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michianri

Author:michianri
せつない 想い…
つたない ことばたち…
やりきれない 心…

『詩片日記…薔薇園…片想い』

第一章『詩片日記』
surrealiste
 hypochondrie
    ~prologue
       灰川道緒

第二章『薔薇園』
     
       鵜沓 綾

第三章『片想い』

       野川美千夫  

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(c) 片想い…
design by Echizen
photo by mizutama

せつない ラヴレター つたない ことば やりきれない 日々… 


        
 姉が叫んだ。
「さあ、ふたりとも起きて!」
 わたしと玲は、夢のなかでつながっていた。姉は容赦なくわたしたちを揺り動かして、ほっぺたをたたいた。
「わかったわよ!首のありかが」
 わたしは呆然と姉を見つめた。玲はベッドの上で、学校から戻ったりょうを抱きしめていた。姉の勢いに圧倒されながら、わたしと玲は、りょうを寝室に置いて、庭へ出た。姉が裏からはしごを持ってきた。そして門のすぐ横にあるオガタマノキに立てかけた。さあ、と姉の眼がわたしたちに呼びかける。わたしと玲は上を見上げて、まだよく呑み込めていなかった。
「姉さん…ここに?」
「そうよ、伯母さんがこの木のむろに、あいつの首を入れたのよ!」
 姉は伯母の日記を読むうちに、伯母が敵ではなく、父が敵であることを悟ったのだ。「あの女」と呼んでいた伯母の事を「伯母さん」と呼んだ。
「さあ、だれが行く?」姉はわたしの顔を見る。
 頭痛でくしゃくしゃの顔をしているわたしを見たあと、哀れなものでも見たように、眼をそむけた。玲を見る…
「じゃ、わたしが行く!」
 姉はそう自分で言って、はしごを登りはじめた。長いスカートが6月の風にひるがえった。むろははしごの途中から上にいくつかあり、ちいさなものを入れると、無数の穴が幹にはあった。そのすべてが、穴に向かってすべらかに樹皮が流れ込み、人の口のように見えた。姉は大きいむろのなかをひとつずつさぐった。小石がいっぱいつまっているものもあった。姉はその小石をひとつ、懐かしそうに眺めて、下に放り投げた。姉はオガタマノキの枝をつかんで、はしごの一番上の段に立った。姉の眼の前には、この木のもっとも大きなむろが黒い闇を作っていた。姉が片手を穴のなかに伸ばした。なにかあったのだ。次の瞬間、姉の手には綺麗な真白い頭蓋骨が乗っていた。玲はほとんど放心状態だったが、この頭蓋骨を見て、笑い出した…
「お母さま…」自分の母親に見えたのか。それとも母を思い出したのか…
哀れだった。わたしは玲を抱きしめた…ぜったいにおまえを離さない…わたしはそう心に誓った。
 姉がはしごを降りてきた。そして庭石のある庭の真ん中へ、頭蓋骨をささげて、真っすぐ歩いていった。そしてそれを高く頭の上に持ち上げ、石に叩きつけた。
 頭蓋骨はばらばらになり、姉の周りに飛び散った。風が吹き、骨の白粉を空へ運び去った。


 わたしと姉と、玲とりょうは、この家で暮した。いつものように、朝が過ぎ、冬の午後の風が吹き始めると、オガタマノキの花の香りを運んできた。
 わたしたちは幸せだった。わたしの頭痛も去り、姉も笑うようになり、玲も自らの宿命を受け入れ、りょうは、可愛いりょうは、わたしたちの天使は、冬の薔薇園をかけまわっていた…


 『後述』
 わたしが「墓碑銘」を書き始めたのは、ある夏の終り、薔薇園で母と出逢ったからだ。その母のためになにかしてあげたいと思った。そして、詩を綴った。母は美しい笑顔でわたしたちに微笑みかけた。わたしが姉に「ほらお母さんだ…」と声をかけると、姉も「ああ、お母さん…」と手を差しのべた。玲もりょうも、それを微笑んで見ていた。みんな母が見えたのだ。「ラ・セデュイザーント」の薔薇の木の上に母は座って、わたしたちに両手をひろげた。わたしたちも両手で答えた。しずかに、母は薔薇の精のように、幻となって、消えていった…



                                             (終り)
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 …しかし、わたしの頭痛のもとを探らねばならなかった。
 父の首のありかを見つけなければならないのだ。わたしの頭痛は、父の首の呪いから来ているにちがいなかった。早く見つけてくれという、父の訴えだったのだ。
 …玲はわたしのそばに横たわり、泪を枯らして、眠った。わたしは玲の頭を抱いてやった。
 姉はひとり、日記を読み進めた…もういいではないかと、わたしは思った。わたしの頭痛なんて、玲の苦悩に比べたら、取るに足らないものなんだ。玲は死んでしまうかもしれない。わたしたちと異母兄妹だった自分を、呪ったに違いない。わたしと出逢ったことを悔いたに違いない。わたしは、彼女との出逢いを消し去りたいなんて思わないけれど、あってはならないことの現実と、変えようのない宿命と、仕組まれた運命の呪いの間に揺れた。
 わたしはとうとう眼の奥の痛みが前頭葉に達し、ベッドの柱に頭を打ちつけ始めた。柱のくりぬかれた葡萄の葉の溝に血が垂れた。そして、一粒一粒の葡萄の実を赤く染めていった。
 姉がわたしをベッドに縛った。玲もともに縛った。ふたりは同じ荷物のように密着して、ベッドに横たわった。姉はあくまで冷静だった。もう感情のない装置のように事を処理していた。再び日記を調べ始めた。
 
 …伯母は、母の苦悩を聞き、そして苦しみを分かち合った。わが娘に代わって弟を葬ることを考え始めた。もちろん母には黙って計画を進めた。赴任先で愛人とともに心中に見せかけて殺すのがいいと考えた。そのために、弟の赴任先の近くに家を借り、あらゆる薬物を自分の身体で試した。農薬も、睡眠薬も、ヒ素ですらどこかで手に入れていた。しかし弟は用心深かった。伯母の気配を感じていたのだ。二卵性とはいえ、双子の姉弟は、お互いの行動根拠が同じであることを無意識のうちに感じているのだ。父は食事の時、飼っている小動物にそれを食べさせながら自分も食べた。食事を作る愛人の鵜沓涼子さえ、信用していなかった。誰かに買収されることなんて、よくあることだし、簡単だからな!自分の居場所なんて、永遠にそこにあるわけじゃないし、いつ誰が自分を蹴落としにかかるかわからないからな!自我欲に固まったやつらが、なにかの気味悪い幼虫のようにそこらじゅうに蠢いて、わたしのはらわたを狙ってるんだ!
 伯母は断念した。自分の存在を感じている弟を感じた。母のもとへ帰って来た。母は伯母のやつれた顔を見て心配した。夫の赴任先で何をしていたのか、うっすらと感じていた。でも母は誰にでもやさしかった。伯母をいたわり、母のように愛した。実の母を…
 またふたたび薔薇の季節がめぐり、父が戻ってきた。
 わたしたちは父の儀式の道具にされ、母は吊るされ続けた。父は薔薇を部屋に飾り、香りを部屋に満たして『かもめ』を自ら演じながら、母を回転させた。伯母はその光景を窓のカーテンのすき間から覗いていた。母は尿を漏らした。伯母は決心した、今夜殺ろうと。弟を殺そうと。もうだめだった、耐えられなかった。そっと台所に入り、弟が夜眠る前に呑むカルヴァドスに、大量の睡眠薬を混ぜた。そして夜半、ふたたび灰川家に忍びより、弟の部屋を覗いた。弟は眠っていた。しかしそばに母が立っていた、自分の娘が。豚を解体するような大きな包丁を振り揚げたまま立っていた。弱くしたシャンデリアの光にそれが鏡のように光った。その光が下へ移動し始めた。ゆっくりのようにも見えたが、光が連なって、そう感じたのだ。弧を描いて父の首は飛び、噴水のように血が噴き出した。壁に、天井に、そして母に…父が跳ね起きた、首のない身体のままで。そして手を顔にあてて、叫んだ。叫んでいるように見えた。そのままくずおれて、ベッドに横たわった。
 …母は赤黒いヴェルヴェットドレスに身を包み、顔は黒く、表情のない処刑台のように見えた。包丁はすでに光るのをやめていた。伯母は硬直して動けなかった。声も出なかった。すべてが自らの責任のような気がした。なぜもっと早く自分が弟を殺さなかったかと、この狂った家から娘を抜け出さなかったのかと。
 伯母は卒倒してその場に倒れた。気づくと、東の空が白みかけていた。身体を朝の薔薇園の香りが包んでいた。急いで母の部屋へ向かった。伯母の眼に刺さったのは、さらに苦痛の針のようだった。母が首を吊って死んでいた。自分も母と並んで死を選ぼうとしたが、暖炉の上のわたしたちの写真が眼に入り、思いとどまったのだ。母の足元に落ちていた『マルテ』を拾いあげて、本棚にしまった。警察を呼び、事情を話し、刑事とともにわたしたちの部屋へやってきたのだ。レベルの低いこの地の警察は、母がどこかに埋めた父の首を見つけられず、間抜けな警察犬とともに帰って行った…
 伯母はそう書いていたが、実際には、薔薇園の強烈な香りが強すぎて、犬の鼻を惑わしたのだ。バークの敷きつめてある薔薇園では、掘り返した場所を探すことも困難だった。
 伯母は、弟と娘の、誰ひとり弔問のない葬儀をすませ、あの首をふたたび掘り出して、ある場所へ隠した。伯母は『マルテ』の中に書かれてあった首のありかを知っていたのだ。『マルテ』は本棚の奥へ隠した。
 …伯母は書いていた。弟の首を掘り出すと、半分腐りかけ、目玉は飛び出していて、口は変なゆがみ方をして笑っていたと。そしてそれを園丁が使っている長い脚立で、この庭の唯一の常緑樹である「オガタマノキ」のむろに納めたと。
 このあたりはかつてお寺の伽藍があり、常緑樹が多く植えられていたが、灰川家がここに移り住んだ時に、このオガタマノキ一本を残してすべて切り倒したのだ。この木は樹齢数百年の大木で、いくつかむろがあり、わたしと姉はよくそのむろに向かって小石を投げて遊んでいた。母はそれを見ると、この木は死んだ人たちのたましいが宿る木だから、そういうことをしてはいけませんよと、やさしく叱った。その木に伯母は父の首を隠したのだ。隠したと言うよりも、罪をつぐなわせようとしたのかもしれない。鳥につつかせて、そのたましいに贖罪を求めたのかもしれない。わたしたちの生活は、楽しく、つらいものになった。伯母は母以外に子供もなく、子供を育てたこともなく、まして思春期にさしかかる双子の面倒を見るのは、重荷だったのかもしれない。日記にはその愚痴が多くなっていた。とくにすべてに反抗の態度をとる姉には手を焼いたのだ。その結果、自分が子供の時されたように、姉をしつけようとした。しかし、伯母は姉に殺されてしまい、その日記も中断せざるを得なかったのだ…
 
 父の死体には首がなかったのだ。見事な天井の血の銀河の理由がわかった。母が薔薇の根元に埋めたという父の首は、どうなったのだろうか。わたしも姉も、玲も、りょうも、いくどもこの薔薇のそばを通り、この薔薇の香りを嗅ぎ…玲とあの薔薇園で出逢ったときのこの薔薇の木は、わたしたちにとって、四つ角にある薔薇窓のカフェのような存在だった。この木の根元に父の首がずっと眠っていたなんて、考えるだけで吐きそうだった。

 またわたしの頭痛が始った。わたしはにんまりとした。姉がわたしをベッドに拘束した。これもいいさ。頭痛がしているあいだは、なにも考えなくていいからね。これも素敵なのだ。父の首ととっかえてやってもいい!…

 姉と玲は、薔薇の根元を掘った。根元というより、その薔薇の木を抜いて1メートル四方を調べた。首はなかった。歯のかけらすらなかった。わたしは姉の落胆がわかった。頭痛の最中はさらに姉の心が伝わった。でも、伝わってもどうすることもできなかった。姉はもうわたしひとりの姉ではなかった。玲にとってもひとりの姉だった。ふたりは姉妹のようだった。姉の髪の毛がしだいに伸びて、玲の髪の長さに近づくごとに、ふたりは似ていった。
 わたしはベッドのなかでそれをじっと見ていた。よく観察した。使えない頭は、一点のみ集中できた…ああ、ふたりは双子のようだとわたしは思った。
 向かいあって話しているふたりを見ているのは気持ちよかった。頭痛が眼の裏側に進むと、ふたりを見えなくした。目玉がミルク色に濁っていくような感じがした。そうすると、ふたりがなにかひそひそと相談している声は、わたしをおとしめるための計画を練っているように思えた。
 姉に玲をとられたわたしは、嫉妬した。でも、ふたりをわたしは許した。わたしにはやらねばならないことがあったからだ。彼女たちにも手伝って欲しいと思ったが、わたしの首を切り取るのは…父のように切り取るのは、ふたりとても不可能だった。わたしがいつもやるように薔薇の花みたいに簡単にもぎとれればいいのに。

 姉と玲は、伯母の日記をはじめから調べ始めた。何十冊もあるそれを調べるのには根気がいった。わたしたちは、十代の日記と最後のものには眼を通していたが、残りの日記からは母との出会い、父の非道ぶり、母の狂乱…次々と幻のような現実が現れた…

 伯母は、学生の時から家に寄り付かず、外にずっと出ていたが、ある日、家に戻ってみると、弟は結婚していた。それも可愛い女性と。伯母は、弟の妻を見て一瞬、胸の高鳴りを覚えるけれども、まさかと思い、そうそうに実家をあとにした。しかし、周りに住む人々の唇はかってに動いた。伯母の姿を見つけると、口々に「いいお嫁さんがいらしたわ」「灰川家もこれで安心ですね」「従妹ですって!?」「ご親戚からもらわれたそうね」…耳に入れなくてもいいことまで、伯母の耳に突っ込んだ。
 伯母は愕然とした。その親戚というのは自分が生んだ子をあずけた家だったのだ。すべての事情を内密にしていたので、こんなことになったのだと、伯母は自分の母親を恨んだ。
 伯母は実家の近くに家を借りて住んだ。弟を監視するためと、わたしたちの母を見守るために。でも父は感づいた。伯母の眼の色で、その考えていることをすぐに見破ったのだ。父は伯母を家に入れなかった。門から先、入ることを拒んだ。父の赴任中は、わたしたちが学校へ行っているときに、母に会いに来ていた。
 母は父を好きだった。どんなにはずかしめられても、愛していた。人を強制する、人を支配する快楽が人にはあるように、強いもの、強引なものに服従する快感というものもたしかにある。わたしならそれがわかる、その両方が。姉もそれを理解しただろう。しかし、母はまるでなにもないかのように、わたしたちに接した。子供の直感は、どんなに顔色や服装でごまかしてもそれを突き通すものだが、わたしたちには、母はとても幸せに見えた。ただ、伯母の前では母は泣き崩れた。ほんとうの母に助けを求めるように、伯母の胸にいだかれた。実の母とは知らずに。
 父は赴任先で愛人と暮していた。それに気づくのにはたいした努力は必要なかった。電話にその女がたびたび出たからだ。男は必ず、生存の証しを自らの歴史に残すことを本能づけられているものだ。自分の遺伝子をこの世に残さねばならないのだ。父はその本能に従ったまでだった。赴任中にその溢れて漏れそうな性欲を処理するには、それを吸いとってくれるジェルが必要だったのだ。伯母は父のところへ確かめに行った。父は嬉々として生活していた。その女性も妻のように寄り添っていた。伯母は父と同棲している女性の名を日記に記していた。
 わたしたちは…わたしと、姉と、玲は、その名を見て、背筋に氷のナイフを突き立てられたようになった。その名をここに記すことさえはばかられた。だって灰川家は「りょう」が生まれて、新しい血を交えて、新しい道に進むのではなかったのか。こんなにも仕組まれたおぞましいことがこの世に現出するなんて、血で呪われた家系を絶ち切るのは、こんなにも難しいものなのか。わたしたちは愕然とした。そして玲は…わたしのいとおしい玲は、くずおれて、泪と、血を吐いた。「鵜沓涼子」という名が伯母の日記に丁寧な字で書かれていた。玲の母親だった。わたしたちは、それ以上読み進めることはできなかった。なぜ伯母の日記を手にとったのだろう、なぜ読んでしまったのだろうか。いや、伯母はなぜこの日記を残したのか。わたしたちの眼に触れることを望んだのか…いや、姉が伯母の日々を切断したのだ。伯母は日記を処分する時を与えられずに、ばらばらになってしまった…夜が急に襲ってきた。この世の暗さにわたしたちが気づくまで、夜は黙していたのだ…わたしの頭痛のもとは、この夜のように姿を隠して、この家の道を見えなくした…
          
