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michianri

Author:michianri
せつない 想い…
つたない ことばたち…
やりきれない 心…

『詩片日記…薔薇園…片想い』

第一章『詩片日記』
surrealiste
 hypochondrie
    ~prologue
       灰川道緒

第二章『薔薇園』
     
       鵜沓 綾

第三章『片想い』

       野川美千夫  

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(c) 片想い…
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せつない ラヴレター つたない ことば やりきれない 日々… 


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 「ライ」がテラスを通って戻ってきた。またハーブに身体をこすりつけて、いい匂いをさせている。ほとんどその眼がどこにあるかわからない顔だったが、舌を出して自分の脚を嘗め出すと、眼の位置、鼻の位置がだいたい見当ついた。
 この猫がどのようにしてこの家にやってきたか、知りたいですか?…そう、ではお話しましょう。
 わたしがある日、家に続く坂道を登ってきたとき、その角を曲がるとわたしの可愛いお家が見える寸前、お屋敷の薮の方で、猫の鳴き声が聞こえたんだ。わたしはお屋敷の正面に回り、壊れた鉄の門を通って、右側に広がる薮を「猫ちゃん…猫ちゃん」と呼びながら、さがした。昔は薔薇園だったという話だったが、薔薇のような木は一本もなく、常緑、落葉さまざまな灌木が生い茂り、簡単にはなかに入り込めないほどの薮になっていた。
 わたしは、薮の切れ目をねらって入っていったが、猫の鳴き声は、近くで聞こえるようで、遠くで鳴いているようで、ちっとも距離感がつかめなかった。そのうち、二十メートルぐらい行った所に、ぽっかりと空いた場所があって、真ん中にぽつんと人の指の先の形をした石があり、その上に、油汚れを拭き取ったような雑巾がおかれてあった。その雑巾が動き出して、わたしの方へ顔と思われるものを向けて、「にゃ…」と鳴いたんだ…ああ、これだったのか、猫は!猫?とても猫には見えないけれども、たしかに鳴き声は猫だったので、猫であることをわたしは素直に信じてやった。その猫のような小さなかたまりは、石の上でじっとして、わたしを見つめていた。わたしを見ても逃げないので、野良猫ではないなと思いながら、少し近づくと、目玉をかっと見開いて、わたしを睨んだ…なんと、片眼がブルーだった。ひどい顔のなかに宝石を埋め込んでいたのだ。わたしは一気に惹かれてしまった。このぼろ布のような猫を連れて帰ろうと思った。そっと手を伸ばすと、なにも抵抗せずに、じっとしている。抱きかかえると、やわらかで、あたたかく、わたしのなすままに、Uの字の逆さに曲がって、わたしの胸に来て抱かれた。
 なんだかとても安心したような表情で…ぐちゃぐちゃの色合いで定かではなかったけれど、なんとなく、安堵した顔をして、わたしの胸に頭をこすりつけてきた。わたしは薮を再びくぐって、この猫をわが家へ連れて帰った。
 とてもおとなしい猫で、まだ子供のようだったが、わたしが鉛筆を垂らしてからかっても、まったくのってこなかった。ただ、青い眼を一瞬見開いて、わたしを見た。わたしもその眼を見たいがために、色々と手を出してみるけれども、その眼を簡単に眺めさせてはくれなかった。すぐに閉じて、自分のなかへ閉じこもっていった。
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 わたしはひとり暮らしだったけれど、一匹ほど、変わった顔の猫がいた。「ライ」と呼んでいたが、例えると、黄土色とチョコレート色と黄色と黒と白を顔の上に垂らして、シャンプーしたような、つまり絵の具箱のなかでミキサーにかけたような猫だった。その「ライ」と二人暮らしだったが、前のお屋敷跡にマンションが建つという噂に、少し、いや、正直に言うと、大いに憤っていたのだ。まあ、三階建てぐらいのアパートならまだ許せるけれども、十五階建てのマンションアパートと聞いて、ああ、わたしの理想郷的暮らしも終わりだと、思ったのだ。だってそうでしょ!北側で日照権の問題はないとしても、玄関へ出るたびに、眼の前の十五階建ての壁を見上げて、ため息をしなくちゃならない生活なんて、わたしをどん底に突き落とすもっともいい方法と考えられたから…少なくとも、お屋敷の周りの美しい樹木でもあれば、わたしの眼に入る景観も、マンションの住人にとっても、多少はましだと思えるのに、無残にも、ばっさりと、すべて切られてしまった。でも、きっとこの建設会社には天罰が下るだろうと、わたしはいいほうに考えた。
 あきらめのつかない行為だったけれども、まあ、仕方ないかな、わたしの土地でもないし…わたしの土地だったら、今頃はいにしえのような「薔薇園」にして、町の人に開放し、楽しんでもらっていただろうけれど…わたしごとき、貧乏絵描きがなにを叫んでみたところで、受けとめた大きな矢を、へし折るだけの力もないな、と思って、わたしはそのことは考えないようにした。

