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michianri

Author:michianri
せつない 想い…
つたない ことばたち…
やりきれない 心…

『詩片日記…薔薇園…片想い』

第一章『詩片日記』
surrealiste
 hypochondrie
    ~prologue
       灰川道緒

第二章『薔薇園』
     
       鵜沓 綾

第三章『片想い』

       野川美千夫  

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せつない ラヴレター つたない ことば やりきれない 日々… 


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「わたし、母を知らないんです…」彼女がぽつんと言った。
「わたしが生まれた時、死んでしまって…だから祖母に育ててもらって」彼女の伏せた眼の、まっすぐの睫毛が美しかった。わたしがしたように、白い桔梗の鉢を撫でながら、彼女は言った。 
「この名前、祖母の名前と同じなんです…」彼女はそう言うと、あの場所でやったように、名前の上を撫でた。
「なぜでしょ、あのお家に祖母の本が?…でも、祖母のものとはかぎらないですね、同じ名前の方かもしれない…わたしは祖母とあの家で暮したことはないし、祖母もたぶんあのお家のことは知らないと思う…」彼女がわたしを見た。
「……」わたしは言葉が見つからなかった。先ほど庭から摘んできたレモンバームのお茶を彼女に入れて、黙ってすすめた。
「ああ、いい香り…わたし、母の顔も知らないんです…写真は撮らなかったって、祖母は言っていたけれど、そんなことってないですよね、一枚ぐらいあっても…」そう言ったあと、しばらく黙っていた彼女の眼から、ひと粒の泪がこぼれ落ちて、レモンバームのお茶の淡い色のなかに溶けて、波紋を作った。わたしは女性の泪に弱かった。男はみんなそうかもしれない。その泪が心を揺り動かして融かし、女の心へ流れ込んで行ってしまうのだ、きっと。わたしも泪が溢れてきた。母の顔が思い浮かんだ。母も写真は少なかったが、その若い頃のはつらつとして、上品な装いと、白黒写真のなかの滲んでさらに澄んだように美しいたましいとを想い出し、彼女の母の、暗闇に似た顔写真が重なって、わたしのカップにも、数滴の泪が溶けていった。
 わたしは再び彼女を抱きしめたい衝動にかられた。彼女にハンカチを渡しながら、そっとその手を握りしめた。彼女も握り返してきた。手と手が、指と指が重なってわたしの心は、彼女を彼女を抱きしめていると同じと感じた。
「ぼくの母の写真、見せましょうか」突然口をついて言葉が出てきた。
「ええ、ぜひ…」彼女も笑顔になった。
 わたしはベッドの上に乗って、両側のダンボールのなかのアルバムを探した。彼女はそれを、顎に手を置いて眺めていたが、らちがあきそうにもなかったので、
「わたしもさがします」そう言ってベッドに乗ってきた。そしてわたしとは反対の方を探した。そのうち、お尻とお尻がぶつかって彼女のお尻にわたしは突き飛ばされて、ダンボールの海へ投げ出された。
「ごめんなさい!美千夫さん、大丈夫?」彼女は笑っていた。
「ええ…ありました、おかげで」わたしが手を突っ込んだダンボールのなかに、数冊のアルバムがあった。それを取り出して抱えると、彼女がベッドの上に引きあげてくれた。
「ありがとう…このアルバム」そう言ってふたりでベッドに並んで腰かけ、アルバムをひろげた。
 始めの方のページは、わたしたち姉弟の赤ん坊の時の写真が、黒い台紙に貼られていた。
「これ、美千夫さん?」裸で泣いている浸りの赤ん坊の一人を指して、彼女は聞いた。
「ええ、ぼくかな…」「こっちは?」「姉です」「双子?」「ええ…」
「ああ、いいなあ…双子、わたしあこがれるんです!」「なぜ?」「なぜって…なぜかな…だって同じ人がふたりいるんですもの」
「ふふふ」わたしは可笑しくなった。真面目な彼女の顔が、あまりにも真剣だったから。
「そうかな…でもぼくたちは二卵性だから、あまり似ていないと思う」
「お姉さまは?」
「ええ、いま海外で活躍中!」
「え?」
「彼女、ヴァイオリニストで、世界中を飛び回っていて…」
「そうなんですか、それでグランドピアノが?」
「ええ、ときどき姉の伴奏をさせられていたんです…もちろん学生のときだけど」
「ふーん、うらやましいな…姉弟って」
「あやさんはひとりっ子ですか?…じゃぼくを姉弟だと思って!」
「え、美千夫さんと姉弟ですか?」
「いや?」
「いえ…美千夫さんおいくつ?」
「ぼくですか…ことし三十五です」
「え!わたしとおなじだ」
「…ほんとですか?」
「ほんとうです!」そう言って彼女はわたしの腕をつかみ、わたしを正面から見た。そして、「じゃ、双子ですね!」そう言うと、わたしの肩に寄りかかってきた。彼女の髪のいい匂いがした。
「双子!双子だ!わたしたち双子!」なんだかとっても嬉しいことがあったように、彼女ははしゃいだ。ただわたしたちの年齢が同じだっただけなのに…
「ぼくはあやさんより年下かと思ってた…」
「まあ、わたしはとうぜん美千夫さんより下かと!」
「とうぜん?」
「そう、とうぜん…図書館で、しかめっ面で…そして変な形の籠でしょ!」
「籠は年齢と関係ないと思うけど」
「ふふふ、わたしそうとう上のかただと思ってました」
「じゃ、あのコートかな?…変な色だし、古いし…」
「そうね、あのコートのせいかも…でも、ライの鳴き声が…わたし、きっかけが欲しかったのかな、この人となぜか話してみたいなと思っていたから」彼女はそう言ってわたしの腕を人差し指でつついた。わたしはぴくぴくと身体が震えた。嬉しかったのだ。彼女と出逢って、話をして、こうやってベッドに腰かけて、ふたりで同じアルバムを見て…
「これお母さま?」真ん中あたりに、母の若い頃の写真が数枚あった。
「綺麗!…美しい!」彼女は素直に感動していた。そして母の写真に見入った。
「母は若くして亡くなったんです、だから写真があまりなくて…でもぼくたちの心のなかには鮮明に母が残っていて、ほんとうにやさしい人だった…いい思い出ばかりで、もっと生きていてくれたら…ごめんなさい、あやさん、あやさんのお母さんもきっと心残りだったでしょうね、その気持ちよくわかります、わかるような気がします」