 わたしはふたたび、母のベッドに縛りつけられた。姉は本を並べながら、ぱらぱらとめくっていた。なにかに眼が止まった。じっと見ている。目玉が上から下へ往復している。そして天を仰いだ。

 姉は玲を呼んだ。ふたりでその本を見ている…今さら重要なことでもあるまい、ぼくは全部の本を読んでいるんだからな…でもあまりにも熱心だ。真剣すぎる。
「ねえなにか面白いことでもあるの?」わたしは頭痛のあいまが退屈だった。ふたりだけで面白い文章を呼んでいるのが癪にさわった。
「ねえぼくにも見せてよ!」
 姉はわたしを見た。哀れみを含んだ眼で。玲もわたしを見た。もっと哀れみを帯びた眼で。

 母の「マルテの手記」はもう一冊あったのだ。わたしたちの部屋に隠しておいた一冊と、もう一冊は、箱に入った美しい装丁の本だった。その「マルテ」が、わたしの投げつけた本のなかに隠れていたんだ。だれも気づかずに。見つからないように上手に隠してあったのだ。父に見つかるとはずかしめの言葉をあびせられて、心がくずおれるようになったから。母はなんて可哀相な人だ。どれだけ耐えると、明日が来るのだろうか…そういうふうに考えて、わたしたちに、笑顔を見せていたんだ、きっと…

 その母の「マルテ」になにがあるというのだ?姉がようやくわたしにそれを見せてくれた。ふたりの似た哀れみの視線が、わたしの心の波を少しだけかき乱した。姉が指さしたところには、本文と本文のあいだに、びっしりとペンで文字が綴られていた。遠くから見ると。印刷の字が滲んでいるように見えた。
 姉が読んでくれた…「麗紗ちゃん、道緒ちゃん、おふたりがこれを読む頃には、どんな大人になっているでしょう。幸せになってくれているといいのですが。先立つことをお許し下さい。わたくしは母として失格ですね。おふたりを残して行ってしまうのですから。わたくしは、あなたたちの父親を殺しました。わたしを苦しめる棘を取り除きたかったのです。あなたたちにもあの父親がなにをしていたか…わたくしは許せなかったのです。この家の元凶を排除したかっただけなのです。許して下さい。麗紗ちゃん、道緒ちゃん、もっとこの名をたくさん呼びたかった。わたしの大切な双子ちゃん。何時までも愛しています。母より… …あなたたちの父親の首は『ラ・セデュイザーント』の根元に埋めています。どうかこれを読む時には、あなたたちの父親を許し、お墓へ入れてあげて下さい」
 姉は、淡々と、冷たくこれを読んだ。玲はこの愛情に満ちた言葉と、残酷な言葉の差にとまどっているように見えた。
  
 「呪われた灰川家」。わたしはその言葉を二度と心に思い浮かべないでいいと、勘違いしていた。ほんとうに思い違いだった。見当違いもはなはだしかった。つまり、わたしの犯した罪が消えたわけではなかった。わたしはすべての罰を受けて、罪をつぐなったわけではなかったのだ。ああ、悪業のうがった穴は、こんなにも深かったのか。姉に助けを求めた。玲にもりょうにも、もう心を痛めさせたくはなかった。わたしのなかの悔い改めさせようとする心が、ふたたび起き上がったのだ。それは、悪辣な心がふたたび芽生え始め、その悪魔を押さえようとする心が生じたのだ。心の葛藤は精神を乱した。どちらがわたしを支配するかはわたし自身にかかっていた。そうして、わたしに試練が与えられた。これに打ち克てば、悪辣を封じ込めることができると言った。しかし、負ければ即死だと…

 わたしは頭が割れ始めた。そういう感覚がするほどの痛みが、頭を引き裂いた。首ごと捥げそうな激痛だった。わたしは苦しんだ。苦しみは狂いになった。母の部屋の本をすべて投げつけた。姉は止めなかった。ただ見ていた。どうしようもなかったのだ。わたしが疲れると、姉と玲はわたしをベッドに縛りつけた。頭痛薬を大量にわたしの口に押し込んだ。そして蛇口につないだホースでわたしの口のなかの薬をいっきに胃へ流し込んだ。痛みがおさまると、わたしは眠り、次の試練までのエネルギーをためた。

 玲とりょうは、姉が以前借りていた家に移った。あまりにもわたしの狂いが尋常ではなかったので、姉がそうさせたのだ。姉とのふたりだけの生活がふたたび始った。わたしは自分の首を切り落とすことを考え始めた。いかにしたら綺麗にこの首を切り落とせるかを、激痛に耐えながら一日中考え続けた。今は耐えているけれども、この痛みからは逃れたかったのだ。
 いいことを思いついた。昔見た映画にいい方法があった。バイクに乗った男が、夜誰もいない道を走っていた。するとある場所を通過したあとに、その男の首は消えていたのだ。誰かがその男の首にちょうど当たるようにワイヤーを張っていたのだ。それは芸術的な切断だった。その男は一瞬のことで何が起こったのか判らなかったはずだ。
 わたしは着々と準備を進めた。それに夢中になっているときは頭痛はおさまった。すると姉が、玲とりょうを呼んでわたしに会わせた。わたしは忙しかった。ふたりにろくに声もかけなかった。りょうはわたしの膝の上に乗ろうとするが、わたしはすぐに立ち上がって、力学に関する本をさがした。そんな本はあるはずもなかったが、あるような気もした。母がそんな本を読んでいたなんて聞いたこともなかったが、もしかしたら、自分の惨めな吊るされ方を数式で記録しようとしたかもしれないじゃないか?わたしがすべての本を投げつける前に、玲とりょうは借家に帰された。いいタイミングだ。姉のタイミングは最高だった。ついこないだもわたしが頭をベッドの柱に打ちつけようと身体をそらせたちょうどその時、どこからか部屋へ戻ってきて、わたしを後ろから羽交い絞めにしたんだ。それぐらい彼女の勘は冴えて、タイミングは逃さなかった。わたしの頭が痛みで濁っていくのに反して、彼女の頭は冴えわたった。わたしに関するシグナルを先に捉えて対処した。
 …姉さん、そんなにもぼくを思ってくれるのかい?…わたしは感謝などしなかった。ほっといてくれと心で言い続けた。なのに姉はわたしを捉えて放さなかった。ほんとうなら頭を打ちつけても大丈夫なやわらかい素材の檻にわたしを入れて、本でも読んでいたかっただろうな…姉にはうんざりした。わたしをかまいすぎた。わたしはキレた。姉がちょっと部屋を出たすきに本をすべて暖炉に投げ入れた。本は半焼けになった。姉は怒らなかった。黙って一冊ずつ、黒く角の焼けた本を棚に戻していった…姉はなぜ怒らない?わたしは怒ってほしかった、姉に叱られて、頬をぶたれたかった…姉さん、愛してる…
 ふふふ…わたしの頭痛は麻薬になった。早く来ないか、待ち遠しいのだ。これがないとわたしではなかった。ぜんぜんわたしらしくなかった。姉にも質問した…どんな具合?ぼくがおとなしいのは…変だろ?変だろ?ねえ、変だろ姉さん!…
 姉はわたしの頭を抱えて撫でていた。わたしの頭をスイカか何かと勘違いしてるんじゃないか?ふざけるな!…わたしは姉を突き飛ばし、ドアに向かって突き進み、ドアにぶちあたった。鼻から血が噴き出た。気持ちよかった。血の味は、姉の味がした。姉の傷口の味が…
   
 このままではすまされないことは、わたしたちにもわかった。でも、どうするかは思いつかなかった。あの納骨堂の上にはかつてお墓が並んでいたのだろう。それを誰かが掘りあげて、火葬し、骨壷に収め、納骨堂にまとめたのか。それとも、もともと火葬しなければならない、なにかの事情、風習があったのかもしれない。風習ならば、この地の風土史に出ているだろう。事情だとすれば、灰川の血を、この地に滲ませないためなのかもしれないと、わたしは思った。
 なぜ納骨堂の上に家を建てたのだろうか。とてもありえない話だったが、父ならばやりかねないと思った。祖父の代まで、現在薔薇園になっているところに家があったと、伯母がわたしに言ったことがあった。たぶん父は薔薇園を作るために、反対の北側の角に家を建て直したのだ。伯母はお墓のことはなにも言わなかった。ほんとうにそこに先祖代々の墓地があったかどうかはわたしの想像にすぎなかったが、納骨堂の上に家を建てるなんて、わたしならしないだろう。家の位置と、薔薇園のためだけではない、この灰川家の因縁がそうさせたように思えた。
 父は灰川の血を嫌ったのだろうか。自分でも修正できない、悪因に満ちた、血筋。悪果が充満した、家系!それを封じ込めるために墓を掘りあげ、家を建てかえるときに、下になるようにわざと納骨堂を作ったのかもしれない。しかし、それは逆効果だった。先祖の骨の上に住んで、先祖の骨を上から踏みつけて、いいことになるわけはなかった。わたしでもそれぐらいのことは判断できる。父の所業は、灰川家の呪われた系統を断ち切るどころか、父自身の悪業を呼び、母や、わたしと姉までもその汚れた水に沈むことを強いたのだ。
 
 
 わたしたちは、父の部屋の納骨堂がある真上に、供養塔を建てることにした。古いお墓に見られる五輪塔を建てたのだ。それも部屋のなかに。それは納骨堂の上を踏まないようにするためでもあった。父の部屋のドアを入ると、異様な光景がひろがったが、父のためでもあり、先祖のためでもあった。
 納骨堂から持ってきた位牌はその五輪等に置いて、姉が花を供えた。わたしたちは、安堵した。これですべてが終ったように感じた。

 りょうも玲も、夜歩きまわることもなくなった。ふたたび平穏な日々が、灰川家に訪れた。

 りょうもすくすく育ち、五歳になった。わたしにも、玲にも似てきた。玲もわたしに似てきたのだ。いや、むしろわたしが玲に似てきたのかもしれない。姉とそっくりなわたしが玲の顔になるということは、姉も玲に似ているということだった。つまり、りょうを含めて、似たものが四人、顔だけではない、心を通じあい、身体も通じあい、一心同体の「家」を築こうとしたのだ。
    
 悪い傾向というものは、引き継がれていくけれど、泉のように湧いた良い心はなぜ途切れてしまうのか。何かを捕らえて踏み潰さねば、代々と悪い因縁は受け継がれていくものなのだ。 
 灰川家は典型だった。二百年もこの傾向を延々と続けてきて、それを断ち切る機会はあたえられなかったのか。わたしにも、姉にも、母にも…。
 ただ玲と、りょうにはこの澱んだ血を薄めて、白に近い、いや透明に近い糸を、織り込んでほしいと、わたしたちは願った。

 あくる日の午後、ふたたび父の部屋の床にもぐった。伯母の埋められていたところをもう一度丹念に調べた。しかしなにもそこには残っていなかった。わたしたちはその穴の周りに座って、しばらく考えていた。伯母を供養することは、灰川家を供養することにもなったはずなのに、わたしたちにはまだやるべきことがあるのだろうか。
 たぶん二人も同じことを考えていたに違いない。ときどきそれぞれの眼をあわせただけで、それが読みとれた。

 玲が、わたしの後ろの方へ視線を移した。わたしと姉もその方向を見た。通気口から入り込んだ夕暮れの光が、淡いほこりのなかを進んで、床下の土を一ヶ所照らしだしていた。そこに何か光っているものが見えた。外の壁際に近かったそこは、土が乾き、白く、砂のように見えた。
 わたしたちは這って、その光るものを拾いあげた。蓋のようなものだった。錆びて緑青が浮いていたが、小さくまるい把っ手の部分は錆びずに陽を受けてきらきらと光った。姉がそのあたりの土を手でのけてみると、石が出てきた。御影石の一部が見えた。わたしたちはスコップでそこを掘った。かなり大きな石が、三本横たわっていた。なんだろ?姉がスコップの柄で叩いた。石と石の間の砂が、隙間へ落ちた。もう一度叩くと、砂がすべて落ちて、闇が筋となって現れた。なんだろうか?背筋に氷の走るような冷たさが降りていった。この石は一メートル近くあって、とても動かせそうになかった。身体を起こせればなんとか三人でのけることもできそうだったが、四つんばいの姿勢では、とてもだめだった。隙間からはカビのような臭いがした。下には空間があって、石を叩くと音が響いた。

 次の日、わたしたちは再度床下にもぐり、石のまわりの土を取り除いた。姉も玲も、わたしも、なにかにとりつかれたように手を動かした。石は四面ほぼ同じ幅で横たわり、下の空間の蓋の役目をしていた。まわりを掘ると、枠になるふち石が出てきた。一本ずつ隙間をひろげて、三人で転がせばなんとか動きそうだった。姉がスコップを刺し込み、わたしがその柄を足で蹴って、隙間をひろげていった。そしてみんなの力を合わせて、端の石から一回転させた。鈍い音がして御影石がふち石に当たって、転がった。一本の暗黒が縦長に開いた。真ん中の石も回転させ、端に寄せた。三本目は反対側に回転させた。暗闇の先は、見えないベールが漂っていて、わたしたちを躊躇させた。姉が明かりを照らすと、石段が下の方へ降りていた。人ひとり降りられるぐらいの狭い石段で、その先はいまだ暗くて、なにも見えなかった。わたしがまず降りてみた。腰をかがめて、石段の先を照らすと、短い通路があって、その奥はやや広い部屋があった。そして石の棚が上から下まで作ってあり、焼き物の骨壺がびっしりと並んでいた。それは、黒い陶器や、白い磁器や、割れて中から骨のかけらがはみ出しているものや、泪のような露をつけているものや、融けてぼろ布のかたまりのように見えるものや、鮮明な藍絵が光を反射して生々しい感じを受けるものが、並んでいた。小さいものは子供だろうか。下の棚に一列に並べてあった。
 わたしが声もださずにその場を動けずにいたので、知らずうちに、姉も玲も狭い通路を降りて、わたしの後ろからこの納骨堂を見つめていた。
 「すごい数だわ」姉が口を開いた。納骨堂を見るのは初めてだった。お墓の下にあるちいさな空間とはくらべものにならないほどの広さと、骨壺の数だった。
 「これは全部灰川家のもの?」玲がわたしたちに尋ねた。
 「…」わたしと姉は答えようがなかった。たぶんそうなのだろうけれど、骨壺に名前が書いてあるわけでもなく、なんとも言えなかった。二百年と聞いている灰川家ならば、これぐらいのお骨があっても不思議はなかった。
 「後ろになにかあるみたい…」玲が明かりをいちばん奥の骨壺にあてた。そこには札のようなものが見えた。わたしはそっとそれを取り出した。位牌だった。表には文字が彫ってあり、もともと金色の文字だった面影がかすかに残っていた。裏を見た。はげかかった金文字で、うっすらと灰川の字があった。わたしはそれを姉に渡した。姉は表の文字を読もうとしていた。玲がそれを覗き込んでいる。わたしは他にも位牌がないか探したが、他には一本もなかった。しかし、灰川の納骨堂であることはこれで確かめられた。わたしたちは位牌を持って外に出た。石の蓋はそのままにして、父の部屋へ戻り、これからどうするかを三人で話した。
           
 わたしたちは再びいっしょに暮し始めた。夢のなかを彷徨っていたりょうも、ぐっすり眠るようになった。ようやく平穏な日々がやってくるのだろうか。風もない、波もないおだやかな凪の海のような日々をわたしたちは望んだ。ただ、姉の言った「伯母の遺体をちゃんとしないと、死ねない」という言葉が、わたしも玲も気になっていた。それだからこそ、姉にこの家でいっしょに暮すことを承知させ、姉のベッドをわたしたちの部屋につめ込んで、四人でひとつ部屋に寝ることしたんだ。

 ささやかだけど、楽しい夜だった。やさしく流れる夜をわたしたちは過ごした。マルテもはじめから朗読した。するとりょうはすぐに瞼を重くして、玲の胸のなかで眠った。私たちも眠った。マルテが眠れぬ夜を語りつづける夢を見ながら…

 姉のおかげかもしれない。姉が死なずにこの家に戻ってきてくれたおかげで、わたしたちは波のおだやかな海で過ごすことができている。姉の罪は、十年間苦しんだことと、伯母の遺体を掘りあげ、墓に埋葬したことで、すべてを赦してやってほしい。姉は長い入院と、わたしの看護と、そして、伯母へ心を開くことで罪をつぐなったのだ。もうこれ以上責められることは、わたし自身の消滅を意味しているように思えるから。姉への非難はわたしの同罪をも意味しているのだから。どうかこの手記を読む者よ。姉とわたしを赦してください…