 昔、お屋敷があったというこの広い土地の向かいにある、お家(うち)に住んで6年目のことだった。一目見てわたしは気に入ったのだ。
 白い壁に、赤いふちの窓、屋根はわたしの希望で、スペイン瓦に葺き替えてもらって、オレンジ色がまぶしかった。庭は、落葉樹がぐるりと取り囲み、なかはハーブ園になっていた。「園」というほどの広さではなかったけれども、三十センチほどの高さで石組みされた花壇が、可愛い形のパズルになっていて、それぞれにグレイグリーンや、シルバーグリーン、エメラルドグリーンのハーブたちが、ふちからこぼれ落ちるように育っていた。テラスに座ると、わたしは極上の香りに包まれて、しばし眼をつむって、夢想を楽しんだ。

                   (第三章 始まります)

   『片想い』       野川美千夫             

 わたしはなにか大きな物音で目覚めた。なんということだ。お屋敷跡に、巨大な重機が入って、次々に樹木を倒し始めていた。東側の桜の木も、ライラックも、すでに見えなかった。西側のユリノキとホオノキにも、人が群れている。そして門のそばの巨大なオガタマノキも、誰か見上げている。…ありえないことだった。この巨木はこの一帯の守り神のような木なのに、ほんとうに切り倒してしまうのだろうか…わたしは唖然として、玄関前に立ちすくみ、それを見続けていた。…お屋敷のレンガの塀も、もとは薔薇園だったという広い薮もすべて、なにもない平地にされてしまうのだろうか。あのうわさはほんとうだったのだ。
テンプレ
「わたくしは看護師の、文野(ふみの)ゆきです…これからよろしくお願いいたしますね」…ああやっぱり「あや」の声だ、まちがいなかった。あやは生きていたんだ。ふふふ、あやちゃん!あや!わたしのあや!…わたしも生きている、母も?母も生きている?お母さん?お母さんはどこ?…あなたのお母さまはここよ!「じゃ玲さん、お身体を拭きましょうね」
 部屋の隅で見ていた看護師たちは、帰っていった。車の音が耳に残った。

 わたしはお家に帰り、「文野ゆき」という「あや」にお世話になるのだ。となりに母もいた。ミントブルーの母がいた。見えないけれども、その心臓の音が聞こえた。わたしは手を伸ばした。あった。母の手が、腕が、あった…
「りょうさん、なに?」ミントブルーの「あや」だった。「あや」の腕だった。

 …あや!あや!「あや!」わたしは叫んだ!…
「しっ!」あやがわたしを制して、わたしの耳に言った。
「おかえり、りょう!」…やっぱりあやだった。ほんもののあやだった。いやほんとうは、にせものの「あや」だった。まあ、どっちでもいい。あやが生きていたんだ!…どうして?どうして生きていられたの?…「ふふふ、りょうちゃん、わたしがドジを踏むわけないでしょ!身代わりよ、身代わり!…優子の子供の「ゆき」にわたしの代わりにあの世へ行ってもらったんだ、うまくやったでしょ!ねえ、りょうちゃん、なんとか言ってよ!」
…わたしはうまく口が聞けないので、手を握りしめて、返事をした。あやちゃんわかった、わかったよ!わたしのかわいいあや!…母が、唸っている、なんだか変な声で。
 母はいったいどうして寝ている?わたしと同じようにベッドに寝ている?…あやが身体を拭くのを途中で置いて、わたしの手を胸の上に組ませていたので、横向きのそのままの姿勢がつらくなったのだろう、唸ったあと、ばたんと仰向けになって、首がわたしの方を向いた…目玉は白く、唇は腫れあがり、白い髪の毛はさらに白く、プラチナのようだった…お母さん…わたしは泣いた、こんな人、お母さんじゃない、お母さんがこんなことになるはずないじゃない、ちがうちがうちがう…母じゃない、別の母がそこにはいた。