「ええ、ありがとう、美千夫さん…でも祖母がやさしかったから…こんど祖母の写真お見せしますね」そう言うと彼女はアルバムをぱたんと閉じて、もう帰らなきゃ、と言って、ベッドをおりて、バッグを持って、また来ますと言って、帰っていった。残されたわたしは、ぽつんとベッドの上で、膝を抱えて、ライとともに彼女の出て行った方向を見つめていた…車のドアの閉まる音が聞こえて、エンジンがかかり、走り去っていった。
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 次の日も雨だった。わたしはまた、お家へ向かって歩いた。気分は昨日のまま重く、足も重かった。まだわたしの大切なものがつぶされて残っているはずだった。もうどうでもいい気もしたが、でもあとで悔やむのもいやなので、あるだろうはずのさがしものをしに家へ向かって坂を登っていった。後ろでクラクションが鳴った。彼女だった。わたしは、突然に空が裂けて陽が射した嵐のなかにいるように、とまどった。
「美千夫さん、乗って」彼女は歯切れがよかった。わたしは右側のドアから助手席に乗った。彼女の車は左ハンドルだった。
「ありがとう、ふみさん」わたしは沼の底から救われたように感じた。
「今日は有休を取ったんです、美千夫さんのお手伝いしようと思って!」…
 ああ、あやさん、ありがとう、わたしを暗黒の泥沼から救ってくれて!いい人だ。
「美千夫さん、灰川家のお話、ご存知ですか?」
「いえ、詳しくは…」
「灰川家はこの町の名士で、村長や町長を代々務めてきたんですけど、ある時から没落が始ったんです。それって美千夫さんもご存知のお寺のこと。お寺をこの土地から追い出して、お屋敷を建てて…それからなの、町中に変なうわさが広まり出したのは…つまり幽霊が昼間でも出るって」彼女はいっきにそこまで話して、家の前で車を止めて、降りた。
 家はかなり解体が進んでいた。半日でずいぶんと壊して分解してしまうものだ。なにごとも潰すほうがたやすいのだ…あの森だって、破壊するのは一瞬だった。それがあの大きさに育まれるまでにどれほどの年月が経っていたことか…
 彼女はもうすでに瓦礫のなかを捜していた。わたしは申し訳ない気がした。なぜなら、わたしの大切な物って、たいていの人にとっては、ゴミと同じものだったから、彼女にそんなものを捜させるのは気がひけたのだ。それにこんな雨じゃ、ますます瓦礫と同化してしまっていたから。わたしにはそれが鮮明に見えたけれども。彼女には見えるだろうか…
「美千夫さん…これ、なにかの実でしょ!」彼女はすばらしかった!あのツクバネの果実を捜し出すなんて。四枚の羽根はひとつを残して折れていたけれども、彼女にはそれがわたしの大切なものだとわかったのだ。わたしはそれを受け取り、バッグのなかに入れた。彼女の捜し出したものはそれだけではなかった。わたしの代わりに、彼女は次々とわたしの大事にしてきたものを見つけた。特に書棚に並べていたグラスを!割れたものもあったけれども、そのかけらまでも見つけてくれたんだ。それらはわたしの母が大切にしていたもので、割れても、粉々になっていても、わたしにはもっとも大切な宝物だったのだ。彼女にはそれがわかったのだ。本能的にわたしを理解してくれているのだと感じた。
「これ、美千夫さんの?」彼女がノートを持ってきた。泥で汚れていたけれども、わたしのものでないことはすぐにわかった。わたしの字ではなかった。わたしも細かい字を書くけれども、もっとそれよりも小さく、ほとんど文字のようには見えず、オリエントの模様のように見えた。
「誰のだろう、どこにありました?」
「そこの床下から出てきたと…」彼女は作業員のひとりを指して、そしてあの部屋の床下を指差した。もう床はなく、ピアノが足を折って傾いている、あのあたりはいつもライが眠っていた場所で、猫用マットを結局そこに移してやったあたりだった。
「野川さん、これも落ちていました」その作業員がわたしたちに、厚手のビニール袋に入っている本を持ってきた。
「たぶんノートもこのなかにあったんじゃないですか…もう一冊これが」そう言って彼は、ぶ厚い日記帳をわたしに手渡した。表紙を開けるとそこに「灰川道緒」とサインがあった。彼女もそれをわたしの横から覗き込んだ。
「ああ、なんだかわたしと縁がある人みたい…」彼女はそれを手にとってめくっていった。同じ「灰川」という名前に、どこかで繋がっている、いや、繋がっていてほしいと思う気持ちが動いたのかもしれない。わたしと同じ、「みちお」という響きにも、何かを感じたのだろうか、わたしはそう思いたかった…
「これ、日記帳ですね」そう言ってわたしにそれを返し、わたしの手にあるもう一冊の本をとって、ページをめくっていった。裏表紙を開けた時、彼女の手が震えだした。ある一点を見つめている。わたしもそこを覗き込んだ…「灰川礼」とサインがあった。わたしは、彼女の手とともに震える本に、そっと手を添えた。
「なぜ?…どうして?…」彼女がつぶやいた。
「どうしたの?」わたしはたずねた。
「…これ、祖母の名前なんです…」そう言って彼女はそのサインを撫でた。
 そのときだった。雲が切れてひとすじの陽の光が地上にとどいた。もう雨は止んでいた。わたしの粉々になった「お家」のあたりを、太陽が照らした。
「見て!」わたしは彼女に言った。
「ああ…綺麗!…」彼女は光の道をたどって、天を仰いだ。
「こんなことって、あるんですね…ああ、素敵!」彼女は傘をたたみながら言った。
 光はしだいにその数を増やして、わたしたちも、作業員の彼らも、照らした。みんな上を見上げた。濃紺の雲のパズルが割れて、光のすじが幾重にも交差して、わたしたちすべてに光のヴェールを被せた。
 彼女は本とともに手を高くかざして言った。
「おばあさま…」
「あそこにおばあさまがいる…」彼女は天を指差した。わたしには見えなかったけれども、彼女には何かが見えたのだろう。わたしもその雲の動きを見つめた…ゆっくりとそれらは回転しながら、南の方へ移動して行った。
 彼女は、本を胸に抱いていた。
「その本、持って行きます?」わたしは彼女にそれをあげてもいいと思った。
「いいんですか?…」胸のなかにあるその本は、すでに彼女のもののようだった。いや、彼女のものになっていた。彼女の一部になっていた。母の胸に融け込もうとする子供のように…