 だが、あなたが、わたしたちを赦したとしても、神が罰の鎖を解き放つはずもなかった。あまりにも大きい借財は人々を麻痺させるように、わたしたちは自らの罪の深さに麻痺していたのだ。深海魚が猛烈な水圧にも耐える身体を進化させていったように、わたしたちも深い罪の底で、何食わぬ顔で息をしていたのだ。そんなわたしたちを、神が赦すはずもなかった… 
 誰かが、夜中にうなされた。それが誰であるか、わたしたちにはわからなかった。わたしたちの誰かであるはずなのに、誰もそのうなされる声の主を特定できなかったのだ。
 ある日の夜半、再びりょうが起き上がった。姉がそれをじっと見ていた。わたしも姉の気配で眼が覚め、ドアの方へ歩くりょうを見つめた。玲は眠っていた。ときどき深いため息をついていた。姉とわたしは、りょうのあとを追った。りょうはちゃんと眼をあけて暗闇を歩いていった。廊下を曲がり、父の部屋の前でわたしたちの方へ向きを変えて、しゃがみ込んだ。わたしたちと視線があったが、彼女には見えていないようだった。廊下の真ん中で彼女は膝を抱えて座り、そして眠った。その姿は、なにかを待っているようにも見えた。また、なにかに身体をあずけているようにも見えた。
 わたしはりょうを抱え、寝室に戻った。玲は眠っていた。わたしと姉も、眠った。

 そういう夜が幾日か続いた。そのうち、玲も起き上がるようになった。平然とした顔でベッドを下り、りょうを連れて廊下を歩いた。ときどき誰かに話しかけていた。言葉はわからなかったが、なにかを尋ねられ、それに答えているようだった。そして父の部屋をノックした。返事はなかった。ふたりはドアの前でうずくまり、眠った。わたしと姉は、ふたりをそのままにして母の部屋へ戻り、向かいあった。
 姉が言った。
 「ねえ、道緒ちゃん…なにかあるわ」
 「そうだね、姉さん」
 「まだ伯母が残っているのかもしれない…」
 「あした、見てみようね」
 「ありがとう…」

 わたしたちは父の部屋の前まで行き、ふたりをそっと寝室へ戻してやった。まばたきをしないほどにふたりの夢は深かった。横になっても両の眼は開いたままだった。
 わたしは姉のことを思い出した。あのときの姉も、眼を見開いたまま寝ていたことを。

               
 玲は、りょうにこの部屋で本を読んでいるように言って、わたしと姉と玲とで父の部屋に入った。カーテンを開け放ち、明かりを入れた。窓をうつ雨音が響いた。ガラスに雨粒が斜めに走り、庭の木々の影を消していた。
 この窓のところで、姉と玲はこのことを話していたのか…玲はなにも言わなかったが、すでに姉からすべてを聞いて知っていたのかもしれない。玲は黙ってわたしたちを手伝った。
 わたしたちは絨毯を剥がした。糊は劣化していたのでそれは簡単に剥がせた。この絨毯は父の死後、この部屋のすべてを取り除いたあとに張り替えたと、伯母の日記にあった。父の本はどこにいったのだろうか。あのチェーホフ全集の数々は…
 …床が出てくると、姉はどこかにある切れ目をさがした。床は杉材がひいてあって、学校の廊下に似ていた。ベッドがあったところには、絨毯を透過した血のまるく大きな染みが黒く残っていて、父の哀れな最期を記録していた。
 姉は思い出したようだ。本棚が作りつけてあった壁際の角にその床下への出入り口はあった。姉がそこをスコップの柄で叩くと、ほこりが割れて床に隙間が現れた。姉はその隙間にスコップを差し込み、蓋をこじ開けた。わたしと玲がそれを持ち上げて壁に立てかけた。冷たく湿った風が床下から吹き上がり、わたしは眼を細めた。暗くてなにも見えない。姉が電灯を灯した。床材と同じ杉の階段が照らし出された。姉はゆっくりと下りていった。そのあとをわたしが続き、玲もわたしの腰をつかみながら続いた。この家の床は普通の家よりもやや高めだったが、それでも床下に入り込むと、膝をついて手と脚で前進した。
 姉はひとこともしゃべらなかった。もう記憶が完全に甦ったのか、迷うことなくまっすぐ家の基礎に沿って窓側のほうへ進んだ。真ん中あたりで姉が止まった。見ると根太に打ち付けられたかすがいに数珠が架けてあった。ほこりで白く見えたが、切れてはいなかった。姉が伯母の数珠を架けておいたのだ。姉が地面を指差した。わたしと玲は、小さな移植ごてでそのあたりを掘った。姉はスコップで土をのけた。みんなもくもくと掘った。数珠の目印があるので間違えようはなかったはずだ。しかし三十センチ掘っても伯母は出てこなかった。わたしは手を止めて姉を見た。玲も姉を見た。姉は掘り続けた。十七歳の記憶が姉の頭を支配しているかのように、一心不乱に掘っていた。土は湿っていた。これ以上掘ると水が湧き出すのではないかと思えるほど湿っていて、移植ごてに土が付いて、重くなった。わたしと玲は少し休んだ。姉が掘り続けるスコップの先を見つめた。一メートル四方を五十センチは掘った。わたしは移植ごての土を手でぬぐって、ふたたび姉を手伝った。
 カチッとなにかにこてが当たった。小さな石のようなものが出てきた。手に取ると奥歯だった。そこから次々と骨が出始めた。割れた皿のような頭の骨も出てきた。骨盤も出てきた。脚の大きな骨もあった。わたしと姉が掘り出す骨を、玲が、わたしが脱いだ上着の上に並べていった。人は十年で骨になってしまうのだ。こんなに湿った土ならなおさら肉は早く融けてしまうのか。伯母の哀れな姿が、わたしの上着の上に、整然と並んでいく。はかないものだ。人は生きている時は死んだ細胞も腐りはしないが、生きるのをやめると、とたんにすべてが腐り出すのだ。死に方も色々だが、姉に皮を剥かれた伯母は、さぞかし悔いただろう。でもしかたない。人はやるべき事と、やってはならないことの区別なんか、ほとんどつかないのだから。死んでから悔やむことしかできないのだ…わたしがそうであったように。
 「ママ、それなに?」
 わたしたちはいっせいにふり向いた。りょうがそこにいたのだ。わたしは冷たいものが身体をくだり、地面へ落ちていったように思えた…でも、だれもりょうを責めたりはしなかった。為るべくしてなったようにみんな感じたのだ。玲はりょうにも骨を並べるように言った。
 「あなたの血のなかにもこの人の血が流れているの、だからみんなで葬ってあげるの…」

 上着の上は骨でいっぱいになった。髪の毛のついた頭の骨もあった。人間の顔の骨はなんと哀れなんだろう。ぽっかりあいた眼の穴と、はずれた顎の骨が、なにも伝えられなくて、なにも言えなくて暗闇に落ち込んでいる。
 姉も上着を脱いで、骨を並べた。これ以上なにも出てこないところまで掘り下げた。土の固さが変わったのだ。
 わたしたちは上着で骨を包み、床下から出た。雨の日の光でもまぶしく感じられた。
 だれもしゃべらなかった。伯母の悔悟と、姉の苦痛を、わたしと玲は理解できたから。伯母の暗黒の孤独と、姉の贖罪を、わたしたちは理解したから。


 わたしは薔薇の枝を焼くための焼却炉で、伯母の骨を焼いた。
 ローズマリーの枝とともに焼ける骨は、黒い煙を吐いて、灰色の空へ登っていった。
       
 姉は以前と雰囲気が変わっていた。長かった髪の毛をショートにして、健康的な感じを受けた。門を出て行く後ろ姿は、はっきりと目標を目指しているような歩き方だった。病院以外に外で暮らしたことのなかった姉が、この三年間、たぶん色々な人と接するうちに、心の傷の覆い方や、棘の隠し方も学び、生きる楽しささえ、知ったように見えた。
 玲が姉となにを話していたのか、玲が自ら話すまでわたしは聞かなかった。でも玲はなにも話さなかった。その方がよいと思ったのだろう。賢明な彼女の判断は、常に正しいとわたしは思っていたから。たぶんわたしの耳には入れたくない、なにかこの家にかかわることだったのかもしれない。わたしのなかの、父が目覚めないように、いままでのように、これからも、そうしなくてはならなかったのだ。

 
 りょうがおかしな行動をとるようになった。
 …また夏が、近づいたのだ。
 玲がわたしを起こした。真ん中に眠っているはずのりょうがいなかった。玲の指差す先、ドアのところにりょうは、ドアに向かって立っていた。ドアを見つめている。そして手を差しのべると、ドアが開いた。彼女は廊下をゆっくりと歩いた。そして、父の部屋の前で止まった。
 「りょう…」わたしは声をかけた。玲が指を口にあてて、なにも言わないようにわたしに伝えた。わたしの声に反応しなかったりょうは、廊下に座り込んで眠ってしまった。わたしがりょうをかかえて、ベッドに運んだ。

 わたしたちはしだいに眠りが浅くなった。りょうが夜中起き出すことが多くなったからだ。医師にも相談したが、そのうちに治るでしょう、としか言わなかった。ただ、夢遊中は声をかけないように、またショックをあたえないように、と言われた。玲は自分が小さいとき夢遊病だったと話した。初潮があってからそれは無くなったとも言った。わたしは少し安心した。子供の脳は大人が思っている以上に猛烈なスピードで発達するものだから、脳と身体のバランスがくずれてしまうのだろうか。それとも、夢を操作するなにかが脳のなかで蠢くのかもしれない。わたしがそうであったように。りょうがそうでないことをわたしは祈った。

 
 ある日、姉が尋ねて来た。わたしは窓から庭を眺めていた。梅雨の雨が庭一面を覆い、霧のなかにあるようにけぶっていた。そのなかを歩いてくるグレイコートの姉の姿は、ひとつの灌木が移動しているように見える。それはなにか棒のようなものを持っていた。スコップだ。傘で顔は見えなかったが、コートにスコップの先が貼りついて大きなあざに見えた。玄関にたどりつくと、呼び鈴を鳴らした。玲の迎える声がする。りょうも挨拶をしていた。わたしは行くべきか、躊躇していた。
 「道緒さん」玲の声がする…わたしは玲の声が好きだ。遠くで聞こえる声はわたしを夢のなかへ誘う声だったし、耳もとで囁く声は、夢を実現させる声だった。
 「道緒さん…」
 わたしは廊下に出た。姉がコートを脱いで、スコップを胸の前に斜めにしっかりと持ち、立っていた。
 「道緒ちゃん、わたしの話しを聞いてくれる?」
 「ええ…」
 わたしたちは、寝室へ入った。わたしと玲はベッドに座り、姉はスコップを椅子に立てかけて、座った。
 「道緒ちゃん、玲さん、ごめんなさい、突然で…」姉はなにか決意を持っているように見えた。
 わたしは、姉の手に自分の手を重ね、そして言った。 
 「…姉さん、ぼくたちも姉さんに見せたいものがあるんだ」
 「…」わたしは伯母の日記を本棚から取り出して、最後の部分を見せた。
 姉は、握った手をくちびるのところに置きながら、読んでいた。
 とてつもなく長い時が、すばやく落ちてきたように、みんな沈黙を守った。
 
 …静けさが流れた…姉の眼から、大粒の泪がこぼれ落ちた。姉は日記を膝のうえに置き、顔を両手で覆った。だんだんと泣き声が大きくなり、子供が泣くときのように、喉を詰まらせて、泣いた。泪は、伯母の日記の文字にいくつも落ちた。
 りょうがわたしたちを見た。玲がりょうを抱きしめた。
 「姉さん…」わたしは姉を抱きしめた。わたしの身体が姉の冷たい身体を求めた。わたしの手は姉の背中をさすり、わたしの心は、姉の胸を撫でていた。姉は小さく震えていた。わたしは姉の肩を強く抱いた。
 「姉さん、ぼくたちがいるから…」わたしも泣いた。玲も泣いた。りょうも泣いている。みんな泣くと、心がひとつになるものだ。なんでも許せる、どんな話でも聞いてあげる、だれでも愛せる…

 「…道緒ちゃん、玲さん、聞いて下さい…ここにも書いてあるけど、伯母の仕打ちは耐えがたかった…もちろん、わたしもいやな子だった、自分でも、自分をいやなやつだと思っていた… …わたしは…わたしは許せなかった、どんなに身体が悲鳴をあげても、どんなに心に傷を負っても、わたしのなかにある芯は折れなかったけれど、その原因を排除しようとする心が湧きあがってしまったの… …伯母はバイク事故で亡くなったということになっているけど、ほんとうはわたしが殺して、埋めたの…」
 姉はふたたび両手で顔を覆った。
 「…」わたしは、頭のなかが、ぐるぐるまわり始めた。どういうこと?伯母はバイク事故で死んだと、姉も医者も言っていたんだ。そうだ、思い出した。姉の計画だったんだ、あれは。そしてすべて嘘だったんだ…でも、医者がなぜ嘘を?わたしは電話で直接聞いたはずなのに… …姉の顔を見た。一瞬、くちびるの奥で笑ったように見えた…わたしは、現実を引き寄せた… …埋めた?どこに埋めたんだろう。
 「どこに?」わたしは、自分でも冷たいと思うような声で、姉に聞いた。
 「…ここ」
 「え?」
 「…この家の下に…父の部屋の床下…」…そういうことなんだ。わたしの手が白くなっていった。玲がわたしの手を握ってくれた。姉は泣き腫らした眼で父の部屋の方向を見た。
 伯母の墓は、母のそばにあった。わたしたちもときどき花を供えていた…でも、墓があっても遺骨があるとはかぎらない。墓だけ建てたっておかしくはない。伯母と二人暮らしだった姉はなんでもできたはずだ。あの医者はだれ?姉が演じていたのか?…そうだ、きっとそうだ。でもそんなことはいい、それよりも、これからどうするかだ…姉はスコップで伯母を掘り上げようというのか…
 「姉さん、ぼくたちはどうしたらいい?…いっしょに手伝う?」
 「ええ、道緒ちゃん、玲さん、お願いします… …伯母をちゃんと葬ってあげないと、わたしも死ねないことがわかったの…」
 姉はすべてを話した。この家を出てから何度も自殺を試みたが、すべて失敗したことを。そのつど死の間際に伯母がやってきて、死の邪魔をしたことも。夢にも伯母が出てきて、いつも煮え湯地獄から手を伸ばして、助けを求めたことも。姉は伯母を後ろからバットで殴り、熱湯の風呂に浸けて皮膚を剥がし、脂肪を融かし、ばらばらにして父の部屋の床下に埋めたんだ… …わたしの眼の前に、熱湯のなかから手を伸ばす伯母の顔が、皮のない伯母の顔が、浮かんできた… 
    
 ある日、りょうがしゃがんで泣いていた。父の部屋の前で。
 「しらない女の人がいた…」泣きじゃくりながら、わたしの胸でそう言って、ドアを指差した。そうだった、鍵をわたしはかけ忘れていた。りょうはドアを開けて、なかをのぞいたのだ。そして亡霊を見てしまった…
 「大丈夫だよ…あの人たちはみんな親戚だからね」
 りょうはわたしを不思議そうに見て、「ひとりだったよ」と言った。そうか、女の人とりょうは言ったな。母か伯母の霊が彷徨っているのかもしれない。ふたりともこの世に未練を残して逝ってしまったのだから。母は、わたしたち姉弟を十分に育てることができなかった、いつまでもいっしょに暮らすことができなかった悔しさがあったであろうから。
 「あっちに行こうか?…」
 「ううん…女の人がここにいなさいと言った」
 会話をしたのか、幽霊と。子供の超自然能力はすばらしいな。わたしはそう思った。
 「じゃ、もう少しここにいようね」
 わたしはりょうを膝にのせて、電話台の横にある布張りの赤い椅子に腰かけた。この子はほんとうに澄んだ眼をしていた。わたしと鼻の先を触れあって、笑っているこの子の眼は、透明な墨のように黒い宝石を思わせた。母の玲に似ていたが、玲の瞳はややグレイがかっていたから、そっくりな母と子の唯一の違いは、その眼の色だった。
 …それからなにも起こらなかった。物音ひとつしなかった。わたしはやがて眠ってしまったようだ。子供を抱っこしていると、その匂いとあたたかさで、つい眠くなるものなのだ。

 だれかが肩に手を置いた。わたしが見あげると、姉が立っていた。
 「姉さん…」姉は蒼白い顔をして、ほほえんでいた。
 「姉さん…」もういちど呼びかけたが返事をしないで、父の部屋の扉を抜けて、向こうに行ってしまった。
 「姉さん!」わたしはけんめいに手を伸ばしたけれど、わたしの手はどこにも見えなかった。でもそれもすぐになぜだかわかった。わたしは廊下の椅子に縛られて、身動きできないでいたからだ。
 ふたたび、扉の向こうからだれかがやってきた。ああだめだ、こいつはだめだ、父が母を引きずって現れた。母を助けようとするけれど、わたしの身体は椅子から離れることはなかった。父の口が大きく開いて、ギョッとする笑顔をわたしに近づけた…くるな!くるな!それ以上近寄るな!わたしは必死に逃げようとした。もがけばもがくほど、ベルトはきつく締まっていく…ああ!わたしの口が父の手によって大きく上下に引き裂かれた… …わたしの肩をだれかが揺すった…