 わたしたちの生活は単調なものだった。くる日もくる日も、ベッドの上がわたしたちの世界のすべてで、部屋の壁も、天井も、窓から見える木々も、貼り付けられた壁紙でしかなかった。
 あやだけが、その貼り絵のなかを飛びまわる蝶のようで、わたしたちの生きるすべてだった、生きていく心の力となった。
 あやは、常にわたしたちに献身的だった。そのすべてにおいて心を感じた。こんなにいい子はいなかった。こんなにも可愛い子はいなかった。わたしたちにこんなにも心をこめて、自分の身をささげ、介護してくれる人は、他にはいない…あや、あや!ありがとう…


 ある日、あやがわたしの手を握り、言った…「あなたたちふたりは、心中しようとしたの、お風呂で…たまたまあの刑事が来て、あなたたちふたりを発見して助けてくれたのよ、母もあなたも一命は取り留めたけど、お母さんは、こういう状態、あなたも寝たきり…でもあたし、あなたたちの面倒を見る、だってあたし看護師なんだから…あれから十年も経っているの、りょうちゃん、…そう、十年…あたし、少し顔を変えて、看護師学校へ行って、資格を取って、そうしてここへ戻ってきたの!わかった?りょうちゃん、あなたたちふたりのところへ、戻ってきたのよ!ついに…」

 …ふふふ、そうだったの、あや、すばらしいわ、わたしたち三人で、永久に暮らせるのね、三人で、三人で…お母さんと、わたしと、あやと…でも…

 …でも、こんな姿のわたしは、つらい…母も、つらい?…このまま、この姿のまま、あやの支えのみで、生きていく、わたしは、わたしたちは…

…ふたたびわたしの意識が遠のいていく、どんな喜びも、哀しみも、ベッドの上では、味のないお砂糖に変わってしまう…甘さも、苦さもなくて、ただ、舌の上をざらざらとして、砂のようだった…

 …わたしは、眠った…しずかに…ゆっくりと…深く……

                          第二章 終り

「鵜沓さん、鵜沓りょうさん、起きて!」わたしの大好きな、白い人々がやってきた。またわたしの身体をすみずみまできれいにして!棒のような、わたしの身体!ん?先生だ…先生がいる。白衣のポケットに手をつっこんで、白い人々を監視している…
「鵜沓さん、退院ですよ、さあ起きて!」わたしが退院?じゃ病院にでもいるのだろうか?ああ先生!先生はわたしの先生?ねえ先生、わたしどこか悪いのですか?悪かったのですか、もう退院してもよろしいのですか?…
「さあ、着がえましょうね…かわいいお洋服がとどいていますよ!」
 白いひとりが、わたしを裸にして、服を頭の上からすっぽりとかぶせた。
 …わたし、かわいい?そうかわいいの…ちっとも見えないけれど、ちょっとあなた、じゃまよ、先生が見えない…あ、この白い人たちは、看護師だったんだ、いま気づいたわたし。みんなてきぱきと、わたしの身体も器械も、ベッドも部屋も、なにもかもかたづけた。ほんとうに手際よく…ばいばい、さようなら先生、さようなら白いみなさん…つーとすべっていくわたし。なんだか、気持ちいい…ドアを、廊下を、赤いランプを、人々を追いこして、わたしはすべった。ゲートが開き、箱のなかでストップ…ああ、落ちる!気持ちいい…どこまでも落ちて!ずーと落ちて…落ちて…止まった。ゲートが開き、スカイブルーのまぶしい世界へ放り出されたわたし…いい気分!少し眠ろうね、こんなにいい気持ちなんだから、揺れるベッドのなかで……

