいはずだとわたしは思った。ひとり、優先生が、玄関先で、ひとりひとりに運び込む場所の指示を出していた…あの女が…でしゃばり女め!母に取り入って、わたしの「墓地」とお屋敷をだいなしにした張本人だ。それにしても、遠くで見る佐々木優子は、母に似ていた。その上品さは雲泥の差だったが、帽子を被ると、外見はたぶん誰もが一度は間違うだろうなと思った。
 表札が門柱に付けられた。「佐々木」…え?校長も佐々木と言うんだ。優先生と親戚?わたしは自分の学校の校長の名前さえ知らなかったのだ。ただ「校長」としか。灰川の遠縁で、灰川家から多額の資金を得て、学校法人をこの地に建てた…そのことだけしか。
 トイレの戸を母が叩いた。
「りょうちゃん、大丈夫?…」母はわたしがトイレに入ったまま、出てこないので、心配したのだ。
「うん、大丈夫…」わたしは吾にかえって、トイレから出た。勢いよく出たので、母とぶつかった。
「きゃ、ごめんなさい!」そのまま、わたしは母の胸に抱きついた…ああ、いい匂いだ、お母さんの匂いだ、なんて久しぶりだろう…わたしは母にしがみついたまま、いっとき離れなかった。母もわたしを胸に抱いたまま、動かなかった…
「りょうさん…もう離して!」
「……」わたしは母の顔を見た。母ではなかった。佐々木優子だった。わたしは一瞬にしてあとずさった。どんな顔をしたのだろう。優先生の顔が変にゆがんで笑った。わたしは自分の部屋へ戻った…じゃ、あの引越しの指示をしていたのは母だったのか?いやあれは佐々木優子だった、優先生だったはずだ、たぶん…ああどうしたんだろう、わたしは母と佐々木優子を見間違えるなんて…わたしは窓からはだしのまま庭へ飛び降りた。東側を回って母の部屋の窓を覗き込み、母を捜した。そこにはいなかった。玄関へ回って、前のお屋敷を見た。そこにいたのは、母だった。母が引越しの人たちにお礼を言って、送り出すところだった。母がわたしを見た。笑みはなかった。わたしの方へ近づいてきた。わたしは眼を伏せていた。
「りょうさん、お引越しは終了よ!」
 わたしは顔を上げた。わたしの前に立っていたのは、佐々木優子だった…わたしは顔を手で覆い、そこにしゃがみ込んだ…母がいない…母がいなくなった…どこを見ても佐々木優子ばかりだ…なぜ?なぜ…

 わたしは優先生に抱きかかえられるようにして、ダイニングへ行った。そこには母がいて、夕食の支度をしていた。いつものやさしい笑みをうかべて…ああ、お母さん…わたしは母のエプロンにしがみついた。ひざまずいて、母の脚を抱きしめた…母の匂いはしなかった…ああまた母じゃないの?…上を見あげた。母がやさしくわたしの頭を撫でてくれていた。わたしはふたたび母の脚にしがみついて、泣いた。泪が母の脚にすじを引いた…
「りょうちゃん…いい子ね…お食事にしましょ」母のやさしい声が降ってきた。
 わたしは泣きじゃくりながら食卓についた。母も座った。あの女も?優先生も座っていた…黙って食べた…二人が時々眼を合わせて、目配せしているように見えた…