 わたしは眠っていたのだ。りょうを抱いた玲がわたしの前に立っていた。
 「道緒さん、大丈夫?…りょうといっしょに眠ってしまったのね…少しうなされてらしたようですけど…」
 夢だったのか、いやな夢だ。りょうの重みが胸を圧迫して、こんな変な夢を見たんだ、きっと。
 「少し、外を散歩しましょうか」
 「うん…そうしようか」
 三人で庭へ出た。かぐわしい薔薇の葉の匂いがした。桜の木や、ライラックや、ほおのきの葉が風にそよいで、ひるがえり、エメラルドに輝いていた…三人で手をつなぐのも、これが最後かな…わたしは思わずこのことばが心に浮かんだ。ほんとうは、三人で手をつなぐのも久しいな、と心で思ったのに…最後だなんて、いやな予感がした。
 心で思わされることも、そうさせられるのだから、真実のときもある。わたしは用心した。心が、精神がふたたび掻き乱されないように。できるだけ、外に出た。りょうをつれて、庭をくまなく歩き、ふたりで身を隠すことのできる場所をさがしておいた。玲と三人でかくれんぼをするために。

 ある日、薔薇の花の香りの充満している庭で、わたしとりょうは、ある場所に隠れた。ここならぜったいに玲に見つかることはないとふたりで相談しておいたのだ。玲は、隠れ家を見つけるのがとても上手だったから。わたしたちは息をひそめて、玲の近づくのを待った。しかし、いくら待っても玲は現れなかった。わたしたちは待ちきれずに、そこからちょっとずつ移動した。家が見えてきた…わたしは自分の眼を疑った。父の部屋の窓に玲と、そして、あれは姉に違いなかった、ふたりが向かいあって話しているのが見えた。
 「あ、ママ…あの女の人」りょうが指差した。
 ああ、幽霊の正体は、姉だったのか、それも本物の、姉。
 わたしたちはその窓の下まで足早に行った。ふたりが窓を開けて、こちらを見た…姉だ、間違いなく姉だった。
 「姉さん!」そうわたしが言うと、りょうは、わたしと姉を交互に見た。あまりにも似ているからだろう。
 「姉さん、どこにいたの?ずっと玲がさがしていたんだよ」
 「ああ、道緒ちゃん、ごめんなさいね…こんにちは、りょうちゃん、大きくなったわね、可愛い子…わたし、この近くに家を借りることにしたの、それでご挨拶にと思って…」
 「どうして?ぼくたちといっしょに住もうよ、ねえ、玲、それでいいでしょ」
 「もちろんわたくしも、そうおすすめしていたところよ」玲は姉の肩に手をおいて言った。
 「ねえお姉さま…わたくしたちといっしょに、ぜひ」
 「ありがとう…もう決めてきたの、ふたりにそう言ってもらっただけでもうれしいわ、わたし…また参ります」そう言って姉はドアの方へ向かった。窓のところにいる玲とわたしとりょうは、なんだか取り残されたように思えた。

 なぜ姉は戻ってきたのだろう、自ら。玲があれだけさがしても見つからなかったのに、あるいは、もうこの世にはいないのではないかと、玲に話したぐらい悲観していたのに、あっさりと、この町に帰ってくるなんて…なにか考えがあって、目的でもあるのだろうか。
 
            
       『真実』
 わたしはふたたび絵を描きはじめた。集中力に欠けているので、限られた題材のなかから、少しずつ仕上げていった。玲も描いた。ふたり机を並べて描いた。玲は薔薇を、わたしは動きのないモデルを描いた。
 女の子は作り物のようだった。玲に似ていた。「綾」と名づけた。母の好きな名前、「りょう」と。
 玲はわたしに尽くした。りょうにも尽くした。幸せな家族が創られていった。

 庭の山桜の花が強風にあおられて、無数の花びらを薔薇園に散らしていたある日、りょうがわたしのところへ駆けてきた。薄闇が迫っている夕暮れの光が、ぼんやりと庭の輪郭を窓のなかに嵌め込んでいた。窓のガラスにはいくつもの桜の花弁が貼りついては、またふたたびどこかへ飛ばされていった。
 わたしはりょうを抱き上げて、聞いた。
 「どうしたの?ん?」
 「あのね、あのね、あのお部屋にだれかいるの」
 りょうは、息を切らしていた。可愛い小さな手で、となりの部屋を指差した。
 アトリエのとなりは父の部屋だった。今はもう、ベッドも片付け、なにもない開かずの部屋になっていた。わたしと玲とりょうは、母の部屋に移り、三人で寝ていた。ひとつのベッドに三人身を寄せあって眠ることのうれしさ、わたしは子供の頃を思い出した…姉と、腕や脚をからませて眠ることの気持ちよさを、この子にも伝えたいと思い、三人でくっつきあって寝ていた。だから、この子は人のあたたかさを十分に知って育った…
 そのいつも明るい子が、悲しい顔をして、わたしの顔と、となりの部屋を交互に見て、わたしに真実を求めていた。
 
 玲は出かけていた。
 わたしはりょうの手を引いて、となりの部屋の前まで行った。りょうは鍵穴からなかをのぞいたのだろう。ときどき遊びながらそうしているのを、見かけていた。わたしも、その穴をのぞいて見た…だれもいない、なんの気配もしない。
 「だれもいないよ、りょう」
 「…でも」子供は嘘をつかない。生まれつき嘘をつかない生きものなのだ。だから信じてやるのが一番だった。
 「じゃお父さんがあとでよく調べておくからね、わかった?」
 「うん…」完全には納得していなかったが、一応自分の主張が少し認められたので、安心した顔になって、わたしの首に抱きついて、そのさらさらの髪の毛をわたしの耳にこすりつけた。

 「ただいま」
 お母さんだ!りょうは飛び下りるようにしてわたしの身体から離れ、母のもとへ駆けていった。
 母の太腿にしがみついて、にこにこした顔がふたたびよみがえった。
 「道緒さん、どうされたの?」玲はわたしを見て言った。わたしがぼんやり廊下に立っていたからだろう。
 「おかえり…逢えた?」
 「いえ、もう引っ越したあとでしたの」
 「そうか…はやく見つけて、いっしょに暮らさなきゃ…」
 玲は姉を捜してくれていた。見つからなくても、でも、生きていることがわかるだけでも、わたしたちはほっとした。この数年間、うわさがあればどこへでも、玲は出かけて行った。
 「さあ、お食事にしましょうか!」玲は疲れているはずなのに、そのそぶりを見せずに、そう言って、りょうを抱え上げた。
 ふたりはよく似ていた。ほんとうの親子だから当然と言えば当然だけれど、親子でも、双子のように似ていると、少し気持ち悪いものだ。まして、まだ三歳ほどの子供とその母が似ているのは、異様だった。
 
 ふたりが向こうに行くと、わたしは父の部屋の鍵を開けた。
 あれから三年になるのか。なんという臭いだ。カビと、なにか動物が腐っている臭いがした。わたしは窓の方へ行こうと足を前へ出したとき、なにかを踏んだ。ぐじゅっと音がして、強烈な臭いがした。ねずみの死骸だろうか。
 カーテンを開けると、床のところどころに黒いものがあった。わたしは天井を見た。窓からの光にぼんやりとして、すすけたシャンデリアの影が流れる、その左の方へ、あの黒い染みが見えた。しかし、黒い染みは増殖して、ほとんど川のようになって、うねりながら澱んでいた。たぶん、わたしのアトリエだった屋根裏に住み込んでいる、蝙蝠たちの尿が、染み出しているのだ。
 もちろんだれもいるはずはなかった。でもわたしは、はじめから直感していた。りょうがそう言ったときに、わかった。この部屋には、いや、この家には、だれかが彷徨っていることを。誰かのたましいが…。わたしも玲もその彷徨う姿を見ることはなかったが、子供の眼には見えたのだ。父か、母か、伯母か、あの双子たちか…みんな無念のうちに死んでいったものたちばかりだった。彷徨って当然だった。
 もちろんお墓はそれぞれにあったが、母のお墓は灰川家とは離れた別の墓所にあり、母のそばには伯母と双子も埋葬していた。つまり、父と母は同じお墓には入れなかったのだ。父が死んだときに、伯母がそれを当然と考えたからだ。
 
 あるとき、伯母の日記が、母の大切にしていた小箱のなかから出てきた。母の部屋の本棚にそれは隠されていて、玲がある日見つけたのだ。箱の底にくっつけてあった小さな鍵で開けると、なかには、レースの切れ端や、アンティークな鍵や、きらきらする小石があった。それらの下に、青いペーズリー模様のノートが敷いてあって、母の日記かと思い、読んでいくうちに、それが伯母のものであることがわかったのだ。
 りょうが眠ったあとに、わたしは玲とそれを読んだ。読み進むうちに、わたしは吐いてしまった。うす黄色い胃液が、玲の手のひらに水溜りを作った。姉がしたように、玲もまた、わたしの吐物を受けとめてくれたのだった。
 伯母は父の姉と言っていたが、わたしと姉のように、双子だったのだ。日記は十五歳から始まり、その文章には、冷たい水のような、氷のような棘が感じられた。「母」の文字を無数に書いて、それをバツ印でいくども消し、ペンの先で突き刺してあった。ただ、父親のことはどこにも書かれていなかった。すでにこの世にはいなかったのだろうか。
 …弟のことが書いてあった。でも、わたしは、もう読めなかった。玲はひとりで読み続けた。わたしは頭が回転して、悪寒がして、ベッドに横になった。りょうの寝顔が、わたしを平安にもどしてくれた。

 ふと、わたしが眼を開けると、玲の眼がすぐそばにあって、わたしを見つめていた。その透明な眼が、わたしをノスタルジーに落とした。母に逢いたかった。姉にも逢いたかった…玲がわたしの両頬を手で包んで、額を寄せた。
 泪がいくつも落ちて、玲の手のひらに溜まっていった。
 …生きていて、いいのだろうか…わたしは、ほんとうに、この世に、生きていて…
 「道緒さん…」玲がわたしの身体を抱きしめてくれた。やさしい人だ、玲は、わたしの愛した人は、ほんとうにやさしい人だ。あの薔薇園で出逢った、この人は、わたしが想い続けたこの人は、わたしの天使となるだろうと、思った。
        
 初雪が降った。双子が死んだ。肺炎だった。風邪を悪化させて、あっけなく逝ってしまった。姉は泣かなかった。まったく泪を見せなかった。以前より予感していたかのように、眼は平静な色で満たされていた。
 わたしはそっと姉を抱きしめた。
 「姉さん…」
 姉はわたしの胸に顔をうずめた。それでも泣かずに、そっと息をしていた。

 わたしは、玲にすべてを話した。妻である姉のことも、母のことも、父のことも、ふたりの生い立ちも…玲はうなずきながら聞いていたけれど、わたしの頭と、姉の頭の両方を、その胸に抱えて抱きしめてくれた。 
 「お願いします…」姉が玲に、あとを託すかのように、小さく言った。
 ぼくは泪が溢れた。素直な姉に、そしてやさしい玲に、感謝した。

 「葬儀」というものは、人々を感傷の湖に突き落とすものだ。
 わたしたちだってそうだった。ちっちゃなふたつの棺が、それを増幅させていた。こんなときは、だれでも、どんなものにでも素直に感謝できるものだ。自分の過去を悔い、人の過去を慰め、生きているわたしたちこそが不幸の主役になった。
 玲は、とてもおだやかだった。静けさをたたえていた。姉のためにそうするように努力していたのかもしれない。わたしたちの頭を撫でながら、彼女も泣いてくれた。わたしの鼻の上や、姉の睫毛の上に、彼女の泪が落ちた。その雫で、姉が泣いているようにさえ見えた。わたしと、姉と、玲は、顔を寄せて、いくども三つのくちびるをあわせて、お互いの哀しみを吸いあった…


 姉は家を出た。そっと行ってしまった。玲にも、わたしにもなにも言わずに。数日して「マルテ」のあいだに手紙の挟んであるのを、玲が見つけて、わたしのところへ持ってきてくれた。わたしは封を切り、ふたりでそれを読んだ。

   道緒様 玲様
 ほんとうにごめんなさい。黙って行ってしまうことをお許し下さい。
 私の役目はもう終えたように思います。道緒さんと、玲さんとで、
 どうか灰川の家をつないでいって下さい。母のお墓を見てくれる人の
 いなくなることが、私にはとても悲しいのです。どうか御二人で仲良くして、
 あの子を育ててあげて下さい。どうかどうかお願いします。
                       かしこ   麗紗

 姉の気持ちはわかった。よくわかった。母のために、すべてを母のために、この血をつないでいく必要があった。可哀相な母のために、わたしたちは血縁を大切にしなくてはいけなかった。そうだ、あのやさしい、だれよりもやさしい、大きなあたたかい森のような、わたしたちを包み込んでくれた母のために、わたしと玲は、命をつないでいかなければならないのだ。


 
             
 秋になって、良い事が起きた。玲が妊娠したのだ。だれの子をだって?もちろんわたしの子だよ!姉が玲に懇願したんだ。わたしの子を孕むように。そうすれば、わたしの病気もよくなると考えたんだ。
 夏の終わり頃から、玲は毎晩わたしの上に乗った。拘束されているわたしの身体の上で、上手に腰を前後させた。わたしはなにも感じなかった。玲はなにかを感ずるのか、ときどきわたしの胸の上にくずおれた。感じないわたしが射精するはずもなく、幾時間も、幾日も、それを続けた。たまに「道緒」にもどると、玲にわたしの首を絞めるよう要求し、痙攣しているあいだに、わたしは玲の身体のなかに射精した。日課になると、不思議に、そのことを中断することが罪悪のように思えてくるものだ。彼女はわたしの部屋に通いつめた。
 そして、妊娠した。姉も、双子も、玲も…「道緒」も喜んだ。家族が増えることはいいことだ。この家系を守るためにも。いやいや、この悪に満ちた家系を断ち切るためにも。なぜなら、その子が成長して、この悪辣な系統を寸断してくれるかもしれないじゃない?そこにすべてをわたしたちは賭けた。その子を大切に育てよう。「道緒」もそう思った。こんどこそ失敗は許されない。男の子を産むんだ、玲よ!男の子こそ、この血筋を断ち切るのに必要な力なんだ。そして、近親児ではない、その子こそが、この灰川家の不浄の道を清らかな道へ導いてくれる天使なのだから…

 見事にその期待は裏切られた。玲が産んだのは女の子だった。それも双子ではない、ただひとりの女の子を。もちろん残念がったのはわたしひとりかも知れない。みんなはその可愛い赤ん坊を取り囲んでのぞき込み、ちっちゃな手や足や、髪の毛をさわろうとした。
 しかし、女の子ではだめなんだ。だって、父の従妹だという母も失敗し、父の姉である伯母も失敗して、姉の計画も結局は失敗に終ったのだ。あの双子ちゃん?あの子達は、わたしの儀式がなくなって以来、はつらつとして薔薇園を飛びまわっていた。
 母も子供は作りたくなかったのだ。従妹どおしでもしも不具な子が産まれたらと心配したから。でも父はそんな人間ではなかった。おかまいなしに、母を便器のようにあつかって、母に殺された。母は心が折れて、直後に首を吊ってしまった。伯母は母の悩みを聞いてやっていたし、母が吊るされているのをまのあたりにしたこともあって、母をそそのかして弟を殺る手助けをしたが、自分の母親に受けた虐待の仕返しをわたしの姉にして、姉から抹消されてしまったし、姉にしても、弟のわたしとひっそりと暮らして、ふたりとも消えるようにこの世からいなくなれば、灰川の血を世の中にばらまかなくてすむと思っていたはずだ。でも、わたしの子を身ごもると、母性が目覚め、血筋に対する奥底の執念が燃え上がったに違いない。しかし、双子は近親児で、いつ弱ってしまうかも心配だったし、もしも生きながらえたとしても、外に出すつもりは毛頭なかった。そこで玲の存在が姉にはピンと来たのだろう。可愛い人だし、「道緒」とうまくやってくれるかもしれない、そして、近親児ではない子をもうけて、灰川家を、どこにでもある普通の家系にもどしてくれるかもしれない、そう思ったのだ。ただ、玲があまりにも可愛く美しいし、ほんとうに自分のものとして置きたくなるような女性だったので、思わず心を玲の心に嵌め込んでしまったのだ。そしてそのことが、わたしの分裂を惹き起こすなんて、思いもよらなかっただろう。
 でも今は、この女の子に期待するしかなかった。手足をばたつかせて、笑っているこの子に。

 たしかにこの子が生まれてからわたしのなかの「道緒」の占める割合が徐々に増えてきたことはいい傾向だった。わたしが拘束される日も少なくなり、庭を玲に連れられて、散歩できるまでに回復した。双子が薔薇園でわたしの脚を鬼ごっこの道具あつかいにしても、わたしはほほえんでいられた。この季節は人々を沈静化する作用でもあるのか?わたしの脳の熱は下がり、それとともに、わたしの突発性ブドウ膜炎だった眼もしだいによくなり、「父」に呪われる回数も減っていった。
              