 わたしはベッドのまま運ばれた。そして、ベッドのままお家へついた。わたしのお家、白い壁、赤い窓、母の顔…ただいま!帰ったの、「りょう」が帰ったよ…だれもいない、だれひとりいない、お家…そうだ、みんな、みんな死んでしまったのだから、だれもいないね、ちょっと看護師さん、ひどくしないで、そう、ゆっくりね、ここよ、ここ、母のお部屋…
 わたしは母の部屋へベッドのまま入っていった。もうひとつベッドがあった。ミントブルーのシーツがふくらんで、だれか眠っていた。だれ?わたしはたずねた。答えはなかった。おなじミントブルーの医務服を着た看護師が入ってきて、白い看護師と少し言葉を交わして、わたしのそばへやってきた…
「りょうさん、こんにちは…」…なぜか懐かしい気持ちがした。わたしの心のなかに、グジュッと音をたてて、なにか生あたたかいゲル状のものが流れ込んできた。
「これからわたくしが、おふたりのお世話をさせていただきますね」…なんで、なんで、なんで「あや」なの、「あや」がいるの?この声は「あや」じゃない!わたしの眼ではよく顔は見えなかったけれど、声はたしかに「あや」の声だった…あや?あや?あやじゃないの?…
          * *  

 …わたしは目覚めた。ここはどこだろう?見たことのない部屋だった。すべてが白かった。壁もカーテンも、シーツもベッドも、わたし自身も純白だった…ああ、たぶんあの世かもしれない。はじめて見るあの世界。すべてが白く、汚れもなく、穢れもない世界。わたしがあこがれた、この空間は、わたしのものになったのだ、ついに…
「鵜沓さん、起きて!」白い女が立っていた。
「さあ、身体拭きますよ!」そう言ってわたしのシーツをいきおいよく剥がした。そして、わたしの着ているものを手際よく脱がし、身体を拭いた。すみずみまで、耳の穴から、足の指のあいだまでも。わたしはそれをじっと見ていた…わたしを横向きにしたあと、ひっくり返し、背中も拭いた。首も、お尻も、足の裏も…なぜかわたしは女たちのなすがままで、力が身体のなかにひとつも残っていないかのようだった。腕を持ち上げられても、人のもののようだった。背中も、太腿も、足の先も、ほかの人のものだった。なにも感じないし、どの部分も動かせなかった。たぶん脳みそのみ生きていて、身体は死体なのだろうと思った。ただ目玉だけは、白い女たちを追っていた。裏返されてもなお、左右に眼を動かして、状況をつかもうとした。
「はい、おわり!」「綺麗になったわね!」「それじゃまた来ますね」
 女たちはそう口々に言って、あっというまに消えていった。あとには、白い、なお白い空間が残っていた。

 天井を見つめていたわたしは、その白い天井に、真白いがゆえに、だれかの顔、人の姿が浮かんでくるのを待った。白という色は、とても濃厚で、とても暗く、とても破壊的な色なのだ。白の補色が暗黒だということをあなたは知っている?わたしの眼は壊されて、なにも見えなくなっていたのか…暗闇以外の色彩も感じられなくなっていた。けっして眠っているのではない、暗さとその圧迫力をちゃんと感じていたから。
 手で、空を切ろうとしたけれど、わたしの手は、なかった。手も、それに続く腕も、見えなかった。脚も見えないし、身体すらなかった。さっき、白い女たちに拭いてもらっていた身体は、どこ?わたしの可愛い、からだ…
 考えることは、心をつらくするだけだなと思った。だからわたしは、考えることをやめた。思うことも心を冷たくさせるだけだった。だからわたしは、思うこともやめてしまった。残されたのは、ただ、目玉を左右に振るだけ。それはけっして楽しい作業とはいえなかったけれども、いまのわたしには、この暗闇にいるわたしには、唯一存在を示すための行動だった。でもまばたきができないのか、しだいに目玉は乾いていき、左右する動きはだんだんと鈍くなり、軋む音をさせて、止まってしまった…目玉の前に、まん前に、なにかがいた。鼻から出る息がわたしの唇にあたっていた…ご、ごめんなさい、お母さん!ごめんなさい、ゆるして!…だって、母の匂いがしたから、母だと思った…
「りょうちゃん…」ああ、やっぱり母だ、母の声だ、懐かしいお母さんの…
「りょうちゃん…起きて」わたしの身体をゆすった…ああ、血が流れる、身体中に熱い血が流れ下っていく、指先も、胸の中心も、足の先までも、血がしびれるように、めぐっていった。
「りょうちゃん、おはよう…」