「ぼくのものでもないですし…何か研究の材料になれば…」
「研究ですか?」
「ええ…だってあやさん、図書館員でしょ」わたしが笑うと、
「そうですね…でも美千夫さん、わたし図書館員じゃなくて、一応図書館司書ですのよ」
「司書?」
「そう、司書…ふふふ」髪の毛を左手で耳にかきあげながら、彼女も笑って言った。
 なんて可愛い人なんだろう。わたしは思った、この人と知りあえてよかったと。
 アパートの六畳間は、わたしの生活の雑多なものが置いてあった。そこにベッドを入れたので、つまりダンボールの山と、衣類と、ベッドが占めていたので、彼女を誘っても、狭いキッチンでお茶をすすらなければならなかったので、部屋に戻ったわたしは、彼女がことわってくれてよかったと思った。いったいどのぐらいここでの生活を送らなければならないのだろうか。わたしはひとりキッチンの椅子に座って、小さなテーブルの上の白い桔梗の植わった鉢を撫でていた。アパートから少し行くと可愛い花屋があって、そのお店の前でひとつぽつんと売れ残っていた白い桔梗をわたしは買ってきて、淋しさをまぎらわせていた。ライはわたしのベッドにまるくなって寝ていた。
 あのお屋敷跡には何か、人の考えの及ばない何かが能いているのかもしれなかった。これで三度目の事故が起きて、たぶん工事は大幅に伸びてしまうだろう。わたしはその間ずっと波立つような暮らしを続けなければならないのだろうか。このアパートもめいったが、ここを出て、わたしの、修理されたお家に帰ったのちのことを考えると、もっとめいってしまった。わたしはただぼんやりと、ライを眺め、窓のほうを眺め、この白い桔梗を眺めて、時を過ごした。
 彼女に会いたい…先ほど別れたばかりなのに、彼女に会いたくなった。だってもあれから一時間は経っただろうか。彼女は今何をしているだろう。病院になんの用があるのだろう。治療がなのか、お見舞いなのか…聞けばよかった。こんなに頭を悩ませるぐらいなら、いっそ、一緒に行けばよかった…それもたぶん無理なのだろう…ああ、人恋しい、なぜだろうか、雨が降るとひとりでは耐えがたい寂しさが湧き出してくる…青春期のわびしさがよみがえってくるんだ、このアパートでは…何もわたしを取り囲むもののないように、寂寞とした箱に詰め込まれたように、また、生きものの存在しない世界に落とされたように、さびしかった…
 誰かがドアをノックした。わたしは出たくなかったけれど、もしや彼女かもしれないと思い、ドアを開けた。あの男が立っていた。お家の図面を持って参りました、と言った。わたしは見てもわからないので、わたしが撮った家の写真…植物を撮ったときにフレームに入っていた家の写真を十枚ばかり渡して、同じ家にしてくださいと言って、彼を帰した。
 わたしはますます孤独になった。人と対面すると、その人間の消えたあとのことを考え、会った時から、もうすでに心が沈んでいった。
 もうわたしはマンション建設と関わりたくはないのに、しだいに向こうからじわじわとわたしのほうにそれが近づいてくるように思われた。あのお家に引越したばかりの時は、まだお屋敷の煉瓦の塀と、錆びた門扉とがあって、わたしとは隔てられた存在だったものが、ライが現れ、煉瓦塀は取り払われ、お屋敷を囲んでいた森も伐採されて、だんだんとわたしのなかにその土地の持っている魔ののようなものが流れ込んできたのだ。そしてついに、その力がわたしの家を壊し、わたしをそこから追い出してしまった。わたしは、あの土地に住んではいけないのか?もともとお寺の境内だった土地から、すでに供養されなくなった霊魂が彷徨っているのか…あの僧侶のお墓のように、うち捨てられた夢想が墓石となって、地面の下に無数に埋まっているのかもしれない。わたしだけではない。彼女もあの家を、追われたのではないけれども、出て行くように仕向けられたのだ、きっと。それに、ライの乗っていた石は、ひょっとすると墓石ではなかったのか、今はどうなってしまったのか…ふたたびわたしの心は重くなっていった。
 わたしは彼らの探してきたアパートに移った。坂を下りた所にある、六畳一間のアパートだった。別に狭い所には慣れていたし、苦情を言うつもりはないけれど、あの部屋のわたしの大切な小物たちを復元することは不可能だった。なんども足を運んでは、瓦礫の下から、少なくともわたしの手作りのものだけは拾ってきた。
 ある雨の降る日、傘をさして瓦礫をひっくり返していたら、彼女の車がやって来た。そして、車から降りて、傘もささずに呆然とわたしの「お家」を見つめた…ああ、今日は木曜日?だとしたら、あの日からまだ二日しか経っていないのか…わたしはもう一週間も二週間も過ぎ去ったように感じていた。
「野川さん、美千夫さん…わたし…」よく彼女の声は聞き取れなかった。わたしの耳がおかしいのか、雨が声をさえぎるのか、それとも、わたしの落胆した心が、彼女に眼を合わせたくないのか…いや、彼女に会いたかった。とても、ものすごく会いたかったんだ!わたしは彼女の方へ歩み寄った。そして言った。
「よく来てくれましたね、あやさん…これもひとつのシグナルですから、ぼくはそこから何かを学んで、ふたたび、この可愛いお家に戻ってきます、必ず…」わたしがそう言うと、彼女はわたしの腕を握り、手を握って、熱い視線をわたしにくれた。
「ニュースで聞いて、飛んで来たかったんですけれど、出張していて…ごめんなさい、美千夫さん…」ああ、やさしい人だ。わたしはこんなにやさしい人に出逢ったのは、わたしの母以来だと思った。わたしも彼女の手を強く握り返して…彼女を抱きしめたかった。ほんとうにその身体を抱きしめたかったんだ。でも心で彼女を抱きしめた。
 わたしは彼女の車に乗って、坂の下のアパートまで送ってもらった。お茶に誘ったが彼女はこれから病院へ行くと言って、そのまま去って行った。アパートの前で、傘の柄を肩に置いて、彼女の車を見送っていたわたしは、なぜか、泪がこぼれた。雨の日に泪を流すなんて、なんだか、空になったようで、違和感はまるでなかった。素直に泣けた。素直に泪が溢れた。
 わたしは、とてつもない音に目覚めた。クラクションが鳴り、人々の叫び声がして、すぐ近くで爆音が響いた。そのあともずっと高い警報音鳴り続けた。
 わたしの家は破壊された。わたしの、可愛いお家が!