 わたしの目覚めは、これで何度目?目覚めても目覚めても、ほんとうの覚醒はあたえられず、たぶん死んでいるんだね、きっと。姉も、もうあてにならないし、お母さんもどこにもいない…わたしは見捨てられているに違いなかった。でもそのことはちっとも苦痛にならないし、むしろ、わたしの片想いの日々にはとてもしっくりきているんだ…「ねえ、道緒さん」あの女だ。馴れ馴れしい声で!佐々木優子、この女が現われてからだ。わたしの目覚めがなくなったのは。わたしが道緒だって、なぜ知ってる?きっと姉がしゃべったんだ。でも頭のない姉が?落っこちた頭のほうが唇を動かしてしゃべったのか?いずれ聞いてみるけれど、わたしは以前にもまして、頭痛に陶酔できるようになっていた。頭痛というものは、痛いに違いないが、痛みの種類が違っていた。切り傷の痛みとも、神経の痛みとも、心の痛みとも…つまり、なにも考えなくていいのだ。死を考えなくていい、もっとつらい、生きることも考えなくていい、彼女のことも、あの女のことも、母のことも、姉のことも、もちろん父のことも…ただ、わたしの娘、わたしのいとしい「りょう」のことは…忘れ去ることをさせてもらえなかった…仕方ないではないか、あの可愛いわたしの天使が、あっけなく死んでしまうなんて。姉の話では、玲が「りょう」を産んだ時、死産であったと。わたしは、どん底に突き落とされた。しかし、五分後に「あや」が産まれた。姉は、その「あや」をわたしに抱かせてくれた。ああ、可愛い、わたしの天使!「りょう」…わたしは「あや」を「りょう」と呼ぶことに決めたのだ。その日から、「あや」は「りょう」となった。そしてほんとうの「りょう」は天国に召された…だからわたしは、「りょう」を溺愛した。「りょう」の代わりに。玲のお腹のなかにいる双子にすでに名を決めていたわたしは、どちらのお人形さんにする?と、母にたずねられて、こっち!と指さす子供のように、まるで幼かった。双子のうち、一人は生きてくれたのだから、その子を「りょう」として大切にしてもいい?わたしは、姉と、玲の赦しを得て、「りょう」を慈しんだ…いつもわたしの膝の上にいた「あや」は、わたしの「りょう」となった。お人形さんは、静寂のたましいを宿しているように、「りょう」も静けさに満ちたたましいを育んでいった…わたしは「りょう」を膝にのせて、いつも四阿で風とともに揺れていた…わたしの「りょう」…いとしい「りょう」…可愛い「りょう」…「りょう」…

 「りょう」…「りょう!」…わたしは揺り起こされた。母がわたしを顔の真上から覗き込んだ。優先生の顔も隣にあった。いやな臭いがした。
「起きたわね」優先生がほほえんだ。
「ちょっと身体を拭きますよ、りょう」わたしはパジャマをふたりに脱がされて、裸になった。ひどい臭いだ!わたしは便も尿も、たれ流していたのだ。ベッドの上で、パジャマのなかに…わたしはすべての恥辱をいちどに浴びたように、顔を赤くした。手で顔を覆った。瞼の裏に手の影が見えた。
「りょうさん、気にしなくていいのよ…誰でもあることだから」優先生がわたしをなぐさめた。誰でもあるはずないよ、とわたしは言おうとしたが、顔を覆った手をのけることはできなかった。
 母がやさしくわたしの股間を拭いてくれた。母はいつもやさしい…ごめんなさい、お母さん…優先生は、わたしのお尻を、なにか取れない染みでも削るように、消毒液を染み込ませた紙で拭きあげては、それを床に投げつけていた。わたしは指の隙間からそれを見ていた…自分のなさけない姿と、優先生の乱暴なやり方とで、わたしは完全に居場所を失った。
 母が新しい下着とパジャマを着せてくれた。そしてわたしを抱え、わたしの部屋のベッドへ寝かせてくれた。ふたたび自分の部屋に戻ることができたのだ。ずいぶん久しい気がした。長い長い入院のあとに、わが家へ帰ったときって、こうなんだろうなと思った。
 部屋はなにひとつ変わっていなかった。わたしの机も本棚も、窓のカーテンも、窓から見える庭も…優先生はここにはいなかったのだろうか。なにひとつ触ったあとはなかった。わたしはすべてのものを、ものさしで計って置いていたので、少しでも動くと、すぐに気分が悪くなったから。それにしてもなぜだかわからないけれど…優先生はここにはいなかったのかもしれない。別の部屋で?母の部屋で?…でもまあいいや、すべてが以前のままで…え?あのノートと日記?…そうだ、父のノートと日記がなくなっていたはずだ…わたしはマットの下に手をやった。あった。それはちゃんとあった。優先生が盗んだと思ったのは、夢なのか?妄想だったのか?でもまあいいか。わたしは安堵して、眠りについた。