 眼を開けると、あやがいた。わたしのベッドの横に立って、わたしの顔をのぞき込んでいた。これは幻だった、きっと幻なのだと思った。そうでないのなら、わたしは、いや、わたしたちは、天国で再会したのだ。きっとそうだ。天国、あの世、あの世界、わたしがあこがれた、父も母も、伯母も、あやもいる、あの世界…
「ちょっと、りょうちゃん!」パシッと、あやがわたしの頬をぶった…もういちどぶった…あら、あやじゃない。わたしはほほえんだ。
「あやちゃん?」…ふふふ、あやじゃないの?
「なに言ってるの、りょう、早く起きなさいよ!学校遅れるよ!」
「学校?…」わたしは依然として、だれかにだまされているのだ、きっと。時がもとに戻るはずはなかった。あの時に、あの時のわたしに。
「お母さんは?…」わたしはためしに、あやにたずねた。
「お母さん?なに言ってるのよ!…お母さん!」あやはキッチンに向かって叫んだ。
「なに、あやちゃん…りょうちゃん、起きた?」…母だ、間違いなく母だ!わたしのお母さん!…ああ、お母さん、抱きしめて、わたしを抱きしめて!
 わたしは母を抱きしめた、しびれたままの腕で、強く、抱きしめた、あたたかい…ほとんど炎のようにあたたかい!…そして、次の瞬間、母は見事に砕け散った。焼けすぎた魚かなにかのように、粉々に、いやな臭いを残して、砕け散った。
「ほら、あや?お母さんて、こんなものよ!」…わたしのお母さんて!
 …もうだれもいなかった、真白い部屋のまま、わたしはひとりぽつんと、そこに存在していた…

 …わたしはふたたび、目覚めた…
私の身体が、水に浸かっているのがわかった。腰ぐらいまで、水に浸かっていた。水がときどき、きらきらしている。私のスカートの裾が、水のふちで揺らめいていた。制服のスカーフが近くに落ちて、沈んでいた。わたしはそれを水のなかから拾いあげ、眼のまえにぶらさげた。紺色がさらに濃くなって、ほとんど黒に見えた。
 わたしは思い出した。お屋敷が燃え落ちるのをここで見ていたことを。美しい燃え方だった。空は一面の火の粉に被われて、炎の動きとともに、右に左に振りまかれ、倒れる柱や壁や、無数に舞う瓦が、滝のような水とともに降り落ちてくるのを見ていた。けっしてそれは幻ではなかった。わたしの身体に降りかかるそれらの痛みを、わたしは覚えていたから。水が跳ねて、眼に飛び込むけれど、まばたきもできずに見ていたから。そのうちに、人々がやってきて、わたしの身体を頭と足をつかんで持ち上げ、うすいベッドに載せた。わたしにはすべてが黒く見えたけれども、すべての状況がわかった。わたしの手も胸も脚も、冷たく硬くなっていたけれども、すべての感覚は、たましいのなかにあった…
 ああ、りょう!…ここよ、りょうちゃん!わたしはここにいるよ…ここに、いる…
 暗闇とはほんとうは、すべてを含む深い海なのだと、わたしはさとった…

 …ふふふ、こいつは完全に混乱したな!わたしがどれだけお前たち親子を妬んでいたか知るまい!このわたしの計画がフィナーレを迎えて、もうすぐ完成するというのに、わたしをまだ「あや」だと思ってるなんて、間抜けな母親だ!わたしは正しい「りょう」であって、にせものの「りょう」ではないんだよ、お母さん、お母さま、ママ、あたしのママ!
 
 …ハハハ…わたしは父のような?いや、校長のような笑い方を知っていたんだ。下品なあいつらの面を見てるだけで反吐が出るんだ!だからみんな地獄へ送ってやったのさ。この背中のやけどを作ったのは、あのばか女、優子だったんだよ、聞いてる?ママ…わたしが腕を押さえられて、ベッドに押しつけられて、校長からレイプされてるとき、あの女はわたしの脚を持ってひろげやがった!ことがすむと、ストーブで焼いた包丁をわたしの背中に、記念だと言って押したんだ。くそ!人間の苦しみを知らないやつらめ!