 わたしはアトリエのとなりの部屋で寝ていた。ドアがゆるやかに開いて、そこから見える、あの彼女との楽しい一日を過ごす予定だった部屋が、ぺしゃんこになっていた。わたしは呆然とパジャマのまま廊下へ出て、その光景を眺めた。空は高く、すじ雲が綺麗だった。家の真ん中から、青い空を眺めることはそうめったにあることではなかったのだが、異様に黒い鉄の柱が、わたしの眼の前を横切り、裏庭の方へ伸びていた。なにが起きたのか初めはわからなかったし、まだ夢の途中のような気もしたが、ライがどこかで鳴く声を聞いて、わたしは我に返り、その鳴き声の方へ耳を向けた。どうも杭打ち機の下の方から聞こえた。作業員たちがどやどやとやってきて、口々に、大丈夫ですか、お怪我はありませんかと、土足でわたしのお家へ入ってきた。入ったというよりも、壊れた壁を乗り越えて侵入してきた。
 わたしは、大丈夫と言って、猫を捜してくださいと小さな声で訴えた。みんなは鳴き声のする床下の方にもぐりこんでいったが、しばらくしてあの男が、以前挨拶に来た男がライを胸に抱いて出てきた。
「よかった!あなたも猫も無事で!」そんな問題ではないと思ったが、ライが無事だったので、それを受け取りながら彼に礼を言って、少し微笑んだ。
 彼女との楽しい一日は、消えてしまった。わたしのこの部屋とともに。
 わたしは何をした?こんな罰を受けなきゃならない、何か罪でも犯した?…心あたりがないわけではなかった。これまで二回あった事故の死者に対してあまりにも冷淡だったから。そうだ、わたしの心は、彼らに対して冷たくなっていた。あの美しい森を破壊した罰は必ずあるだろうと考えたし、またそれを心の奥で望んでもいたんだ…ああ、自分も同じ人ではないか、神ではない人間なのだ、人に罰を願うなんて、とんでもないことだったのだ…その罰があたったのか、だとすると、ごめんなさいと、素直に、人々に、神に懺悔しなければならなかった。
 彼と、そしてその上司と思われる男がわたしの所へやってきて、平身低頭謝った。あまりにもその謝罪が大袈裟すぎると、怒りも、哀しみに変わって、心はさめざめとするものだ。とりあえず、もとのようにしてもらえさえすれば、わたしはよかったのだが、彼女のことを考えると、眩暈がした。吐き気もした。萎えていた怒りがまたむくむくと湧き上がり、わたしは深い息を、眼を固く閉じた。
 家を修理するまでは、どこかアパートを用意いたしますからだって!修理?これは修理か?家の半分を破壊しておいて、修理します?それは無理だった。つまり建て直しをしなければならなかった。みんなそれを知っていて、いかにも最小被害ですんだかのように言うのは、人間の性癖だろうか。
 でも、わたしは許した。自分の罪も含めて…誰にも言えない罪も含めて、彼らの罪を許してやった。
 その夜、わたしは爪を切っていた。何か考えながら切っていたのか、右手の薬指を深く切りすぎて、そこにお湯が沁みた。だんだん赤くなってもいった。深爪をするとなぜか何かが起きた。なにかのシグナルだった。きっと何かが起こるはずだと感じた。
 わたしはなかなか寝付けなかった。ベッドの上でブログの更新をして、ようやく三時頃眠りについた。
 夢を見た。彼女と、彼女の車でドライブをした。向こうに大きなお屋敷があった。総二階建てで、屋根のところどころに槍のように突き出た煙突が見えた。車が角を曲がると、美しい薔薇園だった。車で次々と薔薇の茂みをくぐり、くぐってもくぐっても薔薇のアーチと薔薇の垣根が続いた…ああ、綺麗!彼女が手を差しのべて言った。わたしもライを膝にのせて、うっとりと薔薇の香りを楽しんだ。窓から手を出すと、薔薇の棘がわたしの手のひらを引っ掻いた。それでも手を出し続けていると、こんどは腕を裂かれた。みるみる血がしたたり、後ろに飛ばされていった。わたしはそれをじっと見ていた…急に車が止まった。運転席がつぶれて、彼女の姿はなかった。あの巨木が倒れていた。車を半分つぶして、彼女をどこか見えないところに沈めてしまった…クラクションが鳴り止まなかった…
 わたしはそれからも、ライを籠に詰め込んで図書館へ通った。彼女の前を通るとき、わたしが軽く頷くと、彼女はくちびるに人差し指をあてて、わたしと籠のなかのライに合図を送った。わたしは微笑んでいつもの指定席に座り、時の過ぎ去るのを待った。ナンキンハゼの葉は真っ赤になっていた。その赤い葉のあいだに白い種子が、葉のそよぐたびにあちこちに見えた。
彼女が一冊の本を持ってきてくれた。
「野川さん、この本ご存知ですか」わたしはそれを見た…ああ、ルドゥテ!わたしが植物画の神と崇める、ルドゥテ…そのユリ科植物図譜だった。いちど、ギャラリーに併設された書店で見たことはあったが、ただ手にとって、手でさすって、書棚にそっと戻したんだ。その本だった。