 玲がこの家に暮らすようになって、数年が過ぎた。よほど居心地がよいのか、姉との相性がいいのか、自分の家に帰る気配はなかった。姉も子供を産んでからは、精神を病むことはなくなった。
 それに反して、わたしはしだいに分裂がひどくなっていった。だれかに手をつないでいてもらわないと、即壊れた。壊れる直前はいつも上機嫌になった。それがはじまると、姉と玲とふたりして、わたしをベッドに拘束した。今だから言えるのだが、拘束はわたしをさらに別の人格へ移動しやすくした。抵抗する肉体が精神を沈めることができなくなるからだ。わたしの話し方は、父のようだった。わたしにもわかった。父が母を呼ぶように、姉を呼んだ。
 「れいさ…れいさ!」とてもやさしい声だった。
 ふたりは、ずっとわたしの横に立っていた。そして、わたしがAからBへ移動していくのをじっと見つめた。
 「なに、道緒さん?」姉が…いや、玲が答えた。
 「だれだ?道緒って!」わたしは侮蔑をこめて言った。
 「…」
 「ああ、あいつか、意気地なしの!…
  泣き虫、道緒!…
  あいつがどうしたって?…」
 「元気にしているわよ…」
 「元気?だれが…
  あいつはおれが殺してやったよ…
  とんでもないやつで、かわいそうだとちっとも思わなかったさ…
  だっておれのあそこを口を入れたまま泣きやがったよ…
  れいさ、おまえは感心に泣かなかったな!
  おれが見込んだだけはある、母さんを呼んでくれ!」
 ふたりは顔を見あわせて、どちらが母役になるか、目くばせした。
 「なに、お父さん…」玲が答えた。
 「ああ、そこへぶらさがってみてくれないか」
 「…」ふたりは天井の金具を見つめた。かつては本が並んでいた壁際の天井にそれはあった。蜘蛛が巣を作っていて、その糸がシャンデリアの光に照らされて、ふわふわと揺れていた。
 「どうした、はやく服を脱げ」わたしの暗闇の視線は、ふたりには向かわずに空中を彷徨っていた。ふたりはしめしあわせたように、ベッドの下から人の形をした布袋を取り出して、ロープをその腕にくくりつけ、はしごを登り、金具にロープを通して人形を吊るした。
 「吊るしたわ、あなた…見える?」玲が言った。
 「今日はだれを吊るした?」わたしはそれを確かめたかった。
 「あの看護婦よ、あなたの股間をブラシでぶった!」
 「ああ、いいね、そいつはいい…
  いい考えだ…
  今日はもうひとり吊るそう」
 「だれを?」
 「おまえだ、れいさ、おまえだよ!」
 「わたくし?わたくしはれいですの」
 「れい?れいはわたしの妻だ!
  おまえはだれだ」
 「わたくしも奥様と同じ名の、れいですの」
 「ふん、ふざけやがって…
  おれをだまそうたって、そうはさせんぞ!」
 「じゃ、わたしが吊るされてもいいわ」
 「おまえが?おまえはだれだ?わたしの妻か?」
 「ええ、そうよ、あなたの妻よ、妻のれいよ!」
 わたしを拘束していたベルトが切れた。わたしが思いきり力を入れたからだ。少し腕が切れて、血がすじになって滲んだ。上半身が自由になったわたしは、そこにいる姉か、玲か、どちらかにつかみかかった。もうひとりがわたしの身体を押さえつけようとした。あっさりとわたしはベッドにふたたび縛りつけられた。切れたベルトはわたしの胸の上でくくられていた。まるで荷物のようにだ。前よりもきつく縛ってあった。心臓の鼓動がベルトに伝わった。
 天井ではさっきの人形が、蜘蛛の巣を被って、揺れていた。

 わたしには、それらが見えた。この部屋で起きているすべてのことが。とても冷静な自分がそこにいて、天井の隅から見下ろしているかのように鮮明に、この光景が見えた。
 なんという醜態だ。こんなやつはお話にならない、さっさと埋めてしまえばいいんだ。我が儘で、傲慢で、偏執狂の、そしておしゃべりときてる。父親の風上にも置けないやつだ。殺せ!殺せ!殺ってしまえ!父を殺せ!…

 みるみる血の海がひろがった。絨毯の色模様が消えていき、赤一色の模様になった。血の吹き出しようが見事なので、みんながそれを眺めていた。美しい噴水ショーでも見るように。姉もいた、玲もいた、あの可愛い双子ちゃんたちもいた、その後ろには、わたしの母もいた、母の肩に手を置いてほほえんでいる伯母もいた。みんないた。ただひとりいないのは、噴水ショーの主役の父だけだった…
      
 ものごとを断ち切ることは意味をなさない。少なくとも、悪辣さにおいてはそれが言える。いくら断ち切ろうとしても、滝の水を切るように、どんな意味もなさないのだ。悪は、巣から這い出る蟻に似て、次から次と湧き出て、世代に受け継がれ、それを断ち切ろうとするものを次々と殺してしまう。
 この家系がそうだった。そういう家系にわたしは生まれた。悪辣極まりない父の首に、母が包丁を突き立て、母は自らの身体を天井から吊るして命を絶ち、父の死を願った伯母さえも、姉への虐待がたたって、姉に背中を押されてバイクに跳ね飛ばされ、雨のなかを飛んでいったのだ。そして、わたしも父と同じ道をたどろうとしている。心のなかで悪が良心を凌駕し、善を支配して、服従させた。
 わたしの正しい考えなんて、脳の隅の方に干からびてあるだけで、わたしさえもその存在を忘れようとしていた。良心は、確かに幼児期の産物だが、大人になってからでも、洗脳によって植えつけることは可能だった。しかし、それ以上の遺伝の力によって支配された悪辣な精神は、ことあるごとにわたしのなかに顔を出し、わたしもその顔を覚え、慣れていき、しまいにはその顔に会いたいと思い、最後には中毒症状をともなって、思慕の念に変わってしまった。これを断ち切るには、やはり神の手が必要だった。わたしに神の手が下された。

 失明したのだ。
 ある朝、なにも見えなくなった。いつまでも夜が明けないので、となりの部屋に寝ている玲を起こした。リンを鳴らして彼女を呼んだ。
 彼女の入ってくる音がした。絹の擦れはいい音がした。
 「玲さん、明かりをつけてください」
 「…道緒さん、もう十分明るくなっていますけど…」
 ははあ、だれかがわたしの眼を塞いでいるのか?わたしの顔の上に死人のように布切れを被せているのか?…わたしはしだいにあせりだした。
 「玲さん…玲さん…」手を伸ばして彼女の手を握った。
 彼女はたぶんわたしの眼球の前に、もう一方の手を往復させて、確かめている。少しだけ暗闇の濃淡が、左右に移動していた。わたしは失明したことを悟った。
 「道緒さん…わたくしが見える?」玲はそう言って、わたしに顔を近づけた。彼女の息が感じられた…ああ、母の匂いだ…「お母さん…」わたしは母を抱きしめた。このあたたかさは、子供の頃体験した愛情のすべてだった。
 「お母さん…」わたしは頬を擦りあわせた…

 
 暗闇の世界では、意外にもいろんなものが見えることに、わたしは気づいた。脳が今まで見てきたものを、順にめくるのだ。何千枚何万枚もの記録映像を、順番どおり…わたしが頭のなかで整理しておいた順番どおりに、わたしの眼の上のほうのスクリーンに送った。そしてそれは、外部からの音や声に反応して、色彩を視覚効果へと変えた。わたしは失明したことを一時は嘆いて悲観したが、この色彩の爆発する動きに魅了された。

 あの日から、子供たちはわたしの部屋に寄りつかなくなったが、なにをしているのか、つぶさにわたしにはわかった。心の眼が姉と双子の行動を監視していた。姉と玲が出かけるたびに、わたしは家中をくまなくさがして、双子を見つけた。わたしの暗い目玉に睨まれると、ふたりは動けなくなった。わたしは双子の髪の毛をつかみ、泣き叫ぶ声を心地よく聞きながら、ときどき壁に激突して、進行方向を邪魔されるけど、そんなこともお構いなしに、双子をわたしの部屋まで連れていった。
 わたしのベッドには、その子たちのためにチョコレートが山ほど積んであった。わたしはチョコレート中毒だと言って、玲に積んでおかせたのだ。
 子供たちはお菓子を見ると、おとなしくなるものだった。お菓子は子供にとって薬物のようなもので、それを口にしないと生きてはいけないものなんだ。ふたりはくちゃくちゃとチョコを食べ、口のまわりをチョコだらけにしながら、ふたりしてときどき顔を見あわせながら、逃げ出すタイミングを狙っていた。わたしにはそれがわかった。眼を見あわすたびに、くちゃくちゃといわせる音が止まったからだ。次の瞬間、ふたりはベッドから飛びおりて、ドアの方へ走った。わたしは耳でそれを追った。ドアは開くはずもなかった。しっかりと鍵がかかっていた。双子はその鍵の位置には手がとどかないのだ。
 この部屋から逃げられないことがわかったふたりは、ドアを背にして、わたしを見つめた。やさしくほほえんでいるわたしを。
 「キャー!」ふたりが同時に叫んだ。子供の叫び声ってなんて素敵なんだ。下半身の真ん中がうずくような音なんだ。昔姉と見た「ブリキの太鼓」を思い出すんだ。ああ、素敵!もっと叫べ!わたしが一歩一歩ふたりに近づくたびに、その叫び声は高く美しくなった…

 ドアが開いた。姉と玲が帰ってきた。
 「どうしたの?ふたりとも」双子は母の腰にしがみついた。
 その母は、ほほえんでいるわたしを見て、
 「まあ、なにか楽しいお遊びでもしていたの?」と言って、双子を抱きしめた。チョコが姉の洋服にべっとりとついた。
 「たくさんお菓子を食べたのね、まあまあ、こんなになって…」
 そう言いながら自分のスカートでふたりの口をぬぐってやった。
 「さあ、あっちへいって、お買い物を見ましょうか」
 姉は双子を連れて、自分の部屋へいった。
 玲は、残っているようだった。

 「道緒ちゃん、いけないわ…」そっとしゃべるその声は、姉だった。玲といつのまにか入れかわっていた。
 姉はわたしがなにをしようとしていたのか、直感したのだ。姉こそ儀式の犠牲者だったから、これからなにが起ころうとしていたかを、この部屋の空気で読めたのだ。
 「ねえ、道緒ちゃん、わたしを抱いて…わたしを抱いてあの子たちは許してやって…」姉の懇願する顔が浮かんだ。いや、その顔は母のものだった。母が父に懇願するような眼をして、吊るされていく、そのときの顔だった。
 わたしはこう言った。
 「玲を連れて来い!」
 「だめ!玲ちゃんはだめよ!」…玲ちゃん?いつから玲ちゃんになったんだ?こいつらめ、いつもしめしあわせて、わたしを騙していたくせに。あの部屋で、わたしのアトリエでよろしくやっていたじゃないか。ときどき聞こえる押し殺した声を、わたしが聞き逃すはずがないじゃないか。ふたりはぐるだった。ふたりして、なにかをたくらんで、わたしをこんな身体にさせたんだきっと。そうだ、眼が見えなくなったのも、食事になにかの毒を混ぜて、わたしを陥れたに違いなかった。
 「いいわ、わたしを吊るせばいいのよ…ほら、やりなさいよ…ほら!」
 姉はわたしの腕をつかんで、自分の腕をつかませた。
 眼が見えないあなたになにができるの…そう姉は心で言った。
 あなたを信じてあげるから、わたしを見て、道緒ちゃん…そう姉は、言った。 
 姉のやわらかい腕が、細かく震えていた…
 突然わたしの、滝のように流れる悪の糸が、切れた。わたしはいたたまれない気持ちになった。さっきわたしのなかにいたやつはだれ?わたしはそいつを嫌悪した…父に似ているそいつを…

 …わたしは姉の胸で泣いた…姉さん、ごめんよ…ごめんよ、姉さん、ゆるして、ぼくをゆるしてください…わたしたちは、抱きあった。久しく姉をこうして抱きしめたことはなかった。玲よりも、あたたかかった。母と同じぐらいあたたかかった。
 扉のところで、人の気配がした。たぶん玲がこちらをじっと見ていたんだ。
 わたしは姉をさらに強く抱きしめた。玲の視線をより強く感じたからだ。玲がなにを感じ、なにを思っているかは、わたしにはわからない。
 わたしはただ、姉の胸のなかで、母の胸にいだかれるように、眠った。
            
       『連鎖』
 わたしがふたたび立てるようになると、玲とともに、薔薇園を歩いた。彼女はすでにわが家の住人になっていた。こんな素敵な薔薇園は、そうめったにお目にかかれないし、モデルもふんだんにあるし、姉はやさしいし、その姉にも愛されて、双子からも好かれて、わたしにも…愛されていると思い込んでいるんだ、きっと。
 わたしのなかで、玲に対する感情が少しずつ変化しはじめた。彼女の宝石の眼も、今では濁っているように見える。こうしてふたりして薔薇園を歩いていても、なんの輝きも生まれなかった。ただ薔薇の歴史について、少し会話するだけで、彼女の口からも、わたしの口からも、光りかがやく星は生まれなかった。

 双子はわたしの予想に反して、ふたりとも女の子として成長した。名前はわたしたちの母の名から、ひとりは「れい」と名づけ、もうひとりは姉の名から「れいざ」と名づけられた。母の名は字こそ違っているけれど、彼女と同じ「れい」だったとは、わたしたちはまったく知らなかった。母は「れい」という名を使わずに「りょう」といつも自分を呼んでいた。父も「りょうちゃん」とか「おりょう」とふざけて呼んでいたので、今まで母の実名を知らなかったのだ。子供たちの名を決める段になって、色々と調べるうちに、母のほんとうの名を知った。その名が、玲と同じ呼び名の「礼」だったとは、母が玲をこの家に呼び寄せたのかもしれない。

 「れい」と「れいざ」は、わたしにはなぜかなつかなかった。おざなりに一応わたしの膝の上に座るけれど、すぐに母のもとに行って、顔を腕にすりよせた。わたしは別に子供に好かれようが嫌われようがどうでもよかった。この子たちが順調に大きくなるのを阻止することだけを計画した。

 ある日、ふたりをわたしの部屋に、つまり父の部屋に呼んだ。姉と玲は出かけていた。わたしに双子の世話をまかせて、どこかの葡萄園のワインがおいしいそうよ、とふたりして出かけていった。
 そのチャンスをわたしがのがすはずはなかった。ふたりの子をチョコレートで呼び寄せた。ふたりはわたしのベッドに座って、仲良く並んで、チョコレートをほおばった。口のまわりはチョコレートだらけになった。とても可愛いとは言えなかった。子供がチョコを口にすると、悪魔のようになるんだ。こういうやつらを懲らしめないで、どうする、え?そうだろ?お父さん…ふふ…
 わたしは、向かいの姉のベッドに腰かけて、双子の一方を手招きした。いまだに「れい」と「れいざ」の区別がつかなかった。口のまわりにはべっとりとチョコがつき、わたしを見上げてほほえんでいる。もうひとかけら、もらえるとでも思っているのだろう。かわりにわたしのペニスをその口に押し込んでやった。最初はなにが起きたのか理解できなかった様子だったが、ことの次第がわかると、白目をむいて、唸りだした。いい感じだ。そうだ、もっと唸れ!そして喜べ。わたしのペニスがくわえられることは光栄なことなんだよ。喉の奥に達すると、その子は窒息した。もうすこしだ、我慢しろ。ああ、いった。わたしはいったんだ。双子の一方の口のなかで、いった。ペニスを抜くと、ぎょっとするほどにチョコレートがくっついて、変な生きものに見えた。その子は咳き込んで息を取りもどした。そしてチョコ混じりの精液を吐き出した。
 ほら、言ったでしょ。チョコレートを食べ過ぎると、もどすんだと!
 もうひとりの子は、唖然として片手に食べ残したチョコを握って、この一部始終を見ていた。泣きもせずに。チョコは手のなかで融けて、その小さな指の隙間から漏れ出ていた。その子は手のひらを開いて、べっとりとくっついたチョコを洋服でぬぐった。
 儀式が終ると、わたしはふたりを強く抱きしめた。ふたりはわたしに抱かれたまま、じっとしていた。そのうち、チョコの味とペニスの味と、精液の匂いがいいものに感じられてくるはずだ。わたしが、そして姉がそうであったように。いかなる正常化も、この家では報われないことを、この家に住むもの自身が知らねばならないのだ。そうして儀式は継続するんだ。ずっと継続してきたんだ。わたしの父の、そのまた父も、さらにその父の、父も…
               