 おまえたちもなんだよ!おまえとりょう、にせものの「りょう」…わたしがどんなに母親に、ほんとうの母親に逢いたかったか、おまえにはわかるまい、わたしは母親から切り離されて、どれだけその胸が、あたたかい胸が欲しかったか…わたしはひとりでいつも、ぽつんと、知らない家で、動かない、動けない長い旅をしていた…どこにも辿り着けない、どこにも待っている人もいない、長い旅、終わりの無い、旅を…知らない家の母は、わたしを叩くのが趣味だったんだ、いくどもいくども叩いては、わたしを熱いお湯につけて、教育だと、うなずいていた…そうなんだよ、ママ、わたしはあなたに…逢いたかった、ほんとうに、逢いたかった…ああ、遅い、遅すぎたんだ、もうだれも、わたしさえも、もとにはもどせない!…

 わたしは、ゆっくりと、母親の首を絞めた。絞めながら、お湯のなかへ沈めた。いくらもがいてもだめだよ、わたしの計画にかなう力なんて、どこにもないのだから!…母の口からたくさんの泡が出た。いくつもいくつも重なって、まるで人魚の息のようだ…そのうち、母は動かなくなり、長い髪の毛が、ゆっくりと、銀糸のように水の布のなかを沈んでいった…

 ああ…お母さん、ごめんなさい…わたしそんなつもりじゃなかったのに…わたしはあなたの子でしょ?あなたが産んだ、りょう?…あや?……わたしは…わたしは……


 …わたしは、そのままの姿で、お家を出て、お屋敷の墓地をさまよった…なんてすてきな気持ち、すてきな、夜…わたしは、生まれたてのようだった、生まれて暗闇に落とされた赤子のように、手足を振って、嬉しさを表した…薔薇の棘がいくつも身体を傷つけたけれども、それは、母の苦しみとはくらべものにならないほどのちいさなことだった…ああ、お母さん!母はどこ?あなたたち、知りません?…わたしは薔薇の木に青く光っている少女たちに聞いてみた…みんなそっぽを向いて、知らんぷりだった、でも、そんなことはどうでもよかった…お墓、お墓、お墓、わたしのお墓は?わたしのお墓はどこ?あなたたち、知りません?…みんなして、指差した…ちゃんとあるじゃない、ここに、わたしが座っていた、その石…お尻の下で、冷たくなっている、この石が、わたしのお墓?…お母さんは?お母さんのお墓は?…どこ?……
 わたしの手からノートが落ちた。幻影は消えて、母の手のひらに溜まった泪が光った。
「お母さん…わたしはなにもの?わたしはだれの子?わたしはどこに生まれ、どこに行くの?ねえ、お母さん、教えて!」
 わたしは母の肩を揺すって、母の眼を覗き込んだ。母は、呆然と正面を見ていた。その正面には、わたしがいるはずだったが、わたしを見ていなかった。母はなぜなにも言ってくれないのか、わたしが知りたいことをなぜ隠しているのか…こんな心を乱すノートよりも、母自身から聞きたかった、母の口からじかに、聞きたかった…お母さん…わたしは母の唇に、自分の唇を重ねて、舌を入れた…
 母は悲しげな眼をして、わたしのなすがままにしていた。わたしはしだいに自我を忘れていった。だって、わたしが何者かだれも説明できないじゃない、あなたにわかる?この苦しみが、この痛みが。血が痛いのだ、身体を流れる蛇のような血が、痛かった…母の舌がやわらかく、わたしの舌の上で泳いだ。わたしはその動きを止めるために、母の舌を噛んだ。強く噛んだので母は思わずのけぞって、わたしを突き離した…ふふふ、お母さん、ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったよ、許して…母は、笑って許してくれた…
 
 わたしが誰だっていいじゃないか、わたしはここにいるわたしだし、ずっとここに、母といっしょに暮らしてきたわたしなんだから…わたしたちはもう三日もなにも食べていなかった。お腹がすいた…ねえお母さん、なにか食べようよ!…わたしたちはキッチンへ行って、なにか食べ物をさがした。冷蔵庫のなかもさがしたけれど、なにもなかった。すべてが、干からびて、カビが生えて、腐っていた。冷凍室を見た…ああ、スープが。母が作って冷凍しておいたスープがあった。わたしはそれをあたためて、お皿に盛って、母とふたりで、向かいあって食べた。ときどきひたいがあたって、母も、わたしも笑った。おいしいスープだった。なにか黒くて白い虫が入っていて、ぬるぬるの食感が気持ちよかった…え?お母さん、なに?あ、これはきのこだね、わたし、虫かと思っちゃった、ごめんね、でもおいしいね、これ…母も唇にその虫のようなきのこを挟んで、笑った。わたしも唇に挟んで、そして、吸い込んだ…ああ、やっぱりお母さん、わたしはあなたの子だね。だってこんなに心が通じるもの、よかった、わたしはお母さんの子供、ほかのだれでもないあなたが産んだ、わたし…