「ええ、いちどどこかで見たことありますけど…買えなかった」だって数万円もする復刻版なんて、わたしにはとうてい無理だった。その本が今、彼女の手からわたしの手に渡されたんだ。昔の本の大きさはなんて心地いい、大きさと、重量感と、色合いなんだろう!わたしはうっとりとした。なかを開くこともせず、ずっとその表紙を眺めていた。見かねた彼女が本をテーブルに置いてくれて、一ページ目を開いた…ああ、ジョゼフィヌ!傲慢な女性のように言われているけれど、その欲望が植物蒐集に向いたとき、たぐい稀なコレクションをマルメゾンに創りあげたのだ。膨大な、薔薇や球根植物のコレクション、多肉植物のそれや、画家や、園丁たちのコレクションも、一流のものを集めたのだ。そのひとり、ルドゥテは、ジョゼフィヌのコレクションを次々と描いていった。いまで言うユリ科やヒガンバナ科やラン科をはじめとするこの単子葉植物図譜は、ほんとうに美しかった。わたしはふたたびこれを眼にして、ふたたび感動した。細密度と省略度の絶妙なバランスと、透明水彩のやわらかさと鋭敏さ、そして完璧な構図…ああ、もはやわたしは描くまいと思った。そうふたたび思った。
 彼女が一ページずつめくっていくと、わたしはしだいに力が抜けて、悲しい顔になっていった。それとともに彼女のめくる速度も遅くなり、ついに、わたしがもっとも美しいと感ずる、Iris arenariaのところで止まった…ため息が出た。葉が完璧だった。わたしもIris属を多く描いているけれど、こんなにも繊細でやわらかく、美しい絵画の葉は見たことがないと思った。たぶんIrisの葉を描いた者にしかわからない、この葉の微妙な曲線と色と、平行脈葉の魅力を的確に捉えていた。
 わたしは顔を両手で覆った。彼女が横に座ってわたしを見ていた。そして、そっとわたしの腕に触れた。彼女のやさしい心が伝わってきた。
「もうすぐお昼ですね…今日は外でランチしましょう!」彼女が明るく言ってくれた。
「…ありがとう、素敵な本を」
 わたしたちは、ナンキンハゼの下のベンチに座ってお昼を食べた。彼女がサンドイッチとライの餌を持ってきてくれていた。朝のメールで彼女がそう言ってくれたんだ。ときおり、紅葉した葉が降ってきた。彼女はそれをひとつ取って、わたしの手のひらに置いた。
「ありがとう…灰川さん」
「あやと呼んでください…みちおさん」ふふふと彼女は笑って、トマトを頬張った。わたしもトマトを口に入れて、ふたりで顔をあわせて、微笑んだ。
「あやさんは、なぜあの家を出たんですか」わたしは率直に聞いてみた。
「祖母の介護で…」彼女は下を向いて、そう言った。
「そうだったんですか…今も?」
「いえ、数年前に祖母は亡くなって…今は…」今は?わたしは聞きたかったけれど、聞かなかった。彼女もそれ以上はなにも言わなかった。
「…じゃ次のお休みの日から、ボタニカル始めます?」わたしはきわめて明るく言った。彼女も微笑んで、
「ええ、お願いします」と明るく答えた。

 それからという日々は、なんとわたしをうきうきとさせたことか。今まで何度か個人レクチャーしたことはあったが、まったく意味が違っていた。意味が?そう意味が!だって、彼女とこの「お家」で過ごすことは、わたしの生きる意味を二倍にさせたんだからね。
 わたしは最初の木曜日を待った。準備のために図書館へも行かず、レクチャールームをこしらえた。東側のいちばん広い部屋を使うことにした。そこに机と椅子を並べ、わたしも彼女と一緒に描けるようにした。
 雑然とした小物類は、フェイク暖炉とピアノの上に綺麗に並びかえて、丸テーブルにはすぐにお茶を出せるように、カップとティーポットを置いた。
 彼女用の色鉛筆も揃え、紙も小さく切り、カルトンも、モデルを挿す小瓶も、すべて準備した…でもあと三日もある。
 わたしは、自分の仕事が手につかなくなった。最近はほとんど出かけていたので、描くことはまれだったが、このところ家にいて、仕事机の前に座るけれども、どうしても色鉛筆が紙の上をすべらなかった。あの騒音のせいもあったが、彼女のせいでもあった。彼女のことを考えだすと…あの事務服とめがねの女性と、わたしの家での彼女とのギャップがいつもわたしを夢のなかへ誘ったから、仕事が手につくはずもなかった。綺麗な長い指と、形のいい爪と、人差し指の指輪と、そして、左手に持つ色鉛筆…その手を早く見たかった。彼女の姿を、わたしの家での姿を、夢想した。
 彼女の来るはずもない、窓から見える向こうの道を眺めては、ため息をついた。
 突然、その夢を破る、騒音が響いた。また杭打ちが始まったのだ。ここ数日は、その作業はある原因で止まっていた。また事故があったのだ。パイルを運んできたトラックが横倒しになり、作業員数人が下敷きになって死んだ。わたしは図書館の新聞でそれを知ったのだが、たぶん予感のようなものがあったのか、なんの感情も動かなかった。ただ、命を落とした作業員には、お屋敷に向かって手を合わせてやった。