 双子はやはり、男の子と女の子の双生児だった、たぶん。というのは、まだ割れ目から、陰茎の生える様子はなかったので確かではないが、あきらかに男の子のほうは下腹部がもりあがっていた。そこをおさえると、睾丸らしきものがあった。ころころと、割れ目の左右で動いていたんだ。わたしは一週目で陰茎が生えてきたが、たぶんこの子も、三週目ぐらいまでには生えてくる予測をしていた。わたしがそう思っているだけだと、ふたりは言うけれど、わたしたちがありえなかったように、ありえないことは連鎖して起こるのだ。
 ほんとうに赤ん坊が母の乳房にしがみついている姿は美しい。可愛い親指が乳房の下のほうにくぼみを作って、めり込んでいた。左右の乳房に吸いついて、ふたりとも、親指をそうして、母に苦痛の快楽をあたえていた。わたしたちは、わたしと玲は、それをじっと見つめるのが好きだった。
 赤ちゃんは、けんめいに乳を飲んでは、すぐに眠くなるのか、乳首をくわえたまま重い頭がのけぞっていくけれど、また思い出したようにけんめいに吸いはじめるのだ。眠りそうな赤子と、伸びた乳首の関係が、わたしたちをうっとりとさせた。なんて赤ん坊というものは、こんなにも可愛いのだろう。なにも書き込まれていない紙のように、なにもわたしたちに疑いを持たせないし、どんな色も染めていない白い布のように、わたしたちを安心させるんだ。長い睫毛は母に似て、まっすぐ伸びていた。
 玲は人差し指をふたりの赤ん坊に握らせている。まるで、それを離すとどこか深みに落ちてしまいそうなほどに、強く握っていて、玲がわざと離そうとしても、双子たちの手も、彼女の指といっしょに移動した。
 「ほんとにすてき…」わたしも子供が欲しい…そうわたしには聞こえた。玲はわたしたちよりもずっと若いので、そんなにあせることもないだろう。すぐにいい男が見つかるさ。こんなに美人で、こんなにやさしくて、絵の才能にも恵まれた女を、だれが放って置くというのだ?わたしだって、彼女を手に入れられたのだから…
 わたしは赤ん坊よりも、玲をじっと見つめた。そのわたしの眼を、じっと姉が見つめていた。玲はその姉の眼を見て、私の方へ眼を向けた。わたしと玲の視線が逢った。姉は赤子へ眼を落とした…十分に予感がする…なにかが起こる、前兆だった。

 
 それは、夏だった。あの蒸し暑い夏、いつも事が起こるのは夏なのだ。父が首を切られたのも、母が首を吊ったのも、伯母がバイクに跳ね飛ばされて薔薇の木に磔になったのも。
 そして、この忌まわしい双子が産まれたのも…

 わたしは、ひとりでベッドに寝ていた。姉は双子とともに、母の寝室に移っていた。昔母がそうしたように、姉は双子にお話を聞かせてやっているはずだった。玲は、わたしのアトリエを使っていた。夏に薔薇の葉をわたしが描いたように、彼女もたくさんの薔薇の葉を描いていた。ときおりそれをわたしに見せに来た。
 「道緒さん、これどうかしら…色がなかなか出なくって…」
 「…」わたしは首を横に振った。けっして色が出ていないというわけではなく、よく描けていると思ったからだ。でもなにもしゃべらないわたしの曇った表情に、玲はうまく描けていないと思い込み、ふたたび色を重ねるためにアトリエにもどっていった。

 また、長い午後が過ぎていった。わたしはうつろになりながら眼をおよがせていた。
 となりのアトリエで、低い声がした。
 「うっ…」だれの声?わたしはうつつにもどされ、頭を回転させた。
 「うっ…」またとなりから聞こえてくる。
 わたしはその声の理由を知りたかった。とてもベッドから歩き出そうとも思わなかったが、這うことはできるはずだ。わたしはそっと床に手をつき、身体をしずかに床に落とした。そして、となりとの壁へ這って行った。そこには塞がった穴があった。わたしは、薄皮のような爪の生え出した小指で、その穴を塞いでいる詰め物をゆっくりと押した。指が痛かった。小指は骨の太さまで細く尖り、その詰め物を向こう側へ押し出した。わたしの薔薇の本の上にそれが落ちた。わたしは手で上半身をささえて、穴をのぞいた。小さい縦長のいくつもの窓から西日が入り込んで、緋褪色に帯を作っていた…この光景はいつか見たことがあった。そう、玲がはじめてこの家を訪ねてくれたときだった。光の帯のなかに彼女はいて、絵画の世界を作っていた、あの日が、今、そこに再現されていた。
 玲は、光の帯のなかに座り、手を後ろについて、頭をのけぞらせていた。両方の脚はむき出しになって、大きく広がり、横から見ると、手と身体と脚で、Mの字の形に見えた。しかしそれだけではなかった。彼女の脚のあいだから、もうひとつの身体がドアの方向へ伸びて、連なっていた。
 「うっ…」玲の声だった。しだいにその声の間隔が狭まっていった。頭をほとんど床と水平にのけぞらせ、ふうっと息を大きくついた。脚のあいだから、もうひとりの人間が顔を上げた。長い髪が、耳や頬や、くちびるにくっついていた。それは姉だった。ふたりがこちらを見た。わたしは思わず穴から顔をそらした。見られたのかもしれないと思った。ふたりがその穴めがけて駆けてくると思った。わたしは興奮した。今見た光景に、身体が熱くなった。あの時の興奮と同じだった。吊るされた母を穴からのぞいていたあの時と。
 わたしは這ってベッドにもどった。薄皮の爪の先が床に触れて、痛かった。
 ベッドにもどると同時に、ふたりが…今わたしが見ていたふたりが、部屋に入ってきた。
 「道緒さん、おきてる?」姉が言った。わたしはそのくちびるを見た。
 濡れていた。血を吸ったあとのように濡れていた。そして一本の陰毛が貼りついている。この姉は、わたしの姉ではないとわたしは思った。わたしとは似てもいなかった。むしろ、父の顔に似ていた。あの、人を小ばかにしたような、顔、少し顎を上げて、人を見た、あの男の顔に姉は似ていた。わたしは、父が首を切られて当然だったように、この姉も首を切り落とされるべきだと思った。玲は…玲は、まだ陶酔しているように、うつろな眼で、わたしのむくろのような身体を見下ろしていた。
 姉はきっと、わたしからすべてを奪おうとしているのだ。わたしにはなにも残らないように、なにひとつ、わたしがあの世へ大切にして持っていかないように、そう計画しているに違いなかった。
        
 「ぼくは…もうすぐ帰ります」わたしは横にいる女に言った。
 「道緒ちゃん、ここはあなたの家よ」女が言った。
 「ぼくは…わたしは、どこにいるのですか…あの方たちはだれですか?」
 この部屋は人で溢れかえっていた。わたしのいる場所ではなかった。だれもわたしに関心がなかった。ただ横にいる女は、わたしの手を握って、まるでだれかの母のようにわたしを見つめた。その手から自分の手を振りほどこうとするけれど、指と指を交互に絡ませていて、接着したパズルのようにはずれなかった。
 「姉さん…」その絡ませた指から、姉が侵入してきた。
 わたしの心に突き刺さるように、わたしの震える心を犯した。
 「姉さん…」
 「なに…道緒ちゃん」
 「ぼくは、生きてる?」
 「ええ、もちろんですとも…ほら、ちゃんとわたしの指を感じるでしょ」
 たしかに指の間が熱く重かった。そしてその熱は身体中をめぐって、足の先も、お腹も胸も、頭のなかも、すべてに充満していた。なにかが生まれ出る前のように、なにかが誕生する前ぶれでもあるかのように、わたしは、眼を開けた。瞼を開いた。でもなにも見えなかった。ただ、暗い部屋にいるのだろうと思った…ふたたび眼を閉じて、眠った。


 赤ん坊の声に眼が覚めた。わたしはいっときのま、自分の存在を確かめた。自分の手、顔、胸……わたしはどこにいるのだろう。暗闇が重なって、無の世界になったように暗い。赤ん坊の泣き声がする。複数聞こえる。ここは病院なんだ。ベッドに手すりもある。病院の匂いもする。わたしが手を伸ばすと、ちゃんとケースにわたしの身体は収められていて、それを覗き込んでいる顔も見える。わたしの横には、赤ん坊が眠っていて、たぶん同時に生まれた姉だろうか。ときどき握った手を上下していた…わたしも眠ろう…

 「道緒さん…道緒さん…」わたしの顔を触れて、だれかがわたしを起こした。
 「ほら見て…道緒さんの双子ちゃんよ」あの人が、両腕にふたりの赤ん坊を抱えて、立っていた…道緒さんの双子ちゃん?
 わたしの双子なのか?わたしはいつ結婚した?玲の立っている向こうのベッドに姉が寝ていた。そしてこちらを笑顔で見つめていた。そうか、姉が産んだのか。姉が道緒の子を産んだのだ…それも双子を。道緒の子、道緒の子、道緒の双子…わたしは顔を手で覆った。
 「ああ…」震えるため息が漏れ出た。姉はわたしの子を産んだのだ。わたしの双子を……わたしには精子がないと医者が言っていたのに…あの医者もあてにならないな。わたしは微笑んだ。男として失格と、人に陰口を言われる病いではなかったのだ。ちゃんと女を身ごもらせたんだから。それも、妻と自称する、姉を。
 「ふふふ…」わたしは、笑いがこみ上げてきた。笑った。初めて笑いを知ったように、笑い続けた。赤ん坊が泣いた。わたしの笑い声にあわせて、ふたりとも泣いた。とてもにぎやかになった。とてもいい病室だ。かつては父も住んでいた病室。笑い声と、赤ちゃんの泣き声と、幸せな空間ができた。玲は双子をあやしながら、こんどは双子の母の方へ行った。その母は、満面の笑みで双子に手を差しのべた。双子は泣きやんで、手足をばたつかせた。母の胸に行きたいのだ。玲がそっと母の胸に抱かせてやると、赤ん坊たちは、脇の下にもぐり込むように、母の身体に擦り寄った。とても幸せな光景だった。わたしも幸せになった。玲も首を少しかしげて、美しい横顔をいっそう美しくした。
 「お名前は考えていらっしゃるの?」わたしと双子の母とを交互に見ながら、玲が言った。
 「まだなの…」双子の母はそう言って、わたしを見た…名前なんて、そんなの問題じゃない。わたしと姉の子が、それも双子が産まれて、名前なんてどうでもいいじゃないか…あの人はなぜいるんだ?こんな病室までもついてきて…そういえば、以前、わたしの家にいたな、妻とふたりで。いや、わたしの姉とふたりで。わたしが入院しているあいだ、ずっといっしょにいたんだ。あの美しい薔薇の季節をふたりして、わたしの庭で過ごしていたんだ。思い出した。姉が彼女を呼び寄せたんだ。わたし抜きで。ありえない話だった。いや、今のほうがもっとありえなかった。姉がわたしを受け入れたのは、こういうことだったのか。わたしの子供が欲しかったのか。姉はこの澱んでいくような血を、純血を、残そうとでも言うのか…

 姉の乳房に吸いついた双子は、乳を飲みながら眠っていった。その母も、眠りに落ちた…玲がわたしのベッドに座った。
 「道緒さん、おかげんはいかが?」玲はなにも知らないような顔をした。わたしの過去を、わたしたちの過去を、なにも知らない人のように、わたしに話しかけた。その髪はいっそう伸びて、滝のように顔の片方に流れていた。美しい。彼女の美しさには、どの薔薇もかなわない…そうわたしは思った。
 
 「道緒さん…わたくし、麗紗さんに、子供をさずかったので、ぜひ、たすけてください、夫は入院中で、とてもわたし不安なので、というお手紙をいただいて、すぐにまいりましたの」玲はゆっくりと、いきさつを話しはじめた。
 「道緒さんが、ご結婚されていることは、わたくし知りませんでした…でも、わたくしのたいせつな道緒さんの奥様から、たすけてと言われると、身体がかってにこちらへ向いてしまいましたの…ふふ、薔薇の季節でもあるし…道緒さんにも、もういちどお逢いしたかったので…」
 …そうだったのか、彼女のやさしさに、姉はたすけられたのか。わたしが入院しているあいだ、不安な夜をひとりこの家で過ごすよりも、わたしが愛した女性とともに過ごすことは、姉を力づけたのか…いや、そうではない。姉にはなんらかの考えがあったはずだ。計画は遂行中のはずだった。この人をまき込もうとしているのか。わたしたちのくずおれた血すじのなかに。なぜそう思うかって?だって姉は嘘つきだった。わたしの妻をかたっていた。わたしがそれを言えないことを知っていて。でも、玲も気づいているに違いない。わたしたちは、だれが見てもそっくりだったし、入れかわったとしてもだれもわからないほど、似ていたから。もちろん、髪の長さや、お化粧や、爪のマニキュアをとりかえっこしたら…きっと人々は、なにもなかったようにわたしを姉として、姉をわたしとして、話しかけただろう。今、この人が、そうしているように…ああ、わたしたちはいつのまにか、身体はそのままに、たましいだけが行き来しているように、お互いの違和感がまったく消え去ってしまった。姉のよろこびも、かなしみも、苦しみも快楽も、その考えていることだって、その計画も、すべてわかった。そして、結末までも、わたしは悟ってしまったのだ。姉とわたしの距離の差を取り去ってしまうほどの、精神の同化だった。もうわたしはなにも言うまい。姉にすべてをゆだねよう。この血すじを永遠にするために…ねえ、麗紗?
              
 わたしはそれから、ほとんどしゃべらなくなった。憂鬱の虫が脳を食い荒して、ぐちゃぐちゃとかきまぜてしまった。妻が身体を拭いているのか、姉が便をとっているのか、玲が尿を吸っているのか…わからなかった。ときおり、下半身に走る不快な感覚は、姉が、妻が、玲が、父のものだったわたしのペニスを口にして、笑っているんだろうと思った。姉と玲の楽しげな会話も、沈黙も、すべてわたしの記憶をかきまぜていった。
 
 母がわたしの頬を両手で挟んで、「道緒ちゃん…おきて」と言った。
 父がわたしの髪の毛を引っぱって、からかうように、笑って言った。
 「道緒、こっちにおいで」
 わたしは素直だった。母の言うこともよく聞き、父の言いつけも守った。伯母も、わたしの靴下を脱がして、足の爪をやすりでといで、ペディキュアを塗って、いたずらっぽく、「ほら道緒ちゃん、きれいでしょ」と言った。確かに綺麗になった。足の爪にブルーを塗って、手の爪には白を塗った。本を読むときに、それを眺めては、美しい爪だと思った。
 母が部屋に駆け込んできた。「お父さんが、お父さんが…」
 伯母も駆け込んできて、「弟が…弟が…」
 ふたりで抱きあって、泣いていた。わたしは「どうしたの?」と心で言った。
 「父さんが死んだの」「弟が、死んだの」…「え?…そこにいるじゃない」わたしは、指差した。壁にくっきりと父の血の痕があった。「ほら、そこに」。わたしの指差す天井に、父の顔が映っていた…
 「あれは…あれは…」母が恐怖にゆがんだ顔で叫んで、「あれは、わたしが殺ったの!」「あれはわたしがさせたの!」伯母もいっしょになって、指差した。
 …わたしは意味がわからなかった。いや、すべて理解していたのに、わかることを、知ることを、拒絶していた…

 眼が覚めた。
 姉が玲と並んで座って、わたしを見おろしていた。
 「ひどい汗ね…夢を見たのね…」姉がわたしのひたいの汗をぬぐった。玲はわたしの手を握っていた。病室でまるで、危篤者を見守るように…わたしは身体を起こした。ものすごいスピードで上半身をベッドに立てて、
 「父を殺したのは、母と伯母なんだ!」そう叫んだ。
 姉と玲は顔を見あわせた。まるですべて知っていて、いまさらなにを言ってるの?という顔をしていた。
 「こいつはぼくの妻なんかじゃないんだ!」わたしは姉を指差してまた叫んだ。
 姉と玲は、すべてを知っている? ふたりともぐるか?わたしは疎外感で満たされた。二対一だった。だれもわたしを信用しなくなっていた。
 「ほら、あの穴から父がのぞいてるぞ!」わたしは証拠を突きつけようと、背中側の壁を指差した。ふたりはそっちに顔を向けた。昔の壁の穴はすでに塞がれていた。わたし自身が塞いだのだ。なんだかむなしくなって、再び横になると、天井が回りはじめた。シャンデリアの光に浮きあがる黒い銀河が波打って流れ出した。わたしの身体にそれが降りそそいだ。わたしはひとつとして、それを浴びてはならないと感じて、けんめいにそれらを振り払った。しかし、あまりにも大量の星は、わたしの身体をみるみる包んで、黒こげの死体のようにした。
 
 まばたきをすると、ふたりがわたしの身体を押さえつけていた。姉がわたしの腕を、玲がわたしの脚をつかんで、のしかかっていた。姉の乳房は、わたしの胸にあった。玲の髪の毛は、わたしの股間を被っていた。わたしは脱力した。ようやくふたりも力を抜いて、わたしから手を離した。
 「夢を見ていたのね…」姉がまた言った。夢ではないことを伝えたかったが、まるでことばと声を失ったわたしは、泪を溢れさせるばかりだった。
      