 それから、母と、お風呂へいっしょに入った。「あや」といっしょに入ったように、母の背中を流し母の胸をさわり、お湯をかけあって、お湯のなかで抱きあった…ああ、気持ちのいい肌、お母さん、大好きだよ!わたしを産んでくれてありがとう…
 母がわたしの背中を撫でてくれた。いくども、いくども…だんだんと同じところを撫ではじめた。急にわたしの身体を回して、わたしの背中を見た。三本の細いケロイドがあった…
「あなたは…あなたは…」母が震えだした。手も身体も震えて、お湯が波立った…「あなたは、だれ?」母が震える声で聞いた、わたしはゆっくりと母の方へ向きなおって、言った「りょうよ…」母はわたしの顔を見つめた…「りょう?…」そうよ、本物のりょうよ!「あや」と呼ばれ続けてきた「りょうよ!」…
「お母さん…あたしはりょうよ、ほんとうのりょうなのよ…お母さん、りょうと呼んで、ちゃんとりょうと呼んで!」
「…あなたは…あなたは、あやなのね!」
「ちがう、あたしはりょうなの…お母さん、あたしはりょうなのよ!」
「…あなたは…りょう?…」

 秋も過ぎ、小雪の舞う寒い日、わたしはこの「墓地」に立った。お屋敷の焼け残った柱が黒く、過去の空白を埋めようと天を指していた。わたしがなぜここを「墓地」と呼んでいるのかというと、薔薇の木のあいだにいくつかの墓標が立っていたからだった。墓標かどうかはわたしにはわからなかったが、そのように見えた。「いくつか」というのは、正確には四つだった。二つは大きく、あとの二つは小さな、ほんとうに小さな可愛い石が並んで建てられていた…わたしは母に詳しく聞く必要性を感じた。母は自分の部屋でベッドに座り、古ぼけたノートを見ていた。わたしを見ると、やさしくほほえんだ。

 「お母さん、あの薔薇園にあるお墓…お墓でしょ?あれは誰のもの?」わたしのとつぜんの質問に、母は少したじろいで、ノートを手から落とし、わたしを見つめた。「ねえ、話してよ、わたしに…ぜんぶ!」わたしは母に詰め寄った。なぜこんなことを母に対してするのかわたしにも理解できなかった。何か切迫した状況を、自ら作り出しているかのように思えた。
「…このノートは、あなたのお父様のものなの…」わたしが拾いあげたノートの上に手を置いて母は言った。
「これにすべてが書いてある…あなたの知りたいすべてが…」わたしはノートを開いて見た。なかに書かれてあるものは文字には見えなかった。紙の繊維をただなぞったように見えた。見つめていると、しだいに何か風景のようなものが浮かんできた。わたしはあわてて眼をまたたいた。ノートのなかから映像が浮かび上がるなんて…ノートを撫でてみたけれど、ただの紙と、ただの白い色と、模様のような文字があるだけだった。見まいとしても眼がそこに惹きつけられ、見てしまう…またわたしはそれを見つめた…ああ、浮かんでくる…木々が風に揺れて不安げだった。銀色の波が次々と渡っていき、風の方向を示した…ああ、あの木だ、あの冬の日に香る花、その花が花の形のまま、雨のように降りそそいで、ノートから母の手のひら、母の手のひらから床へ落ちていった…木の枝にぶらさがるふたつの天使!白いそのふたつは、美しいドレープを長く垂らし、ゆっくりと回転していた…ああ、あのふたりだ!あの部屋で見たふたり、腕を赤い糸で縫い合わせ、首から上にロープを伸ばしていた、ふたり…この木はオガタマノキだと母は言っていた、その木にぶらさがる父と伯母…お母さん、このふたりのお墓なの?…わたしは心でつぶやいた…そう、あなたのお父様、道緒さんと、お姉さまの麗紗さん…母が答えた…ふたりは双子なの?…そう、双子なの…そしてわたしは、おふたりの兄妹だった…

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