「入りましょうか」わたしは彼女を家のなかへ誘って、いちばん西側のアトリエに案内した。窓を閉め切って、騒音を遠くにし、なにか音楽をかけて、耳をまぎらわした。
「絵をお見せしましょうね」わたしは、植物画を箱から取り出して彼女に見せた。ペキンライラックの若い果実を描いたものだった。
「ああ、素敵…なんてグリーンが美しい!」食い入るように、絵に顔を近づけて彼女は見ていた。今までにわたしの絵を見て、色を美しいと言った人はいなかった。たいていは、細かいですね、とか、写真のようですね、と言って、色を感じてくれた人は、彼女が初めてだった。
「まだこれは未完成で、いつか花を描き入れる予定なんです」
「…」彼女は聞いていなかった。彼女の膝の上のライが、額のガラスに映り込んでいた。そこが気にいったんだろうね、とても気持ちよさそうだった。わたしだって、彼女の膝に抱かれたかったのに…
「これ、なにで描いてあるんですか?」彼女はその美しい爪で絵を指差した。
「色鉛筆です…」
「ええ!…色鉛筆?」ふたたび絵を食い入るように見つめた。
「なにで描いてあるのか、わからなかったんです…図書館のボタニカル・アートの本、すべて見てるんですけど…わからなかった」絵を見ながら彼女は言った。その息がガラスを白く曇らせていた。 
「これです、この色鉛筆で…」わたしは彼女に、ドイツ製の色鉛筆を数本手渡した。少し、指が触れた。わたしの心臓が熱くなった。
「ああ、綺麗な色!…」そう言って色鉛筆を左手で握り、描く風をして見せた。彼女は左利きだったんだ。シフォンケーキを上手に左手で食べていたから、もしや、そうかなと思っていたけれど。
「わたしも描けるかしら…」わたしに絵を返しながら、色鉛筆の文字を読んでいた。
「やる気さえあれば、誰でも描けますよ」彼女がこちらを向いた。
「野川さん、教えていただけますか?」わたしは彼女から色鉛筆を受け取りながら、頷いた。
「ええ…やってみますか!」
「ええ、やってみます!」彼女の顔が、一面のボナールの絵となって輝いた。

 訪問の約束をして、図書館を出たわたしは、なんだかいつもと違っていた。傘を高くかかげて、大股で家路を急いだ。わたしは単純だなと、自分を笑ってやった。日頃、人恋しいなんて思うこともなかったのに、環境の変化は、わたしの心に空洞をうがち、それに蓋をするべく、なにかを探し求めさせたのだ。そして、ライのくしゃみのおかげでその蓋をあの女性が演じてくれそうなことを考えると、帰り着いたら、ライを抱きしめてやらねばと思った。あの女性の胸の匂いがまだ、ライの身体に残っているかもしれないと思いながら…

 その日はやってきた。休館日の木曜に彼女はやってきた。よくは知らないけれど、たぶん英国製の可愛い車を運転して、家の前で止まった。わたしは車を持たないので、駐車する場所は門の前しかなかったが、彼女はそこにぴったりと寄せて、上手に止めた。ドアを開けて降りてくる彼女を見て、わたしは眼を疑った。ほんとうにあの女性だろうかと。長い髪を肩から背中に垂らし、サングラスをかけ、短いフレンチベージュのワンピースからすらっとした脚を出していた。
 わたしは玄関から、ライといっしょにその姿を見ていた。彼女はサングラスをはずしながら、お屋敷の方を見た。元お屋敷は、今では鉄の柵で囲まれ、その開いたゲートからは、たくさんの資材と、杭打ち機の鉄塔が見えていた。彼女は首を横に振って、肩でため息するのが見えた。
 彼女はわたしたちの方へ歩いてきた。そして言った。
「あの森はどうしたんですか?」…なんだかわたしが責められているようだった。
「…」わたしはたぶん悲しい眼をして彼女を見た。
「あのオガタマノキは?」わたしはそこにいたたまれなくなり、家のなかへ入っていった。彼女は玄関ドアのところに立っていた。
「…どうぞ」わたしはそう言うのがやっとだった。あの木の精がいっきにわたしに流れ込んできて、わたしの心も身体も、冷たくさせてしまった。
「…失礼します」彼女が上がってきた。そしてまたあの時の笑顔にもどって、
「可愛いお家、そのままですね…」そう言って部屋を見渡し、うれしそうに微笑んだ。わたしも彼女の笑みを見て、ふたたびもとのわたしに帰った。
「どうぞ…こっちでお茶をしましょう」わたしはそう言って、彼女をテラスに案内した。すでに小さなテーブルの上には、ティ・コゼとカップを揃えていた。
「わあ!…」彼女はわたしの庭を見て、喜んだ。
「そのままですね、わたしがいた時のハーブ花壇…うれしい」彼女はそう言って、裸足のまま庭へ下りた。そしてハーブをちぎって匂いを嗅いだ。
「この花壇は…あなたが作られたんですか?」わたしは聞いた。