 姉が門の所まで出迎えていた。車が止まると、姉は門柱に手をかけて、わたしの登場を胸を熱くしながら待っていた。わたしは、その心がすべて読めた。家に近づくにつれ、姉のそばに近寄るにつれ、姉の心がわたしの心に映った。
 「道緒ちゃんおかえり」姉の手がわたしに伸びてきた。
 姉の呼ぶ名は、わたしの名前?…こんなことが、まえにもあったかしら?
 「姉さん…ごきげんよう」
 ベッドのまま移動しながら、わたしたちは手を握りあった。
 玄関までのカーヴした道は、無数のカモミールで埋め尽くされていた。
 わたしの手にそっと、姉はその白い花をつぶしながら、落とした。わたしはその匂いを嗅ぎながら、姉に微笑んだ。
 
 あの部屋にベッドは置かれた。姉のベッドもそのままだったので、二つのベッドが父の部屋に並んだ。
 姉は元気そうに見えた。身体もふっくらとして、顔の色も桃色を含んでいた。
 「道緒ちゃん、逢いたかった…」
 「姉さん、ぼくも…」
 だれもいなくなった父の部屋で、ふたりはベッドの上で抱きあった。泪がこぼれた。いや、こぼれたように思えた。姉が泣いていたのだ。姉の身体は震えていた。雨に濡れた小さな動物のように震えていた。わたしはもっと強く姉を抱きしめた。
 「くっくっくっ…」
 「…」姉は泣いていたのではなかった。笑いをこらえていたのだ。
 …こんなことが前にもあった?…わたしの記憶が揺れた。
 姉はわたしの股間をやさしく撫でた。わたしも姉の股間を撫でた。ああ、この素敵な空間、この匂い、この暗さ。この部屋はわたしたちの居るべきもっとも最適の場所なのだ…
 
 
 こんどは姉がわたしを介抱してくれた。わたしが姉にしてやったとまったく同じように、排便も、食事もわたしのために心を尽くした…身体も丁寧に拭いてくれた。そしてときどき、わたしのペニスを口で綺麗にしてくれたんだ…父のやり方とはぜんぜん違う。父のは儀式だった。姉は心だった。心でわたしのペニスを包んだ。
 
 時計の音がする。
 なにかを刻む音だ。
 時ではない、他のものを切り刻む音だ。
 「時計はどこ?」姉に尋ねた。
 「時計なんて、置いてないよ」
 「でも、時計の音がする…」
 「そう?…気のせいよ、きっと」
 わたしは信じなかった。姉のことばには嘘があった。確実な嘘が。
 わたしたちは、ことばを交わすと嘘になった。心を読むほうが真実なのだ。
 「…」姉がふたたびわたしの可愛いペニスを口に含んだとき、扉が開いて、人が入ってきた。
 「あっ」と小さく叫んで、ふたたび扉を閉めた。
 「…だれ?」姉に聞いた。
 「あの人よ」
 「あの人って?」
 「玲さん…」

 わたしは打ちのめされた。そんなことがあるはずがなかった。彼女がうちにいるなんて、ありえないことだ。わたしはもういちど尋ねた。
 「いまのだれ?」
 「だから、鵜沓玲さんよ」姉はなにごともないようにやさしく答える。
 「…なぜ?」
 「わたしがお呼びしたの」姉は顔色ひとつ変えず答えた。
 「だって…」
 「薔薇の花が、今年はほんとに綺麗に咲いたの、だから道緒ちゃんが約束していたでしょ、お呼びするって…だからわたしが、玲さんにお手紙書いて…夫は入院中だけど、もう少ししたら退院できそうなので、薔薇を見にいらして、と…」
 「夫?」
 「そう夫、道緒ちゃんはわたしの夫なの」
 「…」頭がぐるぐる回りだした。わたしと姉が夫婦?

 …そうだ、この計画にはまだ続きがあるんだった。
 わたしは無言になり、窓のほうを向いた……ま、夫婦だったら、昼間からいやらしいこともするだろうと、彼女は思っただろうか…でも、わたしに妻がいるともいないとも、なにも話していないし、でも、当然に、独身として文通もし、以前逢ったときも、だれも彼女に紹介しなかったし、わたしたちは片想いを脱していたはずだった…

 ああ、姉はなにを考えているんだろう。わたしは、彼女にはもう逢えないと思った。
 ドアがノックされた。
 「麗紗さん…先ほどは失礼いたしました」ドアの向こうで、彼女の声がした。
 「どうぞいらして、玲さん」姉が言った。
 彼女が部屋へ入ってきた。

 彼女は長い髪をソバージュにしていた。以前と、またあの写真とは印象が違っていた。その縮れた髪の毛を、顔の片方に垂らしていた。
 わたしのそばに近づき、窓側へ立った。初夏の薄いドレスは、透きとおって、下着がうっすらと見えた。
 「道緒さん…おじゃましています…お身体の具合はいかがですか」
 とても彼女は自然だった。姉が、いや妻がわたしの下半身を愛撫しているのを見た後とはとても思えないほど、自然な笑顔だった。
 「ええ…」わたしは彼女の眼を、まともに見ることができなかった。
 彼女は、その宝石の眼で、姉とわたしを交互に見ながら言った。
 「ほんとうに奥様にはお世話になりましたの…お庭の薔薇をたくさん描けましたのよ…道緒さんにお見せしたいと…」
 「玲さん、それがいいわ、夫に絵を見せてあげて」
 「…」わたしは今は見たくなかった。夫のわたしは、妻の姉を見ることも、彼女を見ることもできずに、ただ天井の黒い星を数えるしかなかった。頭のなかでなにかが沸騰していた。冷たく沸騰していたんだ。液体になった心の塊が、わたしの支配の及ばないところでぶくぶくしはじめ、泡が底から上がってくるたびに、はじけて、濁った乳色をした気体を吐き出した。
          
 この病院には、一箇所素敵なところがあった。それは浴室だった。一週間に一度、入浴できた。できたといっても、強制的に、なにか野菜でも茹で上げるように、手足を拘束できる機械で吊るされて、お湯のなかへ浸けられるのだ。たまに気の利いた看護婦がいて、わたしの首が沈むようにどっぷりとお湯のなかに浸けて、わたしがもがくのをにんまりとして見ていた。わたしはそのときがとても幸せだった。なんて気持ちいいことをしてくれるんだ!もっとやっておくれ、そう言いたくてもがいたんだ。看護婦は、調子にのっていくどもわたしをお湯のなかへ落とし込んだ。四十五度のお湯で、わたしの身体はすっかりパプリカのように赤くなった。ときおり看護婦は、わたしを拘束している器械を足で蹴って、回転させた。わたしは、わたしの母のように、首を上に向け、陶酔のポーズで回転した。
 長いブラシの先にシャンプーを付けて、看護婦が身体を洗ってくれるんだ。頭も、顔も遠慮なく、乳首も股も、足指のあいだまでも。なんて素敵な所だ。わたしはずっとここにいたかった。こんなに人を酔わせる場所はこの世にはないと思った。
 「なに笑ってんのよ!ばか!」
 看護婦がブラシで股間をぶった。ペニスは膨張していた。
 「なにをふくらませてんのよ!このおかま!」
 もういちどぶったら、殺してやろうと思った。気持ちよく、ゆっくりと、口に、わたしのペニスを、突っ込みながら…

 
 薔薇の花も見ずに、夏がやってきた。わたしはこの快楽から逃げ出す決心をした。想い出したのだ。彼女のことを。ひとりの看護婦がある日、薔薇の香りをさせて、わたしの所へやってきた。ああ、そうだ、忘れていた、なにかを忘れていた。この香り。忘れてしまっていた。わたしには彼女がいたのだ。片想いではない、彼女が……彼女に逢いたい。そう思ったわたしは、頭の回転が別のルートをとりはじめた。
 毎週行なわれる試験に、よい結果が出はじめた。これはけっして、計画でも芝居でもなかった。わたしの本心が胎動しはじめたんだ、きっと。急激に回復した。あの看護婦たちも許してやった。医師もいい人間に見えてきた。食事も固形食にかわり、看護婦とも談笑できるまでになった。脳というものは不思議なもので、ひとつのルートを使い続けると、太くなるけれど、もろくもなるんだ。わたしの太くなった妄想ルートも、ある日自らを破壊し、別ルートに切り替えを始めた。そこでは、遮断されたルート上に、膿のように記憶が溜まり、いっきになにものかによって爆破された。
 
 わたしは退院した。一応ベッドにつないであったが、それはあくまで形だけだった。看護婦たちが口々に言った。「おだいじに」「おだいじに」「おだいじに」…「もう帰ってくるな!」そう言っているように聞こえた。
 わたしは微笑みつつ、ベッドのまま、車に押し込まれた。 
            

             **

 わたしは、崩壊していく心を受けとめるために、あるいは、受けとめられた崩壊を、知るために、母の部屋へ入った。
 そこには母がいた。いつもの母がいた。わたしたちのお揃いのスカートを縫っていた。わたしを見る眼はやさしかった。微笑みがわたしの心を包んだ。そして、みるみるその顔が、皮膚の剥がれ落ちた伯母の顔になった。「こっちへおいで」姉を、焼いたフォークで撫でている。「姉さん、気持ちいいかい?」そういうわたしに伯母が顔を向けた。目玉は白く、瞳がなかった。なにか液が垂れて、くちびるの裂け目に滲んでいる。
 父が入ってきた。首はなかったが、父とわかった。父は伯母に近寄ると、天井から吊るした。首にかけたロープは、いつも母を吊るしているロープと同じものだった。「父さん、よくやったわ」姉が手を叩いた。母も手を叩いた。すると父は、母の髪の毛を引っぱり、ひきずっていった。わたしたちは、ぶらさがった伯母を残して、父の後をつけた。
 父の部屋のとなりのドアが閉まった。あそこだ!わたしたちは鍵穴から覗いた。きらっと光るものが振り下ろされた。父の首が鍵穴に向かって飛んできた。わたしたちは思わずのけぞった。もういちど穴から覗くと、そこにはもうだれもいなかった。母はいなかった。母はいるはずもない。もうすでに吊るされているのだから……

 
 わたしの入院は姉よりも長引いた。同じ病院だったが、会うことはなかった。ふたりとも厳重に檻のなかで管理されていたから。
 食事はすべて、管を通して行なわれた。ナイフ、フォーク、皿は凶器となりうるからだ。これらを禁止するまで、何人の看護婦が傷ついたことか。なかには首を刺され、危篤状態にまでなった。すべての爪も剥がされた。それも鋭利な凶器となったからだ。本人に対しても、人に対しても。…姉も同じ過程をたどっていた。しかし「計画」を遂行しなければならない姉は、強靭な脳でふたたび心を再生させ、退院した。
 馬鹿な看護婦が、「お姉さまは退院されましたよ、あなたも早くよくなるといいわね」と…なんという、ドジなやつだ!わたしの心を目覚めさせてしまった。

 わたしは爪のない指で、窓の鉄格子を掴んで、姉の住む方向を見つめた…ふふふ、姉さん、待っていてよ、すぐ帰るから…
 看護婦が来た。いつものやつではないな。あの反吐が出そうなやつよりはだいぶましな看護婦だ。噛み付きやしないさ。おいで、こっちへ。そうそう、いうことをよく聞くね…わたしは目玉だけ出した、拘束用のフェイスカヴァーを被っているから、表情は読み取れないはずだよ。手も後ろ手で縛ってあるから、あんたを捕まえはしないさ。足もほら、ちゃんとベッドに繋がれているから、あんたを犯しはしない…看護婦はわたしの食事を点滴用のスタンドに掛け、わたしの口のファスナーを金具で引っ掛けて、開けた。そして、チューブを思い切り口に突っ込み、食事袋のコックをひねった。早く終らせたいのか、その袋を両手で挟み、わたしの喉に速やかに流れるように、歯を喰いしばってそれをつぶしていた。わたしは鼻で荒く息をしながら、看護婦を睨んだ。看護婦も睨み返した。その顔に浮かぶ憎しみは、わたしよりも強かった。看護婦の首には、縫った痕があった…ああ、いつだったか、わたしが皿の破片で喉を突き刺してやったからね…液状の食事が終ると、看護婦はふたたびわたしの口のファスナーを閉じて、出て行った。わたしは、喉に残っている気持ち悪い食べ物を、唾で呑み込みながら、父のペニスの味を思い出していた。
            
 …雪が降っている。父の部屋の窓を開け放って、ぼくは姉のベッドに横たわり、天からほこりのように落ちてくるそれを見ていた。
 姉の計画は頓挫したのか?ぼくがぶち壊したのかもしれない。歩行を知られることは、姉の計画書にはなかったのだ、たぶん。計画の中断は、姉の心を乱した。そして、秘密を見破られて、開放的になった姉の心は、逆に融け出していった。今までささえていた太い腕が、解き放たれた心の光を受けて、崩壊したのだ。ささえられていた心が戸惑いを深めて、そして、もとにもどった。もとの硬いさやのなかに吸収されて、閉ざされてしまった…
 
 でも、これも姉の計画の一部かもしれない!ぼくは用心した。こんどは騙されない。医者にも伝えておこう。これも芝居かもしれないと。
 
 でも、ぼくは、ぼくは騙されたい…そうされたいと、心の、身体のどこからか、聞こえてくる…いや、そうではない、ぼくにはあの人がいるではないか、あの手のぬくもりは、忘れはしない…あの人の、手の…
 
 …ああ、姉の手すら、恋しい、ぼくは、姉の寝ていたベッドの匂いを、嗅いでみた。
 …こんなもの!シーツを剥がすと、彼女への手紙が、次々と出てくるんだ。
 …こんなもの!もうなんにもならないではないか、なぜこんなにも、侮辱されたものに見えるんだ、過去の醜態を暴露されたように…

 ふざけた女だ!姉のやつ、今頃は、次の計画を練っているに違いなかった。そうだ、医者に言っておかないと!
 
 ぼくは、しずかに色鉛筆を握った。描きかけの、ライラックの果実のひとつを少し塗ると、手のひらへ、そのグレイグリーンの尖った先を、突きたてた。痛みもなく、すっと手のひらの真ん中を通り過ぎて、ライラックの果実に達した。
 ぼくは、しずかに立ち上がり、窓のそばに行き、雪の上に血を垂らして、いくつかの斑点を作った…

 …でも、でもこんなにもさびしい。いくら斑点を並べてみても、ひとりはさびしい。姉もさびしいだろうか。ぼくはもっとさびしい。まわりに気遣ってくれる人はだれもいない。姉はたくさんの人に囲まれて、我が儘いっぱい、叫んでいるかもしれない。ぼくは…叫べない、叫ぶ声を、忘れた。どんなに叫ぼうとしても、大気のない世界に住んでいるように、なにひとつ、とどかないし、伝わらなかった。だれも、だれひとりとして、ぼくの傷を癒してはくれないし、キレンジャクさえも、冬の蛍さえも、姿を消した…

 ぼくの眼は暗く、見える色は褪せていき、赤色も、緑色も、白さえも、すべてが灰青く、くすんでいき、指先で、瞼を剥いてみるけれども、すぐに目玉は回転して、眼窩の壁に貼りついてしまうんだ。
 …雪は、無数の隕石に見えて、無音のまま、庭に積み重なり、やがて、ぼくを、この世の底に沈めてしまうんだ。
 
 どんなにぼくが、いい子だったか、姉に聞いてみてよ!
 そこにいる人、ぼくの大切な人…
 …お母さん、どこ?どこにいるの?…
               
       『熟成』
 月が、姉のベッドを照らしている。ぼくはそばに座って、「マルテ」を読んでやっていた。姉は天井をじっと見つめて、聞いていた。白椿のところが近づくと、ふたりして眼をあわせて、ほほえんだ。母を思い出すのだ。ああ、やさしい母。どんなにぼくたちを愛してくれていたか、今になってわかる。あの長く白い指と、形のいい爪、いい香りの髪と耳のうぶ毛。睫毛はまっすぐで、いつもぼくはそれを横から眺めているのが好きだった。
 「マルテ」を朗読するときの母は、すべての「母」のなかで最高だった。あたたかみと、かなしみと、不思議な言葉や不可思議な光景を、美しい声が、一枚の絵画に完成させた。
 