「いえ、わたしがここをお借りしたときからあったんです…でも、少し木々が増えました?」そう言ってわたしの方をふり向くと、彼女の黒い髪が回転して、陽の光に輝いた。
「そうですね…わたしは現在樹木をモデルにしていて、少しずつハーブを追いやってしまって…」わたしは彼女へハンカチを渡しながら言った。
「あ、ごめんなさい、わたしったら裸足のままで」彼女はそう言いながら、テラスへもどって、椅子に座り、足の裏をわたしのハンカチではらった。
 長く美しい脚がまぶしかった。
「あの…」
「あ、ごめんなさい…野川さん、わたし自分の名前を言うの、忘れてました…わたし、灰川文と言います、よろしく」
「わたしの名前は…」
「先ほど表札を見ましたの…野川美千夫さん…いいお名前ですね」
「…わたしの名前が?」わたしは微笑みながら彼女に聞いた。
「ええとっても…響きがいいです」
「灰川文さんは…あのお屋敷の、昔の…」
「いいえ、あのお屋敷の灰川家とはまったく関係ないんですけれど…わたしもその話をうかがって、興味を持ってしまって、それでこの家を借りることにしたんです」
「そうなんですか…奇遇ですね」そう言ってわたしはお茶を注いだ。
「これ、素敵ですね」ティ・コゼを手に取って、やさしくさすった。
「わたしの手作りです」
「え…野川さんが作られたんですか?」
「はい、趣味で手芸を少々」
「ふふ、可愛い」彼女の笑みがこぼれた…こんなに美しい人だったのか…わたしは彼女の首を見た。いままでワンピースの襟が内に折れて、その首もとは見えなかった。でも風が吹いて、彼女のそれを、そして白い胸を少しはだけさせた。そこにはターコイズをところどころにあしらったラリエットが鎖骨の下で一回結ばれて下がっていた。
「わたし、ターコイズとかのブルーの石が好きなんです」そう言って彼女はラリエットに触れた。
 ああ、わたしと同じブルーマニアだろうか…わたしは、キャットニップのベッドからもどってきたライを彼女に渡しながら、そう思った。
「ライ、いい匂いさせてるでしょ」
「ああ、ほんとだ、キャットニップ?」彼女はライを持ち上げて、その頭を嗅いだ。
「この子、ライと言うんですか?」
「ええ…嘘みたいな猫でしょ、それで…眼が…」
「ふふ、なかなか綺麗なお眼々、見せてくれないですのね、ライちゃん…」
 彼女はライの鼻に自分の鼻をすりよせて、顔を覗き込んだ。ライが「にゃぁ」と一声鳴いて眼を開いた。ああ、わたしにはそんなことは一度もなかったのに。つまり、わたしの手のなかで、鳴いて、眼を見せてくれたことなんて…
「ああ…綺麗!なんて綺麗な眼なんですか!あなたは」
 そう言って彼女はライとにらめっこを続けた。ライはずっと眼を見開いて、彼女の眼を覗き込んでいる。わたしは、嬉しいと同時に、なぜ?という気持ちも湧いている。なぜライは彼女にその眼をずっと見せているんだろう。わたしにそんなにも見せてくれたことはないのに。やはり、猫好きは猫がいちばん知っているから?わたしは軽い嫉妬を覚えた。わたしが猫好きではないことをライは知っていた?ではなぜわたしのところへ来た?わたしがその眼を見たいがために、その眼を、自分のものにしたいがためだけに、おまえをここに連れてきたことを、知っているのか…
「ああ、右眼も青くなった!」
「え?そんな…」わたしは立ち上がって、彼女のそばへ行った。
 彼女の顔の横にわたしの顔を近づけて、ライの眼を見た。でもグレイのままだった。彼女がわたしの顔を見た。わたしも彼女を見た。十センチの距離で…彼女の眼に、ライの青い眼が映り込んで、彼女の眼が青く見えた…わたしは眩暈がした。そこにひざまずいて、テーブルに手をついた…
「野川さん?…」彼女の手がそっとわたしの背中に触れた。
「ごめんなさい…ちょっと眩暈が…」わたしは、そのままでいたかったけれど、立ち上がって、自分の椅子へ戻り、そして、片手を顔にあてて、彼女とライを見つめた…なんてしっくりしているんだろう、ふたりは。絵のようだと思った。ボナールの光のなかに居る、ふたり、彼女と猫と、庭の静けさと、真珠の輝き!…ああ、こんな場面を、いままでにどれだけ夢想したことか。彼女の変身と、ライの変身と、そしてわたしの開放!…
 彼女はライを膝に抱いたまま、わたしの焼いたりんごシフォンを食べていた。右手はライの頭を撫でていて、左手で上手にシフォンをちぎり、口に運んだ。わたしがその様子をじっと見ているので、彼女は少し恥ずかしそうにしていたが、わたしに見つめられることよりも、ライが膝の上にいることのほうがまさって、彼女を自然に振舞わせたんだ、きっと。
 わたしは、恋をした。ライ以上に彼女へ心が傾いていった。事務服と眼鏡の彼女と、いまわたしの眼の前にいる、ミニワンピースの、長い髪の彼女と、まるで、地味な蛹が蝶に変身したように思えた。ライのぐちゃぐちゃの色彩のなかに、青い宝石が現れる、そのように!