 ぼくは眼を上げて、遠くを見た。
 「道緒ちゃん」
 「…え」ぼくは吾に帰った。姉が手を握っている…
 「…姉さん…歩けるんだね」
 姉は黙っていた。ぼくの手を離して、月の光を手で捉えようとした。
 「ごめんなさい…黙っていて…」
 「いつから?」
 「…はじめから」
 「え…はじめって?」
 「そう、ここへ来たときから」
 ぼくは唖然とした。騙していたんだ、ぼくを。ぼくだけじゃない。医者を、看護婦を、みんなを。どうして?どうしてそんなことをする?なぜそこまでして人を騙す?……そうだ、姉には目的があったんだ。病院生活のあいだに練り上げた、素敵な計画があったのだ、きっと。
 ふざけた女だ!
 ぼくの心は、姉の首を絞めていた。ぼくの今までの思いやりは、なんだったんだ。どんなに姉を、姉の身体を大切にしたか。食事もせいいっぱい作ったし、女の悦びも、味わせてやったのに。なんということだ……でも…でも、ぼくはうすうす知っていたのかもしれない。心の奥底では、気付いていたのかもしれない。表の心がそれに蓋をして、見えないようにそうさせていたのかもしれない。姉との生活は、気持ちよかったし、姉はいつもぼくに感謝していたし…つまり、ぼくの従順なお人形だったのかもしれない。ぼくが生けるお人形として、姉を飼っていたのかもしれない…

 そっと起き上がって、姉は床に足をついた。少しふらつきながら、月の光の道をたどって、窓の方へ歩いた。姉のシルエットは、母に似ていた。いや、母そのものだった。
 ぼくはなにも声に出せなかった。頭も停止してしまった。姉を後ろから抱きしめた。月の光がふたりを照らした。闇の部分から逃げてきた、恋人同士のように。

 姉の排泄の世話をしなくなってから、ぼくは、なんだかつまらなくなった。なぜこんな感情が湧くのか、よくわかっていた。姉の世話をするのが、好きだったのだ。姉をお人形さんとして扱うことが、ぼくを優越感と、支配感で満たしていたんだ、たぶん…
 ある日、姉に言った。
 「姉さん、今までのように、してくれない?」
 「…」
 姉も、今までがいやではなかったはずだ、ぼくのお人形になっていることが。ぼくはとてもやさしかったし、姉もぼくのそのやさしさに答えてくれたから。
 「いいわ…つづけましょう」姉はそう言うと、ベッドに横たわった。

 その日から、ぼくの介護が、儀式に変わった。
 心を籠めた奉仕から、おぞましい儀式に。
 姉も、人形から生ける女に変身した。ぼくは、姉とぼく自身の、首から下のすべての毛を抜いた。ふたりの身体はつるつるになった。オイルを塗り込み、丹念にマッサージをした。お風呂にもいっしょに入った。白い入浴剤のなかで、身体を擦りあわせた。そして、綺麗になった姉の身体を、ぼくは丹念に描いた。100号の大きさの紙に、姉の全身をすみずみまで克明に描き込んだ。睫毛の本数を数え、虹彩の数も同数を描き、爪の長さもコンパスで計り、指の角度をもっとも官能的に描いて見せた。
 姉は最高のモデルだった。ぼくの注文にも素直に従い、長時間、ぼくを見つめてくれた。
 顔や、指先や、足先からしだいに現れてくる絵に、姉は狂喜したんだ。そのあといつも、薔薇園をともに並んで歩いた。子供の頃、遊んだ薔薇園の底にふたりで横たわり、いくども抱きあった。「あの女」が磔になった薔薇の木を指差して、ふたりで笑った…
 
 こんなにも、計画が順調に進むなんて、だれも思わなかった?ぼくは自分の願いどおりになって、今まで以上の細密的快楽が味わえて…もちろん姉も…姉も?

 …なぜだ、姉は痩せていった。冬が来る前に、消えてしまうかもしれないほどに細くなっていった。そして、その精神は侵され、ふたたび入院することになった。
       
 ぼくは彼女に、ぼくの持っているすべてのオールドローズの本を見せた。彼女は嬉しそうに、一頁一頁めくっては、「ああ、この薔薇もすてき!」と、眼を輝かせていた。重い洋書は彼女の膝のうえで、よりいっそう美しい本に変身した。
 そしてぼくは、ぼくの植物画を彼女に見せた。彼女はそれを、一枚一枚手にとって、大きいものは壁に立てかけて、そのつど、ため息を漏らした。
 「なんてすばらしいのでしょう…いつも、灰川さんのご本で見ていただけですから、原画はとても美しい…刹那刹那をほんとうに克明に写しとられている……」彼女の手にある絵は、ぼくのものではないような輝きを見せ、額のガラスに映る彼女の姿を、やさしく受け入れていた…
 「実は、わたくしもこのたび、月刊誌に連載をすることになって、灰川さんにその絵を見ていただこうと、持ってまいりましたの」そう言って彼女は、絵の入った大きな紙のケースを身体のそばに引き寄せ、絵を取り出した。透明水彩のやさしくなめらかな植物画だった。ぼくも以前、彼女の作品の数点は、別冊に載ったものを見ていたが、原画の薔薇は美しかった。ほんとうにオールドローズを愛する人の絵だった。泪が溢れてきた…ひとつぶ、絵のそばをかすめて、床に落ちた。
 「ごめんなさい…なんだか、感動してしまって」
 「うれしい…灰川さんに見ていただけて…」
 「玲さん…道緒と呼んでください」
 「はい」彼女は微笑んで、ふたたび厚い洋書を膝に置いた。

 となりの姉の部屋からは、物音ひとつしなかった。
 姉は察してくれているはずだ。たぶん、彼女が来たことも知っているだろう。ぼくの返書を無きものにしたことを、少しは悔いているかもしれない。そんなことで彼女の意思の変わらないことも、悟ったにちがいなかった。

 以前は、ぼくだけが二階と呼んでいた屋根裏から、今は、この部屋、父の本の墓場だった部屋にアトリエを移していた。
 窓は縦にいくつも並んで、光はそれぞれの窓の形を、床に落としていた。彼女の膝に、腕に、髪の毛に陽の光が散らばり、床へはねかえって、彼女の姿を浮きあがらせていた。煙立つように、薔薇の本からのほこりがきらきらと輝き、ぼくの彼女への想いとなって、その人を包み込んだ。
 「灰川さん…道緒さん…また、お花の時期におうかがいしてもよろしいでしょうか」
 「ええ、もちろんです…ぜひわたしの薔薇たちを見に来てください」
 …もうお別れの時間なのか…さびしい。もっともっと、いっしょにいたい。彼女のそばに座って、その匂いを嗅ぎ、その身体に触れ、その眼を眺めていたかった…
 「では、そろそろ失礼いたします…急におじゃまいたしましたのに、ありがとうございました…道緒さんは、わたくしが思っていた通りの、おやさしい方で、わたくし、とてもうれしい…」
 彼女の手が、ぼくの手に触れた。彼女はぼくの手を取って、一瞬強く握り、そして、離した。彼女の手のぬくもりが、いつまでも残った。

 車の後ろに乗り込んだ彼女は、ガラス越しに、より美しかった。窓に手を置いて、微笑んだ。ぼくも手を少しあげて、さようならをした。テールランプが不安げに光った。このまま二度と逢えないかもしれない。この別れは、永遠の別れの始まりかもしれない。そう思った瞬間、ひとすじの泪が頬を伝った。
 ぼくは、家のほうを振り返らなかった。きっと、姉が見ているだろうから。この泪を、誰にも見せたくはないと思ったから…

        
 今までどおりの姉との生活を、ぼくはたんたんと続けた。
 薔薇の夏の葉の時期は、それを一枚一枚描くのに忙しく、むしろ、なにも余計なことを考えずにすんだ。
 結局「ロサ・ロクスブルギー」も咲かず、今年も花を描くこともかなわずに、小さく並んだ葉の列をいくつも描き込んだ。
 庭では、夏咲きのクレマティスが咲き、一年中花をつける「ロサ・オドラータ」が、長いつぼみを垂れていた。ぼくはそっとそのつぼみをもちあげてみた。クリーム色とローズ色がパズルのように境目をつくっている。萼はそりかえり、なんてすてきな形なんだと、思った…
 「灰川さんですか」
 後ろをふりむくと、女性が立っていた。
 一瞬、地面がもりあがったように見えた。人が高みに押しあげられて、ミナレットになったと思った。
 「ああ…」ぼくは声が出なかった。眩暈がする。
 急に立ちあがってしまったから?…夢じゃない、夢じゃない気がする。ぼくの眼のまえにいる人は、あの人だ。あの、N字形の彼女だ。美しい手紙をくれる、鵜沓玲だ!
 「あの…灰川道緒さんですか?」
 「はい…玲さんですか」
 「はい、はじめまして」
 「はじめまして…」
 「急におしかけてしまって、申し訳ありません」
 「いえ、とんでもない…わたしの方こそ…お返事も書かなくて、ごめんなさい」
 「いえいえ、急なお願いだったのですし、薔薇のお花の時期と重なっていましたし、とっても忙しいのですもの…わたくしの方こそ、ご無理なお願いでしたから、当然ですの…でも、どうしても、お逢いしたくて」
 「…」ぼくは、どんな顔をしているんだろう。
 ……
 先ほどまで、ひどい頭痛で、薔薇のつぼみを見てようやくそれがおさまってきたところだから…
 「この薔薇は?」彼女が聞いた。
 「ロサ・オドラータです」
 「ああ、わたくしも持っています…すてきな薔薇ですね」
 「ええ、いい香りがします」
 彼女の長い髪が、ぼくの眼のまえにあった。彼女がその薔薇のつぼみを、ぼくと同じようにもちあげていたから。
 髪の毛が薔薇の方向へゆるやかに流れて、くずれ落ちた。ふと、彼女は振り返り、その髪を耳の後ろへもどしながら、言った。
 「灰川さん、いちどどこかでお逢いしました?」
 「はい…あの薔薇園で」
 「え?…」彼女の宝石の眼が、ぼくを見つめた。
 「あの、薔薇園?…」
 「ええ、赤レンガにかこまれた…」
 「あの時の?…たしか、わたくしのビーズを拾ってくださった?…ああ、ごめんなさい、そうなのですか?…あの方が灰川さんだったのですか、いえいえ、灰川さんがあの方だったの?…なにもおっしゃってくださらないから、わたくし、どうしたんだろう、いやだ、顔が熱くなってきた…」
 「…」ぼくは彼女の立て続けの言葉に、沈黙させられていた。
 「じゃ…あの時、お写真をお送りした時から、ご存知だったのですか?」
 「はい」
 「まあ、なぜ、なぜひとこと言ってくださらなかったの?」
 「とんでもない…あの時はただ、一瞬の夢のような…いや、玲さんと、そう、少しばかり袖をふりあっただけですから、それに、一目惚れなんです、なんて、はずかしいばかりですから」
 「そう…わたくしも一目惚れでしたの、あの方に…でも、ただそれだけでしたから、そうですね、一瞬の夢のような…」
 彼女の眼が、一段ときらきらと輝いた。ぼくはため息を押し殺した。彼女がまばたきをするときに、はっきりと長い睫毛が見える。ふたたび眼を開くと、そこには、いっそう美しいエメラルドが潤んで光った。
 ぼくはいたたまれないほどに感動していた。ふたつの宝物が一つに合わさって、よりきらめきを増して、ぼくの手のひらを融かすような気がした。
 「ふたたびお逢いできて、わたくし、うれしい…」彼女が言った。
 ぼくは彼女を見た。すると、彼女の顔の向こうに見える窓に、姉の姿があった。たしかに姉が、カーテンの隙に重なって立っていたんだ。
 ぼくの視線に気づいて、彼女も振り返った。
 「では、行きましょうか…どうぞ」ぼくは幻影をかき消すようにそう言って、彼女を家へ案内した。
 
       
 …そのほほえみが、姉に遺伝したんだ。

 姉のそばに近づきながら、ぼくはそれを確認した。
 「お母さん…」低い声がぼくの唇から漏れ出た。
 ぼくは、姉のベッドに横たわった。姉が手を重ねてきた。熱い手。燃えるように熱い手。母がいつもぼくのほっぺを両側から包んでくれた、あたたかい手のひら。鼻の先を合わせると、母の澄んだ瞳がぼくを、ぼくのすべてを映し入れた…

 背中になにかあたるものがあった。シーツの下になにか挟んであるように思えた。ぼくは起き上がって、シーツの上からさわってみた。長方形の紙のようなものがあった。姉を見た。姉はぼくを見つめている。「さあどうする?」と眼が言っていた。
 ぼくは、もうある予感がしたんだ。「あっ!」と心のなかで叫んでいた。
 「あの、あの手紙?…彼女に出した返書…」…胸の塊りがつぶやいた。

 姉の顔色に、すべてが判明した。たぶんぼくの手紙を、ポストから盗んだんだ。いや、そんなことはできないから、局に返送を頼んだに違いない…ああ、ぼくは、ぼくはどうしたらいい?…姉が嫉妬を?なぜ?ぼくたちは姉弟ではないか、それも双子の。お互いのすべてがわかるから、すべてを赦しあっているはずなのに……姉はぼくを失うことを恐れたんだ、きっと。ぼくが他の女性と文通していることは知っていた。でも、それ以上の関係ではないことも、姉は知っているはずなのに…たぶん、姉のなかでは、ぼくとの生活がすべての世界であるのに、ぼくの世界がもう少し広いことに、嫉妬したのかもしれない。
 ぼくはなにも言わなかった。ただ、泪が頬をつたって、シーツの下の手紙を濡らした…彼女の名が、透けて見えた…
          
         *

 姉はもちろん、父を愛していた。
 あの儀式で、いくら喉を塞がれようとも、愛していたんだ。だって、父が赴任先から帰り、家にいる数週間、食事のあとにはかならず、姉は父の膝の上に抱かれていたから。
 姉は、父の片方の腕を両手で握り、頭を持たせかけていたから。父は、ときおり姉の髪の毛の匂いを、嗅いでいたから…
 母はわたしたちに、チェーホフを朗読してくれていた。姉の名前に似た女性がいつも登場してきた。母の美しい声と、劇中の激しい言葉のやりとりが、不思議な緊張感を、わたしたちに感じさせた。
 父は眼をつむり、姉のお腹を両腕に包んで、お人形を抱く少女のように、笑みを浮かべていた。
 …わたしは、母を見ていた。顎を手の上に置き、母の長い指と、爪と、指輪を見つめた。本をささえる指の美しさを、わたしは知っていた。赤ん坊のときから、母の胸で、その指を見つめてきた。本に添えられる指の感覚を知っていた。だから、父に抱かれた姉を嫉妬することもなかったのだ。父と姉の関係が、見えていたとしても、見えない振りを、脳が強いていた。
 母は朗読の終わりに近づくと、たいてい小さく咳払いをし、そしてゆっくりと微笑んで、本を閉じた。

         *

 …そのほほえみが、姉に遺伝した。
          
 彼女は来なかった。なぜだろう。ぼくはなにか、まずいことでも書いたの?あの人が病気になったのだろうか。あの人の身に、なにか重大なことでも起きたんだ、きっと…まるで数年間、風も雨もなかったような日々が過ぎた。ぼくは、幾度も手紙を書いた。幾度も、懇願に似た言葉を連ねて、彼女の返書を待った…だが、まるで夢うつつのなかにいるように、ぼくを置き去りにして、日々が過ぎていった。
 
 
 ふたたび、蒸し暑い夏がやってきた。姉の閉めきった部屋は、臭いを消すための薔薇の香油がきつく匂った。
 「姉さん、窓を開けようか?」
 「…ええ」姉がはじめて窓のことでうなずいた。どうしたんだろう。いつも不快な顔をして、断わるのに。

 ぼくはカーテンを少し開け、窓の金具を上に押し上げた。弱く湿った風が入ってきた。それでも外の空気は、さわやかに感じられた。振り向くと、カーテンの隙間からすじになって差し込む光が、部屋の暗闇をふたつに分断していた。
 ぼくは天井を見た。なんということだ!姉が窓もカーテンも開けさせない理由がわかった。あの赤い銀河が、黒い染みになって残っていたんだ。父の血が飛び散って、壁にも天井にも、黒いドットを散りばめていた。
 あの「時」が、ぼくのなかに甦ってきた。
 姉はそのことをひとことも言わなかった。この部屋と、母の寝室は、姉が帰るまでは、だれも開けることがなかった。当然と言えば当然なんだ。あんな凄惨な死の残影と、母のシルエットを宿した部屋を開けるなんて、ぼくにはできなかった。
 …ごめんね、姉さん…気づかなくってごめんなさい。
 部屋のシャンデリアの明かりでは、まったく気づかなかった。ぼくは、なんて馬鹿なんだ。すっかり綺麗になっているとばかり思っていた。壁紙も、床も張替え、天井だって綺麗にしているはずでしょ!
 姉が帰ってくるまで、ぼくは一度も見たことがなかったのだから、仕方ないのだ。
 …ゆるしてよ、姉さん…姉の顔を見た。
 「綺麗でしょ…」
 「……」姉は微笑んでいた。たぶん微笑んでいる…
 窓からの、すじになった光の境い目に、姉の白い腕が見えた。顔は見えなかったが、あきらかに、やさしく微笑んでいる。そうぼくは感じた。強い磁力にすべての矢が飛び来たり、その唇に突き刺さるように…
 姉はずっと、ここに来てからずっと、この天井を見ていたんだ。シャンデリアの光り向こうに、黒い星々が流れて、河になっていく様子を、見つめ続けてきたんだ。