 ふたたび、お屋敷跡の空き地に、巨大な建設機械がやってきた。それは、とても凝視できないほどに高く天にそびえ、その天のまぶしさに、くらむように真っすぐ立っていた。
 数日前、責任者らしき男が、工事中ご迷惑をおかけしますと、タオルを一枚持って、挨拶に来た。あの男だった。倒れた巨木の前で手を合わせていた男。感じのいい青年で、わたしとあまり変わらない年齢だろうか、自然な笑みが、その日焼けした顔を柔和に見せていた。わたしはライを抱いて玄関に出たが、ライを見てもその青年の笑みはまったく変わらなかった。そう、わたしが何を腕に抱いているのか、一瞬わからなかったのかもしれないが、それが猫だとわかったあとも、少しも表情を変えることなく、わたしに一礼して帰っていった。たぶん、心のなかでは、さまざまな感情が湧いていたのだろうけど、おくびにもそれを見せない顔は、多少の経験を積んできたのか、それとも経験不足のために、なんて言っていいのかまるで戸惑ったままであったのか、わたしにはわからなかった。
 その青年と、工事関係者が次々とトラックから降りて、空き地の中央に集まっていった。すでに測量も済ませていたのか、迷うことなく、杭打ちの場所を指定していた。
 それからの日々は、わたしは、騒音と、それにともなう地面の揺れで、絵を描くどころではなくなってしまった。音を聞こえなくする方法は、この場所から遠く離れるしか手はなかった。しかし、家の購入にわたしの全財産を使ってしまった今、どこにも行くあてはなかった。だから、耐えるしかなかった…人はだれしも、今の環境がそのまま続くと信じ、また、続くべきだと考えていて、もしそれが変更を余儀なくされるとすると、その心の修正はなかなか厄介なものなのだ。わたしもあきらめから、かなりそれを耐えようとしたが、無理だった。たぶんこの杭打ちは、永遠に行なわれるのではないかと思われるほど、長く続いたんだ。くる日もくる日も、鉄柵で囲んだ空き地のなかで、何かわたしを殺すための装置を作りあげているような、そんな気さえしてきた。
 仕方ないので、わたしはライを籠につめて、町の図書館へ行き、窓の外の、紅葉をはじめたナンキンハゼを見て一日を過ごした。毎日やってくるわたしを、図書館員の女性が、わたしをちらと上目遣いに眼鏡越しに見ては、またパソコンに首をつっこんでいた。
 この図書館でもっとも楽しい場所は、このナンキンハゼのそばと、そして、この地域の文献を集めた閲覧室だった。そこには、あらゆる分野の資料が揃っていて、歴史のとなりの生物の本棚がわたしの場所だった。寺社の樹木や、絶滅危惧種や、高校の先生たちによるフィールドノートは、とても面白く読むことができた。その静けさのなかでは、あの騒音や地響きは、まったくわたしには縁もゆかりもないものになっていた。ただ、ライがあの図書館員に見つからないか、それだけが心配の種だったけれど。幸い、ライはとてもおとなしく、めったに鳴くこともなかった。ときどき籠のなかを覗いては、少し頭を撫でてやっていた。 
 ところがある雨の日、ここに来るまでに傘のふちから雫がライの身体にふりかかったのか、ちょうどあの図書館員の前を通るときに、ライがくしゃみをしたものだから、眼鏡の奥からぎろっと睨まれて…申し訳ございません、ペットは入館禁止になっておりますが、と言われて、しかたなくバックして、トイレの前にある長椅子に腰掛けて時間を過ごしていた。お昼になって、持参したランチを食べようとしていると、あの女性がわたしの所へやってきて、それもにこやかな顔で…いつものしかめっ面とは大違いの…顔で、わたしのそばへ座り、
「猫ちゃんですか?…見せてもらってもいいですか?」と言った。
「はい、どうぞ…ごめんなさいね、いつもご迷惑を…」わたしはなぜかしら謝っていた。
「いえ…わたし、知っていたんですけど…なにかわけがおありなのかなと思って…」そう言って、彼女は籠のなかを覗いた。
「まあ…」あとの言葉がなかった。わたしの顔を見た。わたしは苦笑いのような笑みを、たぶん浮かべていた。
「ふふ、こんな猫ちゃんはじめて見ました」そっとライに手を伸ばした。ライが顔を上げて、彼女を見た。
「まあ…なんてきれいな眼!…」女性はライを抱き上げてその胸に抱いた。ライはおとなしく抱かれていた。でももう眼は閉じていた。彼女はもういちどその眼を見ようと、ライの頭を撫でるけれども、ふたたび眼を開けることはなかった。それはまるで、一瞥で、その人間のすべてが理解できたかのようだった。
「あちらでご一緒にお昼、いかがですか?」彼女は親切にわたしを事務所に誘ってくれた。
「ありがとうございます、少し寒くて… …たすかります」わたしは素直にその申し出を受けた。他に数人の職員が昼食をとっていたが、わたしたちをちらと見ただけで、また机の上に眼を落とした。
「わたし、猫ちゃん大好きで…おうちでも二匹飼っているんですけれど」
彼女はいい人だった。人は笑顔になると、その人となりがよく解かるものだが、彼女の本当の顔は、この優しい笑顔のなかにあった。仕事中の彼女は、わたしより年上に見えたが、眼鏡を外すと端正な顔立ちと、黒々とした髪の毛を後ろにたばねている姿は、彼女を若く見せた。
「最近、いつもいらっしゃいますね、なにか調べておられるんですか?」
「いえ、その、時間つぶしに…」わたしはサンドイッチを口に運びながら言った。
「この町の方ですか?…あ、いえ、そういうつもりじゃ…」彼女は一人で質問をして、そして謝った。
「いいんですよ、別に…あの丘の上の、お屋敷のあったその前に住んでいます」
「まあ、あの可愛いお家に?」彼女は箸をくわえたまま眼を丸くしていた。
「はい、あの可愛いお家に…」わたしも、ほほえみながら同じことを言った。
「…わたし、あのお家に住んだことあるんです」
「え、ほんとうですか?…それは…」
「まだ赤い窓ですか?」
「ええ、そのままです」
「ああ、懐かしい!」彼女が大きな声でため息を漏らしたので、他の職員たちがいっせいにわたしたちふたりを見た。
「でも…でも、いま、大変なんです…」わたしは口ごもった。
「え、なぜ?」彼女の顔から笑みが消えた。
「…いちど、いらっしゃいますか、そうするとすべてがわかります」わたしはいい考えを思いついたと感じた。彼女を家に誘って…いままでだれひとり友人として訪問したことのない…ライ以外の…人とお茶をしたかった。
「…」彼女は少しためらっていたが、ライをもういちど抱いて、決心したようだった。
「いいんですか…おじゃましても」
「もちろんです…わたしは植物画を描いていて…たぶんご存知ですよね、ボタニカル・アート、それも見ていただきたいな」
「ああ、ボタニカル・アート…わたし大好きです!」彼女の眼が輝いた。真っすぐな睫毛の、美しい眼だった。
 …それがほんとうかどうか、そんなことはどうでもよかった。わたしの淋しさを紛らわすためなら。これまで淋しいとか、孤独だとか、わたしはちっとも感じなかったけれど、今は、あの工事こともあって、あの場所から阻害された自分をなにかで埋めたかったのかもしれない。この女性がわたしの可愛いお家に来てくれるのならば、それは最高の詰め物、わたしの心の穴の詰め物になってくれるはずだったから。
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